呪願の代償 第二章 ラムネ瓶 2
朝焼けがカーテンのない窓から差し込み、眩しくて涼々は目を開いた。
微かにすずめの鳴き声が庭から聞こえてくる。
夕季はすでに起きたのか、布団が畳んであった。
涼々ものそのそと起き上がると、布団を二つ折りに畳み、台所へ行った。コップに水を注いで一気に飲み干す。お腹の虫が盛大に鳴った。
空腹を堪えられず、何か食べられそうなものはないか、台所の戸棚や引き出しを開けて回ったが、そんなものがあるはずもなく、結局ガッカリして肩を落とした。流しには昨日の雪平鍋が乾かしてある。箸立にはスプーンが一本刺してあった。
生ゴミを捨てたゴミ箱を漁ると、卵の殻がひとかけあった。どうやら、夕季はおかゆだけ食べたようだった。
あの卵は涼々だけ食べたのか、それとも一個を半分こにしたのかは分からない。涼々は夕季に何か食べるものはないか聞こうと思った。
夏生が目を覚まさないように静かに家中を捜したが見つからない。玄関でつっかけを履いて、庭に出た。
雑草をかき分けて、裏庭に向かった。裏庭には井戸がある。得体の知れない黒い猫が彷徨いている場所だ。
今は朝だから、猫はいないかもしれない。そう期待しながら、角を回り込もうとしたとき、すすり泣きの声が聞こえてきた。静かにしゃくり上げている。押し殺した泣き声はすずめの声よりも小さい。
涼々はそっと裏庭を覗くと、雑草の中にしゃがみ込み、井戸に体を預けて、夕季が両手で顔を覆って泣いていた。
近づこうとして、涼々は足を止める。息を飲み、夕季を見つめた。
朝焼けの中、薄墨をこぼしたような暗い霞に紛れて、昨夜見た女が井戸の石蓋に四つん這いで丸まっていた。
首がぐるんとねじれて背中を向き、顔は濡れた黒髪に隠れている。朝日に照らされてもなお暗い影の中で、石蓋に爪を立てて引っ掻き続けている。
まるで虫眼鏡で見ているように、涼々にはハッキリと見える。爪が剥がれた指先に泥が詰まっていて、血まみれだった。破れたワンピースの柄が分からないくらい、泥で汚れている。
その女が、夕季に向かって体を傾けて、覗き込んでいる。体を傾けると、女の首がカクンと四十五度に曲がった。
涼々は声も出せずに突っ立っていた。夕季が気配を感じ取ったのか顔を上げ、涼々を見つめた。
「何?」
涙に濡れた顔を袖で拭って、不機嫌そうに訊ねてきた。
涼々は言葉をなくして呆然としていた。
夕季が、涼々の様子を憎々しげな目つきで見やる。押し殺した声音で、「こっちに来るな。昨日のこと、誰にも話すな」と言い捨てて、立ち上がった。
夕季が動くと、煙のように女が空中に霧散した。いつもの気味の悪い井戸に視線を向けたまま固まっていると、すれ違いざま、夕季が涼々に、「もう家に帰ってくるな」と吐き捨てた。
雑草の根元を、今まで隠れていた黒い猫が蠢き始める。何匹も草むらでのそのそと芋虫のように動いている。
涼々は我に返り、急いで家の中に戻った。
家に帰ってくるなと言われても、涼々に行き場はなかった。夕季にこんなにも嫌われていると思い知り、涼々の目からじわじわと涙がにじんでくる。
涼々には夕季が何故泣いていたのか、分からない。多分昨日の夜、夏生に殺されかけたのが辛かったのだろう。だから夕季は涼々に八つ当たりするのだと思った。
涼々が通う公園で、子供の姿はあまり見かけられない。知らない女に声を掛けられたという噂が立って以来、親が子供にあの公園に行くなと言い聞かせるからだ。
学校でも教師が注意を促す。皆、言うとおりにして公園で遊ばない。
それが涼々にはちょうど良かった。
誰も来ない公園の、ドーム型の遊具に潜り込む。通りを走る車のエンジン音や、通りすがる子供の歓声、自転車のベルの音。遠くから聞こえてくる音が、ドームの中に入ると、まるで現実ではないように聞こえてくる。
ひんやりとして冷たい空気と、湿った土の匂い。ざらざらのコンクリートでできた遊具の感触。ゴツゴツとして、決して居心地が良いとは限らないけれど、涼々にとって心底安心出来る隠れ家だ。
半年前に家を出て行った月乃のことをいつも考えてしまう。家にいると、どうしても恐怖が勝ってしまって、母恋しさに泣くことも出来ない。月乃の温かな腕の中が恋しかった。月乃の声や、柔らかな手、優しい声、まなざし、頭の中で蘇ってきて、いつも想像して会話をする。
目をつぶり、今日あったことや思っていることを、月乃に聞いてもらう。誰にも明かせない感情を月乃に受け止めてもらうのだ。
空想の中の月乃はいつも優しかった。何も言わず頷き、時には励ましてくれて、いっしょに怒ってくれる。でも、夏生や夕季の話をしても、月乃は寂しい表情を浮かべるだけだった。それは涼々も同じだった。
優しかった父が変わり果てて、母がいなくなってすぐに夕季も変わってしまった。もう、あの家には涼々に冷たい人間しかいない。
「わたしの場所、どこにもないよ」
小さく声に出して呟くと、胸が熱くなってきて、鼻腔がツンとした。ポロポロと涙がこぼれてきて、涼々は小さな声で泣いた。
「ママに会いたい。どこに行っちゃったの? 涼々もいっしょに連れていってほしかった」
夏生がことあるごとに、涼々と夕季に怒鳴り散らす、「月乃は男と逃げた。おまえらは捨てられたんだ」が理解出来ない。何故、その時に自分も連れていかなかったのか、理解出来ない。夕季もいっしょなら、あんなに意地悪な姉に変わることもなかったかも知れない。
会いたい会いたいと、呪文のように唱えながら、涼々はぎゅっと目を閉じる。
「会いたいよ」
この言葉が、本当の呪文のようにどこかにいる月乃に届けばいいのにと、涼々は願った。夢の中だけでも会いたい。会ってお話がしたいと、涼々は独りごちた。
流れる涙が頬を伝うままに、声も上げずにずっと泣き続けた。
体操座りで膝を抱え、痩せてゴツゴツした膝に頬を付ける。
「ママ、会いに来て」
目をつぶって、ドームの外から聞こえてくる音に耳を澄ませる。じっと聞き続けているうちに、少しずつ意識が遠のいていく。眠気に時々体の力が抜け、カクンと揺れる度にふと意識が戻る、を繰り返していると、ドームの外に人の気配がした。
涼々は気にも止めず、夢に意識を向けて、月乃と楽しく会話をするほうを選んだ。
月乃が優しく、涼々の名前を呼んで、こっちにおいでと手招く。夢の中で涼々は月乃の側に近づいていく。ドームの中は狭くて天井が低い。涼々は頭を打たないように腰を屈め、月乃が涼々を呼ぶ穴の側まで寄っていった。
「ママ」
月乃が穴の外にしゃがみ、涼々の名前を呼んだ。姿は見えなかったけれど、その声は確かに月乃だった。
「涼々」
「ママ、寂しいよ。凄く苦しいよ。悲しいよ。悔しいよ。聞いて、涼々、いっぱい我慢してるんだよ」
月乃が優しい声で相づちを打って、涼々を励ました。
「偉いね、涼々。でも、辛いね。たくさん嫌なことがあるのね。どうしようもない気持ちになるね。凄く凄く胸が痛いね」
優しい声が、涼々に話しかけた。
「お母さんといっしょに、あの怖い家から引っ越したいよ」
「分かるよ、すぐに引っ越したいね」
「お化けがたくさん出るんだよ。昨日も凄く怖いお化けがいた」
「それはとっても怖いね。昨日もお化けを見ちゃったんだね」
「お姉ちゃんもパパもそのお化けが見えないみたいなの。私しか見えないの。あんなに怖いお化けなのに」
「お姉ちゃんもパパにも見えないの? 涼々にしか見えないの?」
「そうだよ。もし、あのお化けに見つかったら、私もお姉ちゃんみたいになっちゃうかもしれない。あのお化けは、お姉ちゃんが苦しんでると出てくるんだ」
「お姉ちゃんが苦しむとあのお化けが出てくるの?」
「うん」
「涼々、いいものを上げよう。嫌なことがあったら、使うといいよ。たくさん嫌なことを吹き込んだら、涼々のお願い事が叶うよ」
涼々は目を丸くする。
「お願い事が叶うの? ママが帰ってくるの?」
しばらく沈黙が続いて、涼々は不安になった。
「ママ、ごめんなさい。どんなお願い事なら叶うの?」
「嫌な子がいるでしょ? 虐めてくるんでしょ? いなくなればいいのにって願えば良いのよ」
「いなくなれって?」
「そう、簡単でしょ」
涼々は曖昧に頷いた。愛菜が引っ越していなくなるんだろうかと、思った。そうなったらどんなに嬉しいだろう。愛菜がいなくなれば、クラスのみんなも優しくなるかもしれない。
「これ」
ドームの穴の外から、白い手がガラスのラムネ瓶を差し出した。
「これに嫌なこと、涼々の気持ちをたくさん吹き込むの。それだけでいいのよ」
涼々は白い手からラムネ瓶を受け取った。中身が入っているかと期待したが、空っぽだったので少しガッカリした。
けれど、透明な瓶の中のビー玉が、穴から差し込むか細い外灯の明かりを受けて、キラキラと輝いている。
「綺麗だね」
涼々が呟くと、スッと白い手が引っ込んだ。
「たくさん、お願い事、叶うといいね」
月乃が立ち上がり、ゆっくりと立ち去る足音が聞こえた。
「ママ、待って!」
涼々は慌てて穴から出て公園を見回した。
日が暮れて暗くなった公園には、誰もいなかった。物陰に潜む人影もない。夢を見ていたのかと、涼々は一瞬考えたが、左手に握られたラムネ瓶を目にして、夢じゃなかったのだと悟った。
月乃だと思ったけれど、全く知らない女の人だったのだろうか。でも、月乃の声だった。ラムネ瓶を持つ白い手は、爪が綺麗で月乃の手によく似ていた。
夢の中から、月乃が出てきて、涼々を慰めてくれたのかもしれない。願い事が叶うラムネ瓶を、辛くて仕方ない涼々にプレゼントしてくれたのだろうか。
涼々は信じるしかなかった。辛くて仕方ない日常の中に、月乃がくれたラムネ瓶があると思うことで、少しは耐えられると思えた。
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