呪願の代償 第四章 井戸 4
四時に夕季が帰ってくるまで、涼は電信柱の陰に隠れていた。電話のお化けがまだ家の中にいるんじゃないかと思うと怖くて仕方がなかった。
「涼々。どうしたの」
夕季の声が聞こえた途端、涼々は安心してワッと泣いてしまった。
「なに、なに?」
夕季が泣いた涼々に驚いている。
「『死ぬ電話』のお化けが出た!」
「この前、言ってたヤツ?」
「うん」
夕季が困ったような顔つきをしている。
「でも、電話を止められてるのに、そんな電話掛かってくるかなぁ?」
それを聞いて、涼々はむきになった。
「掛かってくるもん。聞いたもん」
「それじゃあ、パパが滞納してる電話料金、払ったのかなぁ」
二人で家に上がり、電話を前にした。
「涼々、受話器取って確認してみてよ」
もし、あの声が聞こえたらと思うと怖くて取れない。震えている涼々を見て、夕季がため息をついた。
「仕方ないなぁ」
そう言って、夕季が受話器を取って耳に当てた。
「電話のツーツー音も聞こえないけど」
「え?」
ありえない。さっき確かに電話が鳴って、電話に出たら声がしたのにと、困惑が表情に出た。
「まぁ、涼々は昔からお化け見たりするし、本当かもしれないけど。今度電話が鳴ったら私が出るから」
夕季が涼々に約束した。
腑に落ちないまま、涼々は夕季の手伝いをすることにした。
掃除道具を取りに行き、涼々は一人でトイレ掃除を任された。
「私はお風呂掃除するから」
雑巾とバケツを渡されて、涼々はトイレへとぼとぼと歩いていった。
水の入ったバケツを窓の下に置く。
窓の外を覗くと、草むらの陰に黒い猫がいた。夜ほど元気ではない。もぞもぞと身動ぎしてじっとしている。
井戸をちらりと見ると、泥だらけの手足の歪んだ女のお化けが、腹ばいになって石蓋の上に蹲っている。髪で顔が隠れているから、ますます得体が知れなくて怖かった。
『死ぬ電話』を掛けてきたのは、絶対あのお化けだ
涼々はそう思って、目をそらした。あのお化けは四六時中井戸の側にいたり家を徘徊している。だから『死ぬ電話』が掛かってきた時も涼々の真後ろにいたのかもしれない。
夕季が殴られてる時、夕季が泣いている時に側に来てじろじろと眺めているのは、悪意があるからだし、涼々達の哀しみや苦しみが糧なのだろう。
もし、いいお化けだったら、夏生を止めてくれるし、涼々達に幸せを齎してくれるはずだ。
トイレ掃除を終え、風呂場の夕季に終わったと伝えに行った。
風呂場に夕季がいなかった。風呂場のタイルの上に掃除道具が散らばっている。その代わり、夏生の寝室が騒がしい。
涼々はドキリと心臓が縮こまった。忍び足で寝室に向かい、ふすまを少しだけ開けた。
夕季が、「ごめんなさい」と言いながら、夏生に殴られていた。
涼々の体がガクガクと震えて、金縛りに遭ったように動かなくなった。
夕季を助けたいと思った。いつもなら逃げ出してしまうけれど、夕季の気持ちを知ってから、涼々は夕季が意地悪だと思わなくなっていたからだ。
どうしたらいいか分からないまま震えていると、涼々達の寝室のふすまから、あの井戸のお化けが入ってきた。
あのお化けのせいでもっと酷いことになる。これ以上、あのお化けを喜ばせたくないと、不意に思った。
勇気を出して、涼々はふすまを開けて、大きな声を上げた。
「やめて! パパ、お姉ちゃんを叩かないで!」
涼々達の周囲を、歪んだ手足でお化けがぐるぐると回り出した。夏生は、涼々の声に驚いたのか、一瞬手を止めた。
「お姉ちゃん!」
涼々が叫ぶと、畳に蹲っていた夕季が起き上がってよろよろと涼々の後ろに隠れた。
夏生が唸りだした。怒りが頂点に達したのかもしれない。
そんな夏生を、ねぶるように見ていたお化けが、四十五度に曲がった頭を、涼々達に向けて這い出した。
涼々は恐怖に固まりかけたが、「こっちに来ないで!」と、お化けが入ってこないように両手で前にかざした。
お化けの頭が涼々の手に当たり、お化けが動きを止めて、しばらくじっとしていたかと思うと、くるりと向きを変えて、夏生に向かった。
涼々達はその隙に、家から飛び出して逃げ出した。
家からだいぶん離れたところまで二人は走った。息を切らしながら、立ち止まる。
夕季が涼々を見た。頬が赤くなっている。
「何があったの?」
涼々は心配そうに夕季に訊ねた。
「あんた、『死ぬ電話』が掛かってきた時、叫んだだろ? それで腹が立ったらしいよ」
夕季はとばっちりであんなに殴られていたのかと思うと、涼々はどうしようもなく後悔した。
「ごめんなさい」
「いいよ、何もしなくてもパパは暴れるから」
「うん」
俯いて、腰を撫でながらもじもじとしていると、ポケットに何か入っているのに、涼々は気付いた。
「あ」
以前、児童相談所のおばさんがくれた名刺だと思い出した。
「お姉ちゃん、これ」
「なに?」
ポケットから洗濯されてしまったが、なんとか印字の読める紙を取り出して、夕季に手渡した。
「児童相談所の人?」
「うん。何かあったら電話してって」
夕季の顔が曇る。
「施設に行くつもりなの?」
「ううん。お姉ちゃんがパパに殺される前に、助けてもらおうと思って」
夕季の顔が引きつる。
涼々は何かまずいことを言ってしまったのだと、顔を強ばらせた。
夕季が、切羽詰まったような声音で、「ダメだ、電話なんかしない。私なら、殺されないようにするから!」と早口でまくし立てた。
涼々は夕季の剣幕に気圧されて黙ったまま、姉を凝視した。どうして、夕季が夏生を庇うのか、訳が分からなかった。
「どうして?」
「どうしても」
言いたくなかったけれど、夏生だけじゃない。夕季は井戸のお化けにも狙われている。
「お姉ちゃん、井戸のお化けにも命を狙われてる。いつか襲われちゃうよ」
「井戸にお化け?」
「井戸から出てくるの。お姉ちゃんがパパに乱暴されたりしてる時に、周りをぐるぐる回るの」
夕季の表情が険しくなった。
「嘘言うな! 井戸にそんな怖いお化けなんていない! 涼々はそうやってすぐ嘘つくから学校で虐められるんだ!」
「お姉ちゃん」
夕季の言葉の矢が、涼々の心に命中した。
涼々が何も言い返せずにいると、夕季がとぼとぼと家に向かって歩き始めた。
「お姉ちゃん、待ってよ!」
「うるさい!」
夕季が元の意地悪な姉に戻った。
涼々はそれが悲しくて泣きながら、あの恐い家に向かって、夕季の後ろをついていった。
あれからなんとなく、家に帰って夕季と顔を合わせづらくなった。翌日から、また放課後に公園に行くようになってしまった。
ドームの中に入り、ランドセルの中からラムネ瓶を取り出した。男子の魂が食われてしまって以来、悪い言葉は吹き込んでない。だからなのか、クラスメイトで怪我をする子はいなくなった。
『死ぬ電話』の噂は途切れないが、どれも学年が違った。今は四年生の間で流行っているらしい。
「お姉ちゃんが優しいお姉ちゃんになりますように」
一言だけラムネ瓶に向かって呟いた。悪いラムネ瓶が良いことを叶えてくれるか分からない。でもこの願いが悪いことになるとは思えなかった。
「早くママが迎えに来ますように。涼々もいっしょに連れていってくれますように。それと、お姉ちゃんもいっしょに連れてってくれますように」
何度か願ったあと、ラムネ瓶を眺めた。
墨汁が入ってるかのように真っ黒になってしまったラムネ瓶は、まるで涼々の心のようだった。涼々は、もはや自分は綺麗な心じゃないと思っている。たくさんのクラスメイトの不幸を願って、愛菜や意地悪な男子が死んだ。死んでほしいと願ってなくても、ラムネ瓶は涼々が吹き込んだ苦しさや悔しさの感情でお化けを作り出して、みんなに害をなした。
起こってしまったことはもう元には戻せない。
涼々の目から涙が溢れて頬を伝った。
涼々は死んでしまったクラスメイトに、ごめんなさいと言いながら泣いた。酷いことをされたけど、死んでほしいわけじゃなかった。優しくしてほしいだけだった。
考えれば考えるほど、涙が流れる。
ドームに差し込んでいた日が完全に沈んだ。時計がないから何時か分からないけれど、多分六時を過ぎただろう。
ひもじくてお腹が鳴り始めた。家に帰ると、怒らせてしまった夕季がいる。顔を合わせづらい。せっかく夕季と仲直り出来た気がしたのに、何が悪かったのだろう。
しくしく泣いていると、公園の入り口のほうから、夕季の声がした。
「涼々ー」
もぞもぞと四つん這いでドームから這い出て、夕季の姿をみとめた。
夕季が怒ってないか、ここからでは分からない。でも、近寄るのは気まずかった。
暗い外灯に明かりに浮かぶ涼々の姿を見つけたのか、こちらに向かってきた。
「涼々!」
怒られると思って、涼々は両手で頭を庇って首をすくめた。
「何持ってるんだよ」
夕季が涼々の右手に持ったラムネ瓶を奪った。
「あ! 返して!」
夕季の顔が曇る。
「お腹が空いてもこんな汚い瓶を舐めちゃダメだ! 病気になるよ!」
中身が入っているか、夕季がラムネ瓶を覗いた。
「ダメー!」
涼々は血の気が引いて叫んだ。
涼々の意思とは反して、ラムネ瓶の口から灰色のムチムチとした短い腕が生えた。花びらのように何本も重なり、手のひらを広げて、夕季の頭をくわえ込んだ。
「ダメー! ダメ!」
涼々は灰色の手にすがりついて、引き剥がそうとした。涼々の手のひらにむちっとした肉感が伝わってくる。
気持ち悪いけれど、止めないと夕季の命が危ない。
何度も叫びながら、引き剥がそうとした。男子の時と同じ事が起きている。
到底涼々に止められそうになかった。腕の花が、涼々の目の前で、夕季を呑み込んでいく。
「ダメ! ダメ、やめて! 食べないで!」
大声で泣きながら、花びらを夕季の体から外そうと頑張った。
「お願い! お姉ちゃんを食べないで!」
そのとき、灰色の短い腕をだれかが摑んだ。涼々は驚いて、顔を上げた。
優しいおじさんが左手で、灰色の腕を摑んだまま、潰した。
ラムネ瓶からお化けを引きずり出すと、夕季から気持ちの悪いお化けをふるい落とした。
ベタッと、お化けが地面に落ちた。それを足で踏みにじる。踏みにじられたお化けが煙になって消えていく。
「おじさん!」
「お姉ちゃんを呪いから解放しよう」
夕季の魂が完全に体から離れている。おじさんは夕季の魂を撫でて、夕季の体の上でまだ蠢いている芋虫のような指を払いのけた。
「おじさん、お姉ちゃんは?」
震える声で一縷の望みを掛けて、涼々が訊ねた。
おじさんが悲しそうに首を振った。
それを見て、夕季は堰を切ったように声を上げて泣いた。
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