口で感じる空間*味覚と空間の、意外な関係
シリーズ:味覚を彩る食空間|第1回 イントロダクション
もうひとつの感覚
前回までの連載『魂がよろこぶ空間へ』では、ユハニ・パッラスマーの思想を手がかりに、視覚・触覚・聴覚・嗅覚と空間の関係を探ってきました。
五感にはもうひとつの感覚があります。「味覚」です。
ここからは「味覚を彩る食空間」と題して、味覚という感覚を起点に、台所とダイニングなどの「食空間」を整えることが、思考・空間・身体・時間をどのようにととのえるのかを見ていきます。
味覚は取り込む感覚
五感をあらためて並べてみると、味覚だけが他の四つと根本的に異なる性格を持っていることに気づきます。
視覚は光を受け取ります。聴覚は音の振動を受け取ります。触覚は皮膚で外界に触れます。嗅覚は空気中の分子を受け取ります。これらはすべて、外からやってくる刺激を身体で受け取る感覚です。
しかし味覚だけは違います。対象を体内に「取り込む」ことで、はじめて成立します。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスはこう述べています。「林檎の味は、林檎の実そのものではなく、その実と口内との接触にある」と。味わうとは、対象と自分の身体が接触し、境界が溶ける瞬間のことです。世界を内側に迎え入れる、唯一の感覚といえます。
この「取り込む」という性格が、味覚を他の感覚とは異なる次元に置いています。食べることは、単なる栄養摂取ではありません。世界と自分が溶け合う、身体的な経験です。
パッラスマーが語る「口腔と空間」
ユハニ・パッラスマーは、実は味覚についても独自の洞察を残しています。建築思想家として知られる彼が、なぜ味覚を語ったのか——そこに、食空間を考えるための重要な手がかりがあります。
「触覚と味覚の経験の間にはなんともいいがたい感覚の互換が生じる。視覚も味覚へと転換される」とパッラスマーは言います。
たとえば、精緻に磨き上げられた石材の表面や、カルロ・スカルパやルイス・バラガンといった建築家が用いる素材と色づかいは、私たちの口腔内の感覚を無意識のうちに喚起する、というのです。美しい素材は目で見るだけでなく、舌でも「感じられる」。
パッラスマー自身、ある邸宅を訪れた際に「玄関口の優美に輝く白い大理石にひざまずいて舌で触れなければという抗いがたい衝動が沸き起こった」という体験を率直に記しています。建築家でさえそのような衝動を覚えるほど、視覚と味覚の境界は私たちが思うより曖昧です。
そして彼はさらに踏み込んで、こう論じます。「建築空間の始原は、口腔という空洞だ」と。
空間の原型は、口の中にある。この言葉は、初めて読んだとき少し驚きました。しかし考えてみると、赤ちゃんが世界を認識するとき、最初に使う感覚は口です。舌で触れ、口に入れ、飲み込む。口腔こそが、人間が最初に経験する「内と外のある空間」なのかもしれません。
谷崎潤一郎と「味覚のもつ空間性」
パッラスマーの味覚への関心は、日本の文化にも向いています。
彼は谷崎潤一郎の文章を引き合いに出し、汁椀の蓋を取る動作で生じる感覚のかすかな転換を「味覚のもつ空間的性質」として高く評価しています。漆塗りの椀を両手で包む重さと温もり、蓋を持ち上げた瞬間に立ちのぼる湯気と香り、暗い椀の底に沈む具材が少しずつ見えてくる視覚的な変化——これらがひとつの流れとして統合されて、はじめて「汁を飲む」という体験が成立します。
谷崎が描いた日本の食の感性は、食べることを単なる味の摂取ではなく、空間と時間の中に織り込まれた多感覚的な経験として捉えています。それをパッラスマーは、建築思想の文脈から読み直しました。
食空間というものを考えるとき、日本にはすでにその思想的な土台があったとも言えます。
日常の食空間を振り返る
パッラスマーの言葉をたどってきて、あらためて日常の食卓に目を向けてみます。
食べることがこれほど多感覚的で、これほど身体的な経験であるにもかかわらず、私たちは食空間をどれほど意識してきたでしょう。スマートフォンを横に置きながら、テレビをつけたまま、仕事の続きを考えながら食べる——そういう食事が、日常のかなりの部分を占めていないでしょうか。
視覚は別の情報を処理し、思考は別のことを追いかけている。そのとき、味覚はどこへ行っているのでしょう。
口に入れているのに、食べていない。そういう時間が積み重なっていく。
食空間を整えるとは、そういった状況を少しずつ変えることだと考えています。台所とダイニングという場所を整え、食べる行為そのものを取り戻す。それが思考を静め、身体を回復させ、時間の質を変えていく——このシリーズではその連鎖を、実践的に考えていきます。
このシリーズで取り上げること
第1回(本記事) イントロダクション——味覚と空間の、意外な関係
第2回 思考が整う台所——食空間と思考のつながり
第3回 五感が出会う場所——食空間をデザインする
第4回 食べる身体を取り戻す——「味わう」ことの実践
第5回 食卓の時間が、暮らしを整える——統合
次回は台所の話です。台所を整えることが、なぜ思考の整理につながるのか。調理という行為の中に潜む、意外な構造を考えます。
