93歳父のちゃぶ台で見つけた「袋とじ」。老老介護の現場で知る、枯れない生きがい【老老介護ズタボロ日記】#5
某月某日
父に借金はない。当たり前だが、御年93にもなって借金があっては、残された家族としては途方に暮れるばかりだ。
その代わりにと言っては何だが、貯金もない。見事なまでにゼロだ。
生命保険に入っているわけでもない。唯一、財産といえるのは、私の家が建っているこの土地の名義が、まだ父のままであることくらいだ。
しかし、父には「欲」がある。それも「さすがに、もうないよな」と思っていた性欲が、ちゃんと存在していたのだ。
毎日3回、ご飯の前に課しているスクワットの効果と、日に日に増してくる初夏の熱気も手伝って、日増しに元気になっている父。
だがある日、夕ご飯を部屋に運んでいった私は、見てはいけないものを目の当たりにしてしまった。
グラビアの切り抜きである。
父のちゃぶ台の上には、いつも新聞の広告が十数枚ほど束ねて置いてある。その中に、若い女性の水着や裸の写真が巧妙に挟み込まれていたのだ。
「まだ、取っておいたのか……」
母親も他界し、さすがにもう処分したと思っていたのだが、ちゃんとカモフラージュして保存していたのである。
振り返れば、父がまだ元気だった頃、自転車で近くのスーパーに出かけては、買い物もせずにレジ脇にある雑誌ラックから週刊誌を2〜3冊買ってくるのが日課だった。
それを母の目を盗んで、ご丁寧にもハサミやカッターを使って、切り抜いては収集していたのだ。
なかでも「袋とじ」がお好みのようで、カッターでは切れすぎるのだろう、物差しを差し込んで上手に開けては「ヒッ、ヒッ、ヒッ!」と楽しんでいた姿が目に浮かぶ。
隠し場所は、タンスの一番上にある鍵付きの小さな引き出しだ。そこへA4のファイルに入れて大切に保管していたのだ。私がすべて知っているとも知らずに。
食欲、性欲、睡眠欲。これらを人間の「三大欲求」という。ものの本によれば、食欲と睡眠欲は生命を維持し、心身を回復させるために絶対不可欠なものだ。
その中で唯一、なくても生きていけるのが「性欲」だと思っていた。それが父の場合、ちゃんと存在する。
まさかそれを見ながら日夜、自慰行為に走っているとは想像もできないが(もしそうだとしたら、実の息子としては怖すぎる)、寿命が尽きかけたつむじ風のような日々のなかで、彼の中に性欲の根っこが、かすかに、しかし確実に残っているのだ。
そのことを指して「エロオヤジ」とか「スケベ爺」とか、一笑に付す資格は私にはない。なぜかって? 私にも、たしかに衰えたとはいえ性欲が少なからずあるからだ。
父親にとって「生きがい」ってなんだろう、と考えることがある。
毎日、朝昼晩と三度の飯を食らい、眠くなったら好きな時に寝る。そして、たまに溜め込んだエロ写真を盗み見しては、ほくそ笑む――。
その小さな、しかし強烈な楽しみこそが、生きる喜びであり、彼の「生きがい」そのものなのだろう。
明治の文豪、坪内逍遥はこんな言葉を残している。
「禁欲主義というやつは、矛盾を秘めた教えで、いわば生きていながら、生きるなと命ずるようなものである」
この教えが突く「矛盾」とは、実にシンプルだ。
禁欲主義は「欲望を抑えよ」「快楽を断て」と説くが、そもそもそれらはすべて「生きている人間」にしか不可能な命令である。
生きている限り、欲が出るのは自然の摂理。それなのに「欲を捨てろ」というのは、人間らしさを否定し、「生きながら死ね」と言っているようなものだ、と逍遥は言いたいのだ。
文学者として人間のありのままの姿を見つめていた逍遥は、型にはめて人間を否定する思想よりも、自然な欲求をそのまま受け入れることのほうが大切だと知っていたのだろう。
そう考えると、父の生きがいに対して息子がちょっかいを出したり、あらぬ心配をする必要はなさそうだ。
ただ、唯一、私が憂いているのは、父が100歳になった時、果たして私のほうが健康体のまま、性欲を保って生きているか、ということだけである。
次回は、某スナック菓子ではないが「やめられない、とまらない」とばかりに、あればあるだけ食らいつく93歳の満腹中枢について、我が家を揺るがす「食のリミッター解除事件」の全貌を明かしたい。(#6に続く)
