かりはらの贄巫女 シーン1 ②
空に雨雲はあっても重く垂れ込めるわけでもなく、ともすれば晴れてきそうな明るさだったが、雨だけがしとしとと降り注いでいる。
地下鉄にさえ乗ってしまえば、福北大学までドアツードアだ。福北大前駅から大学まで一分もかからない。
それでも、家から最寄り駅は遠く、早足でいかねば、雨の日などは時間がかかってしまう。叶は緩くでこぼこしたアスファルトの水たまりを避けながら、駅に向かった。
地面を見ながら歩くと、距離を気にせずにいられる。心なしかいつもより早く着くような気がするので、叶はいつも下を見て歩いてしまう。
住宅街を歩いていると、背後からバチャバチャと複数の足音が近づいてくる。小学生か中学生の集団だろうかと、叶はぼんやりと考える。いつまでも足音は背後をついてくる。
つられて早足で歩いていると、靴紐が緩んできたので、前屈して紐を結び直す。長い紐の端が水に濡れて、触るのが少し嫌だった。傘は不自然に前に倒れて前方も後方も見えない。
ようやく後ろを付いてきていた足音が叶の横をよぎっていく。黒い草履を履いた自棄に泥で汚れた足袋や白い足袋、素足でそのまま濡れた地面を歩く足、何人かの足が見えた。着物の裾は黒くて柄までは見えなかったが、叶は紐を結ぶ手を止め、一旦体を起こして周囲を見渡した。
だれもいない。背後の一直線の道に隠れる場所などない。前方は橋で、とても見晴らしが良く、幅広の川を渡っていくとそこが駅だ。
ただでさえじっとりと湿気の多い空気なのに、さらに冷たい汗をかく。首筋の毛が逆立つような寒気を感じた。
また、見た。
いつも雨の日に見る、黒い着物を着た何か。多分女なのだろうか。いつも着物の一部だけが見える。以前、何度か振り袖が翻るのを見たことがある。勘違いでなければ、あの着物も多分、黒地に木槌や手鞠の柄が描かれた宝尽くし柄の振り袖だろう。その着物は夢の中で自分が着ていたものに似ていた。
嫌な符合だが、黒い着物姿の女が何かしてくるわけでもない。見なかったことにするのが無難かも知れない。それにあれは自分にしか見えない。
一年前、雨の日、野外に出た時にだけ黒い着物姿の女を度々見るようになった。友人に「今、あそこに着物の女の人いなかった?」と訊ねてもだれも見ていないことなどしょっちゅうだった。
叶は軽いため息をつく。
夢の中の黒い振り袖と同じものを着ている、雨の日に見る女。幽霊だとはっきりと確かめたわけではない。視界の端にフッと現れて見直すと消えている。あまり良い気分ではなかった。
叶は、霊が見える。
大概は、無視していると消える。あちらから干渉してくるときもあるが、そのときも無視する。
霊はすぐに分かる。頭が異様に大きかったり、顔のパーツが欠損していたり、到底生きているはずのない傷を負っていたりと様々だが、生きている人間に近ければ近いほど、見間違えてしまうことがある。
叶にお祓いはできない。見えるだけだ。日常生活に支障を来していたのは幼い頃だけで、今は無視して、すぐに見分けられなくても生きていないと判断できるようになった。
昔は間違えて話しかけてしまうことが多かった。気づいてくれたことに霊は敏感に反応し、無邪気に自分自身を叶にアピールしてくる。
それに比べて着物姿の女は、何故だか叶に得体の知れない悪意を持っているように感じる。
まだ何かされたわけではなかったが、雨の日につきまとって離れない。叶はそんなとき、逃げるしか術がない。不思議なことに女の幽霊は屋内には入れなかった。屋内に逃げて雨が止むのを待つことが唯一の手だ。
けれど、今は屋内に逃げ込める場所がない。どこかに消えてしまっても、おそらく側にいる。いずれにしても雨が止めば、女は消える。それをひたすら待つしかない。
叶は足早に駅に向かった。早く雨に止んで欲しいと祈りながら、ひたすら地面を見つめて歩を進めた。
背後に気配を感じる。真後ろにピタリと張り付くようにして深く息を吐くような低い声を出しながら付いてくる。一つと言わず、二つ三つと数を増す。
我慢できなくなって、叶は駅に向かって走り出した。気配はしばらく叶を追ってきていたが、地下鉄の地下通路に続く階段に入った途端、音と一緒に消えた。
転げ落ちるように地下通路へ続く階段を下りていく。恐る恐る背後に目をやる。黒い着物姿の女はいなくなっていた。消えた理由はわからないが、地下通路に足を降ろして、叶はやっと安堵した。
悪夢もそうだが、雨が降ると見えてしまう。それは悪夢とセットなのかも知れない。
雨水が滴る傘を畳み、周囲に目をやると、サラリーマンや学生が何事もないように歩いている。
大学に着くまでに雨が止んでくれたらいいのにと思いながら、叶は小さく畳んだ傘をタオル地の袋に入れた。
「おはよー」
講義室の後ろの列に座った叶に友人が声を掛けてきた。
「叶、シロ先生のレポートやった?」
今から講義をする助教のあだ名を口にして、参考書を鞄から取り出す。それなりに分厚い装丁本で、民俗学をやっている人間なら、だれしもその名前を目にしたことのある著者だ。
「昔話でレポート書けって言われても、感想文しか書けないよ」
友人が隣の席に座って、ぼやいた。
叶はその言葉に頷きながら、バッグの中からレポートを取り出した。講義の前に回収するので机の上に置く。
「叶は何にした?」
「何って?」
友人が叶のレポートの表紙を凝視した。
「この漢字、なんて読むの?」
「菟足うたり村、おみず沼における人身御供伝説」
菟足村は、叶の生まれ故郷だが、生まれてこの方訪れたことがない。知っているのはこの村にある本家の菟上うなかみ家に生まれ、それから今の両親、氷川家の養女になったと言うことだけだ。
だから、叶は自分のルーツを知りたくて、菟足村のことを調べてみたのだ。そうしたらおみず沼の人身御供というキーワードを見つけ、おみず沼の龍神に人身御供を捧げる逸話を知った。いわゆる人身御供とは、神に捧げる生け贄のことだ。
「物騒なタイトルだね」
そんなことを話していると、前の席に座った男子生徒からレポートを回収すると言われて、叶はレポートを手渡した。
助教が講壇に立ち、集められたレポートを受け取っている。
講義をなかなか始めず、レポートの題材になった昔話や伝説などの雑談を始めた。そうなると助教の話は長い。横道にそれて、なかなか終わりそうにない。
助教の講義は退屈だが、雑談はそれなりに面白い。講義のテーマは『民間信仰と伝説』だ。どうも助教のライフワークらしく、何冊か書籍を出している。叶も講義で使われた、『饗庭あいば村における習俗と俗信』を読んだことがある。宮崎県の山間にあったその限界集落は、今は廃村になっているそうだ。原因は、村が熊に襲われて、住民の大半が食い殺され、残った村民が村を出てしまったためらしい。それだけ聞くと、田舎の村は怖い、という印象がある。
そういった話を、助教は楽しそうに話すわけだ。
「ところで、みなさんは『黒姫伝説』というのを知っていますか?」
ホワイトボードに講義の内容を書いている手を止めて、助教が振り返った。
「信濃——長野県北信地方に伝わる伝説です。簡単に言うと、蛇婿という異類婚姻譚の類型です。
岩倉池に住まう黒龍が、高梨家の娘、黒姫に懸想して強く姫を求めたが果たせず、黒龍は怒り、高梨家の領地に水害をもたらしました。その水害から高梨家の領地を救う為に黒姫自ら龍神に嫁ぎ花嫁となりました。その後、地獄谷の山の神によって岩倉池から追い出されてしまいます。黒龍と黒姫は大沼池という山池に移り住んだとされ、大沼池のある山は黒姫山と呼ばれるようになりました。雨乞いをすれば応えてくれるとも伝わっています。
ただし、松谷みよ子氏以外の伝説はたいてい黒龍が退治されてしまう結末を迎えます。どちらにせよ、黒姫が生け贄、異類婚のために捧げられることには変わりありません」
ここまで息も継がず一気に喋り終えたあと、少し考えて、助教は付け加えた。
「異類婚姻譚の話は前にしましたっけ?」
前列に座る、勉強熱心で助教のファンの子が、助教に聞かれて首を振っている。
「じゃあ、今の話少しわかりにくいかな……」
助教が頭をかいている。
「異類婚とは、人外の存在と人間が結婚するという種類の説話です。さっきも言った、蛇婿から猿婿など、多分日本中をひっくり返したらあらゆる種類の類話が出てくると思いますが、概ね有名なのが蛇婿。昔から蛇は各地で神聖視されていて、信仰の対象でもあります。神でもある蛇が美少年や美青年に化けて女性の元に通う説話を、大雑把にひっくるめて神婚といいます」
ホワイトボードにややかすれた字で、『神婚』と書き込む。目が悪いと見えないくらいに字がかすれていて、現に隣に座る友人が不機嫌そうに、「見えない……」と文句を言っている。
叶は頬杖をつき、睡眠不足による眠気も相まって助教の話を聞き流していた。
「蛇は往々にして龍と混同されがちで、蛇と言っても様々あり、龍蛇りゅうだと呼ばれるもの、龍神、水神、蛟みずち、そのほか水に関係する古事記や日本書紀の一部の神々も龍や蛇の形をとっているとみられています」
その辺りで、叶はカクンとうなだれて居眠りをしてしまった。
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