邪馬台国 菊池郡山門説 -うてな遺跡-
古代日本の謎として長く議論が続いてきた邪馬台国の所在地。300年以上にわたる論争は、いまだ決着を見ていません。
前回、まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像で示しましたとおり「邪馬台国は強国ではなかった」という視点を元に、その所在地を突き止めてみようと思います。
従来説の問題点
邪馬台国畿内説の問題点
畿内説は、魏志倭人伝の重要な記述である「自郡至女王國 萬二千餘里」(帯方郡から女王国まで12,000余里)を無視しています。また、「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」の「南」を「東」の誤りとする根拠のない解釈を行っています。
さらに、箸墓古墳の築造年代を西暦240〜260年とした春成秀爾の研究「古墳出現期の炭素14年代測定(国立歴史民俗博物館2011)」はIntCal09での研究結果を報告していますが、較正曲線に欧米産の樹木を使っていたため実際の年代よりも古い時代の結果がでてしまうという問題が指摘されていました。
同論文のサードオーサーに名を連ねる坂本稔は2020年に国際研究チームの一員として、日本産樹木のデータも加えてより日本の実態に近い放射性炭素年代の較正モデルであるIntCal20を発表し、これまでの考古学試料についてもIntCal20に基づく再評価の必要性を指摘しています(鷲﨑弘朋「緊急レポート!! 炭素14年代:国際較正曲線IntCal20と日本産樹木較正曲線JCAL」日本古代史ネットワーク)。

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邪馬台国畿内説を支えてきた年代論は、2020年に発表された新しい国際標準の科学的基準「IntCal20」の登場によって、大きな見直しが迫られています。このIntCal20は、日本の樹木年輪データを全面的に採用したことで、日本の年代をより正確に測定できるようになった画期的なものです。
この最新の科学的基準に照らすと、畿内説の最大の物的証拠とされる箸墓古墳の年代について、二つの大きな疑問符がついています。
第一に、これまで畿内説の根拠とされてきた国立歴史民俗博物館(歴博)の「3世紀中頃(240~260年)」説ですが、その計算の前提となった統計モデルそのものに、深刻な問題があることが指摘されています。歴博内部の研究者である坂本稔氏が2022年に発表した検証によれば、このモデルの統計的な信頼性を示す「適合度」はわずか16%しかなく、学術的に許容される基準値(60%)を大きく下回っています。これは、モデルと実際の測定データがうまく合っていない、ということを意味します。
第二に、このモデルの問題とは別に、新しいIntCal20を用いて年代を再計算すると、箸墓古墳の築造年代は3世紀末以降へと大きくずれる可能性が、複数の研究から指摘されています。
これらの科学的な再検証は、箸墓古墳の築造と卑弥呼の没年(248年頃)が近い、という畿内説の根幹をなしてきた年代観を揺るがすものです。つまり、「邪馬台国畿内説」は、その最大の拠り所であった年代論そのものが、今や根本から見直されなければならない状況に直面しているのです。
しかし、あろうことか2024年に某公共放送が制作した「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」においては2011年の春成秀爾の研究報告を畿内説の論拠として挙げています。

この番組は私に「弥生時代の記事を書かなければならない」という強い動機付けを与えてくれたものなので、そういう意味では感謝はしていますが、安本美典が「NHKスペシャル 古代ミステリー 第1集「邪馬台国の謎に迫る」の番組の徹底批判」で指摘している通り、NHKは取材をして裏付けを取るという報道機関としての最低限の文化を持ち合わせてはいないようです。
邪馬台国九州説(特に福岡説)の問題点
魏志倭人伝には帯方郡(現在の韓国ソウル近郊)から邪馬台国までの行程が記されています。この記述を正確に理解することが邪馬台国の位置を特定する上で重要です。邪馬台国九州説を支持する研究者の中には、魏の使者は伊都国までしか訪問しておらず一大率に取次を依頼したのみで、それ以降の行程は伝聞によるものだとする「放射読み」説を採用する傾向があります。 しかしこの解釈は魏の皇帝の勅命の重要性を軽視しており、実際に建中校尉梯儁が邪馬台国を訪問し王に謁見したという記述と矛盾します。
魏志倭人伝はいくつもの文献を元に書かれていますが、そこに記された倭地に関する詳細な情報は西暦240年に建中校尉梯儁等が邪馬台国へ赴いた際に得られたものと考えます。それは決して博物学的な旅行記などではなく、倭の地が敵地となった場合に備え利用可能な戦略物資の有無や習俗、そして帯方郡から女王卑弥呼がいる邪馬台国までの道のりを明らかにするという戦略的意図の元に報告書は作られたことでしょう。
「放射読み」説は投馬国を魏使の行程から外すことになってしまい、投馬国が魏使の行程と無関係であるならば、なぜ遠隔地の投馬国を魏志倭人伝に書き記さねばならなかったのかという疑問が生じます。また5万戸を有したとされるの地理的要件の説明も果たせてはいません。投馬国の比定地を合理的に説明し得ないことが「放射読み」説の弱点です。
また北部九州説の一部では、対馬・壱岐の面積を表現した「方400余里」や「方300余里」を、帯方郡から邪馬台国までの総距離里である「12000里」の一部と誤認しています。
対馬と壱岐の面積だけを魏使の行程に含め、他国の領域を無視するのは理に合わず、そもそも100m(メートル)+100㎡(平方メートル)の和は200m(メートル)にはならないのと同様に、単位の異なる計算は成り立ちません。
つまり、「邪馬台国は朝倉にあった」で朝倉歴史研究会が主張するような、不彌国から邪馬台国(女王国)までの距離は600里ではなく、正しくは1300里となります。
この誤認をもって「直線読み」を否定することは的はずれな議論であり、むしろ邪馬台国朝倉説自体の再検討が求められます。
本稿では魏使の行程を「直線読み」としています。また「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」という記述も正しいものだと捉えた上で、邪馬台国の位置を現在の熊本県、菊池郡山門の地「うてな遺跡」に比定しました。本稿では、先行資料にさらに傍証を加え、邪馬台国が菊池郡山門 -うてな遺跡-であることの検証を行います。
魏志倭人伝の「到」と「至」の違い
「到」と「至」は日本語では同じく「イタル」と読むため同じ字と誤解されがちですが、台湾人学者の張明澄は『誤読だらけの邪馬台国: 中国人が記紀と倭人伝を読めば (ジアス・ブックス 3)』において『三国志』などの中国古文では、「到」はA点からB点へ移動して着く(A点から離れる)という意味となり、「至」はA点からB点まで及ぶ(A点から必ずしも離れない)という意味として明確な違いがあることを指摘しています。言葉の意味としては「到」は英語のreachやarrive toに相当し、点的な概念として何かがある一点に着くことを意味します。一方「至」はtillやuntilに相当し、線的な概念として一時的な通過点であることを表します。同じ文章内で両字が使われる場合、明確に異なる意味で用いられており、混同して使われた例は見られません。また「到」と「至」は漢字の三大要素である形、音、義のすべてにおいて異なり、発音と陰陽の観点からも、「到」は現代音「タウ」、中古音「トウ」で陽音に属し、「至」は現代音「ツウ」、中古音「チイ」で陰音に属します。中国語において陽音は動・大・多・到・活など良い意味の字が多く、陰音は静・小・少・至・死など悪い意味の字が多いという特徴があるとしています。
『史記』『漢書』『三国志』でも「到」と「至」には明確な用法の違いがあります。「至(zhì)」は基本的で多用された語彙で、「到達する」「着く」の基本的な動詞として広く使用され、一方「到(dào)」は「至」ほど一般的ではなく、字形的には「矢が標的に到達する」という意味の甲骨文字から存在はしますが、限定的な使用となり、具体的な目的地への到着を表現します。
「「到」と「至」の違いはない」という解釈「誤読だらけの邪馬台国: 新古代史の散歩道(by 南畝)」をする方もいますが、こちらの方は『漢字海』という現代の辞典を引用して3世紀の用法を説明しようとしており、自己矛盾を犯しています。古代中国語の語彙は、時代とともに意味や用法が変化するため、現代の辞書的定義だけでは当時の微細な使い分けを捉えきれない可能性があります。
魏志倭人伝において、目的地を示す「到」が使用されているのは、数ある地名のなかで「到其北岸狗邪韓國」とした渡海地点である狗邪韓國と「東南陸行五百里 到伊都國」とした伊都国のみに用いられています。女王の都する邪馬台国においてすら「至」が用いられており、邪馬台国は魏使にとって当初の目的地ではなかったことが窺がえます。
このことから、魏の使者の訪問は伊都国までであり、伊都国以降の行程は伝聞情報にすぎないとする論評もあります。
しかし、例えば魏の使者へ与えられた魏の皇帝からの勅命が「詔書印綬を奉じて倭の伊都国へ赴き、倭王へ拝暇せよ」という内容であり、伊都国に到着してもそこには代官しかおらず、女王之都する所は伊都国からさらに南にある邪馬台国だったと知った時、果たして魏の使者は伊都国の一大率に詔書印綬と下賜品を渡して帰国するでしょうか。無論、答えは否であり、拝暇倭王するという命題を達成するために、当初の予定にない邪馬台国へ「至」ることになったのでしょう。伊都国から先の行程は魏にとってはまったく予定外のことであり、そしてこれはおそらく勅命の重みも知らず、通常の交易と同等の案件と考えていた女王国側にとっても予想外のことだったろうと思われます。
魏志倭人伝の距離と方角からの考察(直線読み)
魏志倭人伝には、帯方郡(現在の韓国ソウル近郊)から邪馬台国までの行程が記されています。

帯方郡から奴国(現在の福岡市博多区付近)までの距離を合計すると10,600里となります。帯方郡から邪馬台国までの総距離12,000余里から奴国までの10,600里を引き算すると、奴国から邪馬台国までの距離は1,400里となります。
魏志倭人伝における1里の長さについて
この1里の長さはどのくらいなのでしょうか。当時の中国本土の標準里は1里=434mとされていますが、谷本茂は春秋戦国時代末期から前漢にかけての著作とされ、中国最古の数学書の1つとされている『周牌算経』の洛陽とその南北千里で夏至の正午に80寸の測量棒の影の長さの実測値を元に、三角関数による現代の自然科学知識で分析し、1里は約76~77mと導き出しました。そしてこの数字は古田武彦の短里説と一致したことから標準里以外にも短里の存在が示唆されています(古田武彦・谷本茂共著『古代史のゆがみを正す: 短里でよみがえる古典』)。この他、『三国志』における「短里」の使用が、三韓と倭地に限定されるという「地域的短里」説を安本美典は『「邪馬台国北部九州説」六つの証明』「 1.邪馬台国への里程論」で紹介しており、またToYourDay氏は自身のBlog記事 『古代史の散歩道』「倭人伝随想 「倭人伝道里の話」司馬法に従う解釈」において、中国の里制度では公的な道里の単位である「普通里」は一里あたり約450mで一定しているが、「史記」「漢書」から財政経済に関する記述を選び訳出した『漢書食貨志』に見える畝-里は、殷周代に広域国家が形成されつつある時代の地方聚落としての「里」が書かれているものと見え、「家」が15m四方と仮定すると、「里」は、75m四方程度となることから倭人伝だけは理由は不明確ながらも「普通里(450m)」ではなく、約75mの「里」が使用されていたとの見解を述べています。
地理的にも対馬国の拠点集落と考えられる三根遺跡と壱岐の原の辻遺跡間の距離が80km前後となり、その距離を魏志倭人伝では1000余里と記されていることからも、魏志倭人伝で用いられている1里の長さは434mではなく、およそ75m程度と考えることができます。
また対馬の面積708.6 km²を「方400余里」と表現しています。
方里とは縦横一里の面積を指します。これから1里を求めると、
708.6 km² ÷ 160,000 = 0.004429 km²/平方里 つまり、
1里の長さ = √0.004429 km²=66.55 mとなります。
壱岐の面積138.6km²を魏志倭人伝が記す「方300里」から求めた場合は
138.6km² ÷ 90,000 = 0.00154km²/平方里から
1里の長さ = √0.00154km²=39.25mとなり、こちらも桁数としては「標準里(434m)」ではなく、約75mの「短里」に近いことがわかります。
これらは作為なく単純に計算から求めた結果です。「短里」についてはその存在を否定する論考もありますが、その場合、1里=434mであれば200里弱にしかならない対馬-壱岐間を1000余里とした魏志倭人伝への合理的な説明が求められます。
邪馬台国が存在した範囲
以上のことから、仮に1里を75mとし、奴国を比恵那珂遺跡(福岡市博多区)として比恵那珂遺跡から邪馬台国までの距離1,400里(105km)を地図上に示すと、邪馬台国の位置は大分県の北西部から熊本県北部までの範囲内にあったと考えられます。

奴国の位置
なお「奴」の読みについて、唐時代の長安方言である「漢音」では「ド」となりますが、『詩経』や『切韻』などの韻書の押韻パターンから、上古音では「ナ(nˤa)」や「ナグ(nag)」、中古音では「ノ(no)」や「ヌ(nu)」と推測されています。
また古代日本語においてはアルタイ語と同様の頭音法則が存在し、『万葉集』巻5・892 山上憶良にある「鼻びしびしに」という擬音語の一語を除き濁音やラ行音で始まる語は見られず、濁音の「奴(ド)国」という発音は本来的にあり得ません。
つまり魏志倭人伝に記された二万戸を有する奴国とは、500基前後の井戸が掘られ、164haの規模を誇る比恵那珂遺跡に比定するのが妥当です。そして比恵那珂遺跡群は広形銅矛をシンボルとした、対馬から土佐に及ぶ強固な経済圏の中核都市でした。
地形と人口規模からの考察
魏志倭人伝には博多平野にあった奴国(2万戸)から東へ7~8kmの距離にある不弥国の南に投馬国(5万戸)があり、さらにその南に邪馬台国(7万戸)があったと記されています。戸数から人口数を割り出すことは困難ですが、博多平野にあった奴国以上の人口を養うためには相当規模の平野と十分な水源が必要になります。
九州において、この条件を満たす平野は二つあります。一つは筑後平野、もう一つは菊池平野です。筑後平野は現在の福岡県南部から佐賀県にかけて広がる平野で、菊池平野は熊本県北部に位置します。
これらの地理的特徴と、魏志倭人伝の距離・方角の記述を組み合わせると、投馬国は筑後平野、邪馬台国は菊池平野に位置していた可能性が高いと考えられます。

また先にご紹介した「弥生時代の九州(熊襲の国)」で熊本県白川より南の熊本平野は球磨郡で多く発掘される免田式土器の大量出土地となっていることから、球磨の勢力下にあったとみられます。
地名の類似性からの考察
古代の地名は、その音や意味が時代を超えて受け継がれることがあります。魏志倭人伝に記された国々の名称を晩期上古音(LHC: Bentley (2008))で読んだものと、後の時代の郡名との間には類似性が見られます。
例えば、一大(*ʔjit-dajʔ)国は壱岐国石田郡、末盧(*mɑt-lɔ)国は松浦郡、伊都(*ʔi-tɔ)国は後の怡土郡となっています。
この類推を投馬国、邪馬台国に当てはめると、「投馬」という音は「妻」に類似し、「邪馬壹」という音は、後の「山門」という地名に通じる可能性があります。
投馬 筑後国上妻郡・下妻郡(*do-maˀ=妻)
(筑後平野:福岡県久留米市・八女市・筑後市・広川町近辺)
邪馬壹 肥後国菊池郡山門(*zja-mraʔ-ʔjit=山門)
(菊池平野:熊本県菊池市・山鹿市・合志市)
狗奴 肥後国飽田郡以南~球磨郡(*koˀ-nɔ=球磨)
(熊本平野+人吉盆地:熊本県熊本市~鹿児島県北西部)
なお、普段われわれは邪馬台国と通称していますが、本来魏志倭人伝の表記では「邪馬壹国」となっているためここでは「邪馬壹」読みを採用しています。
「邪馬壹国」と「邪馬臺国」の表記変遷に関する考察
「邪馬壹国」「邪馬臺国」のどちらが正しいかという表記論争について、中古漢語において「壹」と「臺」の韻母は明確に異なります。「壹」は脂韻に属し復元音は [-it]、「臺」は咍韻に属し復元音は [-ai] です。この韻母の相違は単なる誤字や写本ミスでは説明できず、意図的な表記変更を強く示唆しています。
史料の編纂時期を考慮すると、3世紀末に編纂された『魏志倭人伝』では「邪馬壹国」と記されており、それより後の5世紀初頭の編纂である『後漢書』以降は「邪馬臺国」と表記されています。この時系列的変化は、壱岐の「一大」「一支」表記論争と同様の性格を持つものと考えられます。
つまり、どちらが正しいかという二者択一の問題ではなく、3世紀末から5世紀初頭のどこかの時点で、邪馬壹国自身が名乗りを変更したか、あるいは邪馬壹国を滅ぼした別の国が「邪馬臺国」の名を襲名した可能性が考えられます。
この解釈に従えば、中国史書の記録は以下のように理解できます。3世紀には実際の外交相手である「邪馬壹国」を正確に記録し(『魏志倭人伝』)、5世紀以降は改名「邪馬臺国」からの情報修正を反映しました(『後漢書』以降)。
この時代変遷説を採用すれば、中国史書の表記変化は一貫して正確な記録を行っていましたが、日本側の政治変動が表記変化をもたらしたということになります。
菊池郡「山門」
平安時代の地誌『和名類聚抄』には、肥後国菊池郡に「山門」という地名の存在が記録されています。この「山門」は、現在の菊池市の一部に相当すると考えられています。

弥生時代の九州勢力図
これまで弥生時代の九州各地域の勢力について考察してきた内容に、魏志倭人伝の記述を加えたものがこちらの図になります。

末盧国 肥前国松浦郡
広形銅矛交易圏 対馬、壱岐、伊都、奴、不弥、豊の国、西四国にまたがる広形銅矛をシンボルとした通商連合都市国家群
女王国連合 邪馬台国を含む有明海周辺の肥の国諸国連合(邪馬台国・吉野ケ里他)+伊都国(支石墓分布域)
邪馬台国への行程は建中校尉梯儁の報告によるもの
魏志倭人伝の記述の信頼性を評価する上で、その成立過程を理解することは重要です。
魏が倭国に使者を派遣したのは2回あります。1回目は正始元年(西暦240年)の建中校尉梯儁の派遣です。
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩
<現代語訳>西暦240年、帯方郡太守である弓遵は建中校尉の梯儁等を倭国へ派遣した。梯儁等は詔書と印綬を捧げ持って倭国へ赴き、倭王に授けた。
並びに、詔をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は魏使に対し、詔の有難さに感謝の意を伝えた。
2回目は正始八年(西暦247年)の塞曹掾史張政の派遣です。
其八年太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
<現代語訳>西暦247年、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
張政は卑弥呼の死後も邪馬台国に滞在し、その後の政変を目撃していますが、彼の報告には年号の記載が無いなど、断片的なものにならざるを得なかったようです。
そのため邪馬台国への行程の記述は、梯儁の報告に基づいていると考えられます。
建中校尉梯儁使節団の規模
魏志倭人伝には「遣建中校尉梯儁等」と記されています。この「等」という表現は、梯儁が単独ではなく、随員を伴っていたことを示唆しています。
当時の中国の軍制を参考にすると、校尉という地位は700名から数千名規模の部隊を率いる指揮官でした(後漢・三国志時代の官職・軍官編)。さらに、魏の皇帝から邪馬台国への下賜品の数量を考慮すると、使者団の規模は少なくとも千人規模、場合によってはそれ以上だったと推測できます。
その裏付けとなる事柄として、魏の使者が当時の貿易港伊都国へ直接上陸したのではなく、その上陸地点が末盧国だったことが挙げられます。
末盧国での上陸地点・呼子
魏使の上陸地点が伊都国ではなく末盧国になっています。「原の辻=三雲貿易」ではその名の示す通り、伊都国の三雲遺跡へ貿易船は直接乗りつけます。弥生時代の倭の船は丸木舟が主体でした。

現在より5mほど海面が上昇していた弥生時代の伊都国は遠浅の海岸線が続き、喫水の浅い船であれば砂浜へ上陸することが可能でした。しかし魏使たちは経由地である伊都国へ向かうにあたり、なぜか末盧国へ上陸してから陸路伊都国へ向かっています。しかもその行程たるや「草木茂盛 行不見前人(草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない)」と道なき道を行く様を嘆いている通り、普段の通商ではまったく利用していない道を使ったことが記されています。
伊都国の砂浜への上陸ができなかった理由として、魏船が大部隊の輸送と下賜品の運搬のために喫水が深い船を使用していたことが考えられます。
船の喫水の深さは積載量が大きいことを表し、丸木舟では運べない量の物資、もしくは人員の移動があったことがうかがえます。
そのため、末盧国での上陸地点となりうるのは、伊都国と同様に遠浅の海岸線である唐津ではなく、リアス式海岸であり喫水の深い船が接岸できる呼子であったと考えられます。
ここは弥生時代は未開の地でしたが、加部島が日本海の波頭を遮り、古代律令以降は官道が整備され駅路も置かれることにもなる天然の良港でした。

魏志倭人伝では「遣建中校尉梯儁等」と8文字で簡単に表現しています。しかし弥生時代の数千から数万戸のクニグニにとって、統制が取れ、おそらくは武装していたであろう千名規模の遣使団という名の軍隊の通過は脅威的なものだったことでしょう。
「水行」「陸行」の定義
なお「水行」「陸行」の定義について、安藤邦雄氏はNoteのBlog記事『魏志倭人伝を「春秋の筆法」で読み解く』「6.水行と陸行」で、『史記』における「水行」の一般的な用法(船による移動)を熟知していたはずの『三国志』の編者である陳寿がその全六十五巻中で「水行」「陸行」の語を倭人伝でのみ使用しており、また後漢の時代の最古の漢字字典である『説文解字』における「水」の"平らか"という意味と「陸続」の"山の峰々が連なる様"の語意から、倭人伝における「水行」は"平地を行く"、「陸行」は"山地を行く"という独特の意味で理解されるべきであると指摘しています。
「水行」の意味としては、「水上を行く」「海・川沿いを行く」などが考えられますが、本稿では大意として「川沿いの平地を進む」の意味で捉えておきます。
なお、この定義に従うと、帯方郡から狗邪韓国へ到る「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」の表記についても、乗船して海岸沿いを進むという解釈ではなく、内陸の川沿いを行軍していたことになります。
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
私もはじめは帯方郡から海路で狗邪韓國に「到」と読んでいました。 しかし、セウォル号沈没事故もあったように半島南西島嶼部の航海は超難所で、南船北馬の魏が使者の派遣に船を使ったとは思えなくなりました。 つまり從郡至倭とは、帯方郡を出発し、漢江湾に沿って(循海岸)漢江上流へ川沿いに進み(水行)、半島の国家群を過ぎながら(歷韓國)、さらに漢江支流である達川を進めば(乍南乍東)、標高640mの分水嶺である鳥嶺に行きつきます。そこを越え、洛東江支流から洛東江へ、その流れに沿って南へ下っていけば、半島での渡海地点である狗邪韓国へ辿り着きます(到其北岸狗邪韓國、七千餘里)。 そして、はじめて船に乗ったので「"始" 度一海千餘里、至對馬國」と続いたのだと考えています。
また倭人の館さんは自身のサイト「韓国内「水行」の非常識を正す」で、倭人伝の「循海岸水行」という記述から定説とされる、帯方郡から狗邪韓国への「沿岸航行」による船上交通ルートについて、その非現実性を強く主張しています。
その根拠として、まず当時の韓国では陸路がすでに発達していた点を挙げます。一世紀には弁韓の小国が楽浪郡に定期的に往来し、鉄を供給していた事実から、郡と韓諸国間には頻繁な陸路での交流があったと指摘し、陸路であれば約500kmで済む距離が、海路では800km以上と大幅に遠回りになるにもかかわらず、危険な海路を選ぶことは理に反すると強調しています。加えて、魏の使者が「北馬」の民、つまり馬を好む騎馬民族であったことから、遠回りしてまで船を使うとは考えにくいと述べています。他国への使者が贈り物を損傷なく届ける責務を負う以上、陸路より数倍危険の多い海路は避けるのが常識であるとも付け加えています。
筆者は、倭人伝の記述についても独自に解釈しています。「乍南乍東」という表現は、西海岸を南下する船が「南」と「東」を繰り返すことはあり得ず、陸路をジグザグに進む様子を表していると主張しています。
さらに、当時の海上交通のインフラが未整備であった点も指摘しています。韓国の西海岸は塩田が多く、砂浜で潮の干満差が大きいため、船の係留に適した港が少なかったと推測。また、潮の流れが速い海域もあり、小型船での航行は困難であったことを示唆しています。当時の船は夜間航行が難しく、悪天候時には数日間の停泊を余儀なくされることもあったため、陸路に比べて必要な港の数が多くなり、その維持も困難であったと論じています。
「里」についての表記が「魏志倭人伝」内で特殊であったのと同様に、「水行」が船上交通を意味するものでない可能性については留意が必要です。
兵站で解ける「水行二十日」「水行十日陸行一月」の謎
魏志倭人伝の記述の中で最も謎とされてきたのが、不弥国から投馬国を経て邪馬台国に至る行程です。「水行二十日」「水行十日陸行一月」という記述を正しいものとし、かつ直線読みで解釈すると約105kmの距離を2ヶ月もの時間を要して移動したことを示しています。このあり得ないほど遅い移動速度が邪馬台国九州論における最大のハードルとなっています。この距離に対してかかった時間の謎は、千人規模の大部隊を賄う糧食の確保に手間取ったというのが真相ではないでしょうか。
「自郡至女王國 萬二千餘里」として魏では邪馬台国までの正確な距離を把握していました。しかし1400里(105km)ほどの距離に「水行二十日」「水行十日陸行一月」と合計2ヶ月もの時間がかかってしまったことは邪馬台国の兵站能力の貧弱さを示すことになります。
帯方郡に帰還した魏の使者建中校尉梯儁は復命という名の業務報告を行うにあたり、通常の行軍では考えられない長い時間が費やされたことについて報告を行う義務がありました。ただしこれを明確に記してしまうと、報告者である梯儁も戦時下の魏の兵力を(事情があったにせよ)遊ばせていた責任問題に発展しかねません。レビラト婚の報告と同様に、魏の正史は邪馬台国にとって不利になる記述は婉曲な表現となっており、直截の言及を避けています。「事実は記せどすべては記さず」という誰も傷つけない解決策が「水行二十日」「水行十日陸行一月」という表現になったのかもしれません。
「水行二十日」「水行十日陸行一月」は時間についてだけの概念を表しており、そこに距離の情報は含まれておりません。距離については魏志倭人伝に記載されている「自郡至女王國 萬二千餘里」を以て正しいとするべきでしょう。
投馬国の領域
不弥国の場所は諸説ありまだ特定はされていませんが、現在に至る地名の連続性から福岡県糟屋郡宇美町に比定する説が有力です。
その領域は現在太宰府市となっている宝満宮竈門神社あたりまであったのではないかと考えています。
不弥国の南にあった投馬国については筑後平野の上妻郡、下妻郡の領域および筑後川南岸に比定しました(筑後川中流域については要検討)。筑後川と矢部川に挟まれた丘陵には多くの弥生遺跡の存在が確認されています。
律令時代には上妻郡、下妻郡の2郡に分割されていますが、それ以前は単に「妻」と呼ばれる地域であったと推測でき、また郡を分割できるということは相応の人口がいた領域だったことが窺がえます。


系譜学者の太田亮は『高良山史』で、高良山を擁するこの地が、魏志倭人伝に記された投馬国であるとしています。
筑紫の君磐井の陵墓である岩戸山古墳も妻郡内にあり、2023年に南西にあたる場所に新たに吉田・辺田ノ上遺跡が発見されました。岩崎遺跡群と合わせると、この付近に投馬国の首都機能があったのではないかと予想します。
なお、高良大社は『延喜式神名帳』では「高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列し、筑後国一宮とされ、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされていますが、不思議なことに記紀には登場しません。
また近隣には吉野ケ里遺跡がありますが、こちらは肥前国神埼郡の領域となり、「肥の国」のグループ、つまり女王国構成国の一国だったと考えられます。和名抄では「加無佐岐」とあり、音で近いのは魏志倭人伝に邪馬台国の「旁國遠絶」のひとつとして記された、華奴蘇奴國でしょうか。
郡名が弥生時代の国々を表すように、「肥」や「筑」などの旧国名はその上位のグループの存在を想起させます。
「肥の国」であった肥前と肥後がなぜ陸路で繋がっていないのか不思議に思っていましたが、この「筑紫」の投馬国が間にあったがゆえに「肥」は陸続きになれなかったものと思われます。
魏使の行程
魏志倭人伝の行程である「水行二十日」「水行十日陸行一月」を含め、自説に当てはめると次のようになります。

東松浦半島の末盧国から背振山地を越えて伊都国へ至る「東南陸行」がほぼ山地を踏破しています。また投馬国内の領域を通過する際は「陸行」ではなく、「水行」という言葉で語られています。これは投馬国への「水行二十日」を宝満川や筑後川水系つたって南下し投馬国へ至り、投馬国から邪馬台国へ至る「水行十日、陸行一月」を矢部川支流を南下し瀬高(筑後山門)へ至り、瀬高から旧西海道(現国道443号沿い)の筑肥山地を越えて邪馬台国へ至ったと読み解くことができます。
なお、魏志の表記で不可解な点として、末盧国から東南五百里で伊都国、さらに東南百里で奴国とあるように現在の地理感覚では東北東を東南としていることがあります。理由は不明ですが、魏志の表記には約30°ほど方角にずれが認められます。
しかし邪馬台国畿内説が主張する南が東となるような90°のずれはありません。

邪馬台国 菊池郡山門説
肥後国菊池郡山門を邪馬台国に比定したのは私のオリジナルではなく、江戸時代の学者近藤芳樹が先鞭をつけ、昭和初期には系譜学者の太田亮が邪馬台国を熊本県北部の菊池郡山門郷とその周辺とし、投馬国を福岡県の上妻・下妻・三潴の三郡の筑後川流域としていました。こちらは、ほぼ私の考えと一致しますが、「水行十日陸行一月」が、投馬国ではなく、対馬から邪馬台国までの距離を示しているとした部分が私の考えと異なります。
私が邪馬台国熊本説に興味を持つきっかけとなったのは伊藤雅文の「邪馬台国は熊本にあった!」という書物です。こちらでは、九州説に多い放射読みの否定や、魏使は伊都国に留まったのではなく実際に邪馬台国へ訪問していることを指摘するなど大変参考になる記述が多いですが、狗奴国の位置を熊本県の外に置いていること、そして「水行二十日」「水行十日陸行一月」の記述を改ざんとしている点が自説とは異なっています。
また、丸山雍成は「邪馬台国魏使が歩いた道」で免田式土器の出土状況から狗奴国を肥後南部の球磨郡とし、熊本県の福岡県に匹敵する鉄器出土状況や交通史学の観点からうてな遺跡を邪馬台国に比定しています。
結論は私と同じであり、こちらの書では熊本県の弥生遺跡の詳細が記されており大変参考にさせていただきました。
しかし残念ながら「水行二十日」「水行十日陸行一月」に関しての結論がなく投馬国の位置が不明瞭となっています。
邪馬台国の比定地 菊池郡山門
「菊池郡山門」という地名は和名類聚抄に記録が残っているだけで、2024年の現在、地図上には存在していません。
平凡社「日本歴史地名大系」によると以下の記述があり、迫間村、龍門村・水源村の範囲が該当することがわかります。
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「也万登」と訓を付す。同書は山門は山間の意で、「谷」を「波佐万」と読むことから山間を「波佐万」と読むとし、旧迫間村および龍門村・水源村(いずれも明治二二年成立、現菊池市)一帯をこれにあてる。

それぞれの村も現在は菊池市に合併されてしまい町名として残るのみですが、その領域を衛星写真上で赤く囲み、弥生遺跡と魏使の行程をプロットしたものが次の図となります。

後の鞠智城を含む菊池川中流域にヤマトの地名が存在していたことになります。
弥生中期までは平和の海、パクス有明海を謳歌していた肥の国連合ですが、弥生後期では緑川、白川を狗奴国に抑えられ、有明海の制海権の確保も難しい状況となっています。
甕棺墓文化が衰退した理由も、肥前のエリアで生産されていた大型甕棺を海路で肥後エリアまで運べなくなってしまったためと考えられます。
また魏の使節団が有明海を進まなかったのは、制海権の不確かな有明海ではなく安全な内陸の通行を選んだことが理由なのでしょう。
なお筑後国山門郡も邪馬台国九州説の有力な候補地のひとつですが、7万戸を養える平地も水源も足りておらず、また菊池平野が狗奴国だったとするとその脅威に対して地政学的に無防備です。
筑後国山門郡瀬高はあくまで邪馬台国への入り口だったと解釈すべきでしょう。
邪馬台国を構成する遺跡
方保田東原遺跡は約35haの規模の弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落遺跡となり、全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品が出土しています。出土土器も、山陰系や近畿系など西日本各地から持ち込まれたとみられる土器が出土しており、菊池川中流域の拠点的な集落であったと考えられています。
西弥護免遺跡は大津町中心街の北側、阿蘇外輪山西麓の標高約160mの台地上にあり、宅地造成に伴う事前発掘調査により全容が明らかとなりました。多量の鉄鏃が見つかり、あまりにも出土鉄器が豊富過ぎるため、この地では弥生時代から既に製鉄が行われていたとする説もあります。居住区は楕円形の環濠をめぐらし、墓地はその東西の外側にありました。墓地は土壙墓と木棺墓で、別地点に弥生前期と中期の甕棺一一基が出土しています。環濠は数条あり、環濠に囲まれた集落がしだいに拡張されていったようです。
邪馬台国の対狗奴国最前線基地であったと目していますが、現在は住宅街となっています。
うてな遺跡
熊本県菊池市七城町台にある「うてな」という地名を冠したこの遺跡は、縄文時代から室町時代まで続く複合遺跡です。ここからは、中国の「新」の時代の硬貨である貨泉や、全国的にも珍しい凝灰岩製の腰掛が出土しています。
特に注目すべきは「うてな」という地名です。魏志倭人伝には「因詣臺 獻上男女生口三十人」という記述があり、ここでの「臺」は魏の皇帝が政務を執る場所を指しています。邪馬台国の人々が魏にならって自国の首都にも「うてな(臺)」の名を冠した可能性があります。
これらの遺跡群は、弥生時代から古墳時代初期にかけて、菊池川流域が政治的・経済的に重要な地域であったことを示しています。

菊池川流域の地理的特徴
邪馬台国を菊池川流域に比定する上で、この地域の地理的特徴を理解することは重要です。
中原英の研究によると、現在の菊鹿盆地と呼ばれる菊池川中流域には、約1700年前の弥生時代に「茂賀の浦」と呼ばれる湖が存在していたことが示唆されています。主要な弥生遺跡は、この推定される湖の周辺に分布しています。
この「茂賀の浦」という湖の存在は、
豊富な水資源の供給
水運による交通・物流の利便性
漁業などの食料資源の確保
防御的な地形の形成
などの利点をもたらしたと考えられます。これらの要素は、大規模な政治的中心地の形成と維持に不可欠なものです。
縄文時代から続く複合遺跡であるうてな遺跡が、邪馬台国の中心地、具体的には女王卑弥呼の居住地であった可能性は十分に考えられます。

堤克彦は熊本・菊池の歴史アラカルト(5)私流「魏志倭人伝」の読み方 ③-「菊池山門説」の正否において、次のように述べています。
確かに弥生後期には佐賀県吉野ヶ里遺跡に匹敵する「うてな大集落」の存在は確認されている。近くには山鹿市の「方保田東原遺跡」の製鉄・銅などの工房施設などがあり、かなり進んだ地域であったことは間違いない。
しかし3世紀中期の邪馬台国時代には、菊池平野(菊鹿盆地)全体がまだ「茂賀の浦」の湖底にあり、崩壊したのは4世紀後半と推定される。その後干地化したが、まだ多くの大小の湖沼が散在していたため、決して豊かな水田農耕地帯ではなかった。また『魏志倭人伝』にある女王卑弥呼の「宮室」や「楼閣」「柵城」などの遺構は出土していない。
このように論じていますが、縄文期から弥生期にかけて後退した「茂賀の浦」によって、うてな遺跡周辺には広大な稲作可能地帯が広がっていました。また灌漑設備の貧弱な古代において、天然の貯水池となりえた「茂賀の浦」の効能についての認識を欠いていると言わざるを得ません。
そして、うてな遺跡の発掘箇所は上図「うてな遺跡航空写真(南上空より)」にある通り台地の縁の一部を調査したにすぎず、台地中央部を含む台地のほとんどが2024年現在未調査となっています。調査していないことをもって、「宮室」や「楼閣」「柵城」などの遺構が出土していないと断じてしまうのは早計なのではないでしょうか。
古代の交通路と鞠智城の存在
邪馬台国菊池郡山門うてな説を支持するもう一つの証拠として、古代の交通路と鞠智城の存在が挙げられます。
延喜式以前に設定された駅路は、鞠智城の南麓、うてな遺跡の脇を通っていたことが知られています(『鞠智城跡』熊本県文化財調査報告第一一六、一二四集、熊本県教育委員会)。

また、7世紀に築かれたとされる鞠智城の存在も注目に値します。
「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」と『続日本紀』にあるように白村江の戦い後に築かれた水城・大野城・基肄城とほぼ同時期に建造されたとされます。鞠智城ですが九州防衛について他の城に比べ、あまりにも内陸にあり、その戦略的重要性には疑問が生じます。
しかし、もし唐が魏の時代の冊封国であった邪馬台国の場所を知っており、大和朝廷がそこへの唐の進軍を恐れていたと考えれば、鞠智城の立地に合理的な説明がつきます。つまり、大和朝廷は邪馬台国の所在地を知っており、そこを防衛する必要があると考えたのではないでしょうか。

「うてな」の地が、古代日本にとって極めて重要な場所であったことを鞠智城はその存在をもって証明しています。
狗古智卑狗という名前
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王
<現代語訳>(邪馬台国)その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。
魏志倭人伝に記される狗奴国の官クコチヒクについて、その音感から「菊池彦」であるとして、漠然と菊池川周辺が狗奴国の支配領域であるかのような印象を与えてきました。
しかし前項「まぼろしの邪馬台国~その虚像と実像」で、伊都国駐在の一大率という女王国の官名が、一大(壱岐)国担当長官であるという考察を行いました。卑弥呼の時代には、業務対象とする地域名を官の名前に当てる風習があったと考えられます。
つまり「狗古智卑狗」についても、狗奴国における対菊池攻略将軍という意味合いであったと考えることができます。
弥生時代の熊本県下における鉄器の出土状況について詳細を記した菊地秀夫の「邪馬台国と狗奴国と鉄」では、狗古智卑狗を菊池川流域の拠点集落を治める肥後狗奴国の対女王国連合への前線長官としています。しかし、逆にクコチ(菊池)が狗奴国の攻略対象として重要な地点であったという証左となりえるのではないでしょうか。
畿内説論者が否定する邪馬台国「山門」説
桃崎有一郎は「邪馬台国畿内説の新証左―「倭」「ヤマト」地名の相互転移と王業・諸侯国―」武蔵大学人文学会雑誌 2023年度・第55巻 第1号において、次のように述べています。
「倭」「ヤマト」の相互転移と邪馬台国
これら「ヤマト」の原形と見なせて、大化以前に遡及し得る既知の地名は二つしかない。しかも、それらのうち九州北部の「山門」(令制の筑後国山門郡・肥後国菊池郡山門郷)は該当しない。「門」字で表す「ト」は上代特殊仮名遣いで甲類だが、本稿で話題にする「ヤマト」の「ト」は乙類だからである。すると、候補には「邪馬台」国しか残らない。
「邪馬」は「ヤマ」の音写でよいとして、「台」が「ト(乙類)」の音写であることは論証を要する。『魏志』倭人伝の流布本(百衲本等)が「邪馬壹国」に作るため、「台(臺)」でなく「壹」が正しいと主張する旧説もあるが、字は「台(臺)」で間違いない。
かつて新井白石が『古史通惑問』で「邪馬台国」と訓じたように、「台(臺)」をタイと発音するのは近世~現代日本人に自然なため、「ヤマタイ」の訓が定着してきた。確かに、『康熙字典』に列挙された韻書の示す反切で「臺」の音を調べると、『広韻』は「徒哀切」、『集韻』『韻会』『正韻』は「堂来切、音苔」とする。日本語圏の発音に適用すれば、すべて「タイ/ダイ」である。
また、現今の中国語音韻学では復元者を問わず、「臺」の隋唐中古音を「ダイ」の近似音に復元する。その韻母は二重母音になるので、二重母音がない日本語の「ト」を音写するのに「臺」字は適切でない。時代を遡及しても、韻母は南北朝期に「ə i 」(皆・灰・咍・廃と同じ)、魏晋に「ə ї」(咍と同じ)であり、やはり二重母音であって、日本語「ト」の音写には適切でない。しかし、先秦上古音では復元者を問わず、「臺」は「ダ」と「ドゥ」の中間の近似音に復元される(両漢の発音は不明)。韻母は単母音の短母音であって二重母音でなく、発音は日本語「ト」を音写するに十分な近さと認められる。
桃崎氏の邪馬台国論について、音韻学的観点から幾つかの問題点があります。
まず「台」字の音価について、先秦上古音での「台」の復元音が日本語「ト」に近いという主張には、時代設定上の問題があります。『魏志』倭人伝が成立した3世紀の魏晋時代には、既に「台」は二重母音化していたとされます。邪馬台国の記録時点での中国語音を基準とすべきであり、それより数百年前の先秦音を持ち出すのは時代錯誤と言わざるを得ません。
また、桃崎氏も認めている通り「臺(台)」の字は上古音də̂、中古音daii、漢音dʌiなどとなり、「ト」という発音にはなりません。むしろ「ト」に近い音は「邪馬壹」の復元音 *ja-maʔ-it に求められます。これは「邪馬"臺(台)"国は大和(山門)ではない」という重要な示唆を含んでいます。
なお、言語体系も発音も異なる3世紀の中国人が、古代日本の上代特殊仮名遣いの「ト」が甲類か乙類であったかを正確に聞き取り、かつ表記できていたのかは疑問です。
また「邪馬台国」と「邪馬壹国」の表記問題について、古田武彦らが主張するように、原本は「壹」であった可能性を排除できません。桃崎氏が「『魏志』倭人伝の流布本(百衲本等)が『邪馬壹国』に作るため、『壹』が正しいとする旧説もあるが、字は『台(臺)』で間違いない」と断言される以上、その根拠を提示していただきたいと思います。
さらに瀧音能之は「『卑弥呼は邪馬台国の女王』はウソである…最新研究で明らかになった『近畿説vs.九州説』論争の有力説」(プレジデントオンライン)において、「武蔵大学人文学部教授の桃崎有一郎氏は、「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読む根拠を示している。桃崎氏によると、5~10世紀頃までの中国では、「台」は「タイ」「ダイ」に近い発音だったが、『魏志』倭人伝が記された3世紀に近い時代の発音は、「ダ」と「ドゥ」の中間の音だったという。」と、桃崎説を引用したとしていますが、上記に見た通り、桃崎氏は「ダ」と「ドゥ」の中間の近似音に復元されるのは先秦上古音としており、3世紀ではありません。
学術的な検証を経た上で引用することが、学問の発展と後進の育成のために重要であると考えますがいかがでしょうか。
なお、音韻に関する論考は話すと長くなるため、こちらの全国邪馬台国連絡協議会のサイトに別稿として掲載しております。
『魏志倭人伝』「邪馬壹國」表記の音韻学的分析
―「3世紀音韻変化期モデル」の構築と音韻認識の階層性原理―(全国邪馬台国連絡協議会 2025年10月 (PDF版)
卑弥呼の墓は直径約25mの円墳
安藤邦雄氏のnote記事「9.卑弥呼の墓の「径百余歩」」は、卑弥呼の墓の大きさを示す「径百余歩」という記述を詳細に分析し、その具体的な規模を推定するものです。記事はまず、「歩」という古代の長さの単位が時代によってどのように定義され、変化してきたかを解説しています。秦の始皇帝が定めた「六尺為歩」という基準や、古い文献に見られる解釈にも触れつつ、人の足裏の長さである「足底長」こそが「歩」の基礎単位であるという見解を示します。この解釈に基づき、『孔子家語』の「1里=300歩」という記述や、倭地での1里が約75mであったという仮定から、1歩の長さを約25cmと算出し、その結果、卑弥呼の墓が直径約25mの円墳であった可能性を導き出しています。
邪馬台国の終焉
邪馬台国はその後どうなってしまったのでしょうか。
日本書紀には次のような記述があります。
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。
<現代語訳>丙申の年(396年?)、(軍が)山門県に移動し、そこで土蜘蛛の田油津媛を処刑しました。その時、田油津媛の兄である夏羽が軍を率いて迎え撃とうとしました。しかし、妹が処刑されたことを聞いて逃げてしまいました。
これは4世紀頃、山門にいた田油津媛が神功皇后により殺されたという記述です。この「山門」を肥後国山門に比定すると、これは邪馬台国の滅亡を示唆する記述と解釈できます。
それを裏付けるように、有力な弥生遺跡が存在していたにも関わらず菊池川中流域における前方後円墳の成立時期は近隣の他地域に比べ遅れ、4世紀末頃の築造となっています。これは大和王権とは異なる勢力が菊池川中流域に存在していたことを示唆しています。

大和王権による征服後、邪馬台国の存在は意図的に歴史から抹消された可能性があります。「ヤマト」という名称も、畿内の「大和」に奪われ、その領域は狗奴国の領域だったかのように扱われるようになったのかもしれません。
そして1700年経った現在でも邪馬台国は畿内にあったと主張する人々があふれています。
七城町臺の地名は、邪馬壹国の人々が遺した最後の抵抗なのかもしれません。
まとめ
・魏の使者団は実際に邪馬台国を訪問していた。
・使者団の規模は千人以上の大規模なものだった。
・投馬国は筑後平野、邪馬台国は菊池平野に位置していた。
・「水行二十日」「水行十日陸行一月」という長い移動時間は、大規模な使者団の輸送と食料確保の困難さによるものだった。
・「うてな遺跡」を含む菊池川中流域は肥後「山門≒邪馬台(壹)」と呼ばれていた。
・菊池川中流域は有力な弥生遺跡があるにも関わらず前方後円墳の築造は他地域より遅い4世紀末頃となっており、大和王権とは異なる勢力がいた。
・「山門」は4世紀末頃に大和王権によって滅ぼされ、その存在は歴史から意図的に抹消された。
・大和王権は肥後「山門」を重視し、鞠智城を築城した。
・邪馬台国の中心地は、肥後「山門」現在の熊本県菊池市七城町の「うてな台地」にあった。
結論
箸墓古墳の築造年代についての最新の年代測定技術の適用
INTCAL20などの最新の年代測定技術を用いて、箸墓古墳の年代を再評価する必要があります。箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の没年と異なる結果となった場合には、邪馬台国畿内説が論として成立し得るのかの再検討が必要になります。
うてな遺跡の本格的な発掘調査の必要性
うてな遺跡について邪馬台国であった可能性について論じてきましたが、考古学見地から見た場合の決定打に欠けており、現状では机上の空論にすぎません。
熊本県が1992年に行ったうてな遺跡の調査は道路整備のためにうてな台地の端の部分を調査しただけで、台地全体については手つかずとなっています。
うてな遺跡の全容を明らかにするため、うてな台地全体の大規模かつ系統的な発掘調査が必要です。特に、弥生時代後期から古墳時代初期にかけての遺構や遺物に注目し、この地域が政治的中心地であった可能性を検証する必要があります。
余談
魏使の規模が行軍の遅延の理由としましたが、魏からの下賜品の運搬にも時間がかかっていたのではないかと思われます。
豪華な下賜品と物流担当者の苦悩
今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口
銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
<現代語訳> 今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。
絹織物の文様がどのようなものだったのかは、きもの研究家の石崎功さんが考察されていますので興味のある方はご覧ください。
古代中国の単位である「匹」は約9.4mであり、五匹は47m、五十匹は470mということになります。古代の絹布の幅は9寸5分~1尺(29~30cm)とされており、下賜品の絹布も幅1尺1匹が巻物1巻相当であったと思われます。
また漢代の1斤を226.67グラム、1両を14.167グラムと推算されており(岩田重雄, 「新莽嘉量について」『計量史研究』)、8両で113g、50斤で11.3kgの重量となります。
下賜品の内訳
絳地交龍錦(深紅色の錦織) 五匹(47m)
絳地縐粟罽(深紅色の毛織敷物) 十張
倩絳(茜色に染めた薄い絹布) 五十匹(470m)
紺青(濃い藍色で染めた薄い絹布) 五十匹(470m)
紺地句文錦(藍色の錦織) 三匹(28m)
細班華罽(花模様の毛織敷物) 五張
白絹(無地の絹織物) 五十匹(470m)
以上で絹織物158巻、敷物8張、また以下の品々が卑弥呼個人宛に下賜されています。
金 八両(113g)
五尺刀 二口
銅鏡 百枚
真珠(水銀) 五十斤(11.3kg)
鉛丹 五十斤(11.3kg)
これらの品々を魏の皇帝曹叡は丁寧にも次のように詔書に認めています。
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
<現代語訳>帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。
目録とともにこのような添え書きまでついていましたので、輸送を担う梯儁はさぞ胃の痛む思いをしたことでしょう。輸送中、もし欠品や破損などしたら魏の面子に関わります。
また「皆装封付難升米牛利(皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する)」という曹叡の文言から、下賜品だけは難升米たちが邪馬台国へ持ち帰ったとする読み方もできますが、これだけの分量のものを彼らだけで搬送できたとは考えにくく、「(梯儁は)并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物(詔をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した)」とあるように、実際は梯儁が詔と下賜品をセットで送り届けたのでしょう。
そして、下賜品の輸送についての責任者がもう一人いました。伊都国駐在中の一大率です。「傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯(文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない)」と2000字の魏志倭人伝の中にわざわざ記載されるくらいです。伊都国通過後は邪馬台国へ自ら同行していたとしてもおかしくはありません。
そして品物を間違いなく届けるにあたって、物流担当者が行うことは古今東西変わりはありません。キャンプ地ごと、しかも毎日、これらの下賜品の検品を行ったものと推測します。
指揮命令系統も言語も文化も異なる梯儁と一大率という初対面の2人の人物が行う下賜品の輸送という一大事業が難事業であったことは想像に難くありません。まさに不弥国以降の水行陸行は「船頭多くして船山に上る」を体現することになったことでしょう。
