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ぐひんの山 第二章 癖山 ②

 陽菜の小さな手のひらの上に載せられた赤い茱萸の実は、艶々と滴るようなみずみずしさをたたえていて、さくらんぼうみたいで可愛いしおいしそうだ。

「食べてごらん。とっても甘いよ」

 祖母に勧められて、陽菜は赤い実をちょっとだけ口に含んだ。歯を当てて噛みきると、じゅわっとまるでジャムのような甘い果肉と汁が口の中いっぱいに広がった。

「おいしー」

 陽菜は何度も祖母にねだって実を取ってもらっては次々に食べていった。

「それじゃあ、ばあちゃんは畑にいるからね。陽菜ちゃん、いつもの約束守れるね」

「うん。お山に一人で入ったらダメ。名前を呼ばれてもお返事したらダメ」

 それを聞いて祖母がニコニコと微笑む。

「そうだよ。約束守ろうね」

「うん!」

 畑に来る度に祖母と約束を交わした。いつもそれを素直に守っていた。

「約束守らなかったら、ぐひん様が来て陽菜ちゃんをパクッて食べちゃうからね」

 陽菜が怖がることを言い聞かせた。他愛ない言葉だが、五歳の子供にとっては充分に怖い。

 うんうんと真剣に頷いて陽菜はなるべく山に近づかずに遊ぼうと考えて、祖母がもいでくれた茱萸の木の下で手が届く場所に生った茱萸の実を食べた。

 いくら食べても怒られないのをいいことに、スカートを風呂敷代わりにして、もいでは食べ、もいではスカートに入れ、を繰り返していく。手も口の周りも茱萸の実で真っ赤に染めて、夢中になって食べていった。

 ふと気付くと、あれだけ鳴いていた早生まれの蝉の声が聞こえなくなっていた。シーンと静まりかえり、風も吹かない。後ろを振り返るとぬかるんだ細い林道が続いている。前も見ても同じ景色だった。

 いつの間にか、陽菜は山の中に入ってしまったようだった。どうしよう、祖母に叱られる。そういった考えのほうが先に立った。茱萸の木もいつの間にかなくなっている。さっきまで茱萸の実をもいで食べていたはずなのにおかしい、と子供心に怖じ気づいた。

 どっち側に歩けば祖母の元に帰られるのか、混乱してわからなくなった。不安と恐怖に震えながら、陽菜はキョロキョロと辺りを見回す。杉林に囲まれて、ぬかるんだ林道も延々と前後に続いている。日が陰っているのか薄暗い。夕方のはずはなかった。朝のうちに畑に出たのだから、子供でもこんなに早く夕方になるはずがないとわかる。しかし、わかったからといって、何が変わるわけもない。

 泣きそうになったけれど、子供心に泣くよりも早く祖母のところに戻ったほうがいいと思えた。

 どっちに進もうか迷っていると、右手の斜面に林立している杉林の奥で、ザザザザという音が聞こえてきた。

 陽菜は音のするほうに目をやった。

「おーい」

 間延びした太くて低い男の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。

「おーい、陽菜ぁ」

 お父さんだ、と陽菜は思った。お父さんと言いかけて、口をつぐんだ。

 父親は、朝、母親と一緒に仕事に行ったはずだ。山へ入る唯一の坂道を父親が通るのを見なかった。それに杉が並んでいる林の奥は暗くなっていて、見通すことができない。

「おーい」

 次第に怖くなってきて、陽菜はうずくまって泣きそうになった。それでも早く戻らないと、お化けが来る。逃げないと食べられてしまう。

 それで陽菜は背中を向けた方角に向かってきびすを返し走り出した。スカートから手を離すと茱萸の実がぬかるんだ地面に落ちていった。それを赤い長靴が踏み潰し、茱萸の実が血のように地面に広がった。

「おーい……陽菜ぁ……」

 声がゆっくりと追ってくるのが背中に感じられる。ザザザザという音も近づいてくる。怖くて仕方ない。夜起きて暗い廊下の先にあるトイレに行くときの恐怖に似ている。振り向いたらいけないと、陽菜は本能的に感じ取って、声から逃げた。

 走り続けて行くうちに見慣れた林道に出た。杉林が開けて茱萸の木が見える。あそこにたどり着いたら祖母が待っている。

 一生懸命走って、畑の前に出たと思った途端、辺りが薄暗くなった。陽菜は立ち止まって、畑を見るけれど、祖母の姿は無かった。そこで初めて、陽菜は声を上げて泣いた。

「おばあちゃん!」

 泣きながら暗い坂道を下る。とぼとぼ下っていると、作業服を着た年配の男が立って、こちらを見ていた。泣いているのが陽菜だと気付いた男が駆け寄ってきてしゃがみ込み、

「陽菜ちゃん、おっちゃんや。わかるか?」

 陽菜は男の顔を見て、今度は安心感から大声を上げて泣いた。聡の父親だとわかった途端に恐怖が和らいだ。

「こ、声がね。聞こえたの」

 ようやく言えた言葉はそれだけだった。うまく説明できないまま男におんぶされて、陽菜は寄り合い所まで連れてこられた。

 明るい寄り合い所の灯が、暗い夜道にはっきりと浮かんで見える。

「おーい、桐野のじいさん! 陽菜ちゃん、おったぞー」

 陽菜の両親と祖父母が慌てて駆け寄ってくる。

「陽菜、どこにいたの」

 母親に抱っこされて、陽菜はやっと泣き止んだ。

「陽菜、どこにおったんか」

 祖父が心配そうに陽菜の顔を覗き込んだ。

 言ったら怒られるかと思って、陽菜はぐっと唇を引き締めた。それを察した祖父が優しい声で、陽菜に訊ねる。

「山か?」

 陽菜は祖父には嘘をつけないと思い、頷いた。

「みなさん、ありがとうございます。お世話をかけました。おかげさまで陽菜が見つかりました」

 祖母が深々と頭を下げた。陽菜の祖父と母親もそれに続いた。

 畑仕事を終えた祖母は陽菜がいないことに気付き、慌てて村中に知らせて、村総出で陽菜を探していたのだという。

 陽菜がいなくなってから九時間が経っていた。皆、陽菜が崖に転落してしまったのかと思っていたようだ。

 母親に抱っこされたまま、陽菜は家に戻った。そこで改めて祖父に何があったのかと聞かれた。

「あのね、さくらんぼうを食べてたら、山にいたの。そしたらね、お父さんが陽菜を呼ぶの。でも、おばあちゃんがお返事したらダメって言ったから、陽菜、絶対お返事しなかったの」

「そうか、良かった。返事をしとったら、今頃陽菜はお化けに食べられとったが」

「そうよ。偉いね、陽菜ちゃん。ばあちゃんとのお約束守れたねぇ」

「もし、また同じ事があっても絶対返事をしたらダメだ。あれはそうやって人を化かして誘い込むからな」

 絶対に返事をしないで戻りなさいと祖父に強く念を押されたのだった。

 陽菜は白の熱弁を真横で聞きながら、昔、祖父に言われたことを思い出していた。あのときの祖父母の真剣な顔つきを今でも思い出せる。

 あんなに強く祖父母に注意されていたのに、陽菜は妹の弥生に言い聞かせることをしなかった。すっかり忘れてしまっていた。

 もしも、弥生に忠告していたとしたら、妹は今でも陽菜の側にいてくれたはずだ。口が酸っぱくなるくらい言って聞かせれば良かった。嫌がられても何度も念を押していれば、弥生は自分と同じようにも戻ってきたんじゃないか、とそんなふうに思えてならなかった。

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