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忌み地 第五章 結花子 ①

 二週間近いウィークリマンション住まいもとうとう終わってしまう。あの家に帰らねばならない。ホテルに戻った結花子から、あとは井戸を埋めて魂抜たまぬをするだけだと聞いて、夫が嬉しそうに言った。

「ずいぶん時間がかかったなぁ」

 結花子には、人形に久しぶりに会えるから楽しみなのだ、と感じられた。こんな状況にまでなっているのに、夫の頭には人形のことしかないことが結花子からすると気味悪くて仕方ない。引っ越しが出来ないなら、出て行くしかない。必ず第一子が死ぬなら、谷地の家から出るべきだ。夫の言いなりになったらおなかの子を失ってしまう、と考えるだけで背筋が凍る。

「井戸の魂抜きが済んだら、この家を人に貸して、町に戻らない?」

 夫が怪訝そうな顔をする。

「なんでそんな必要があるんだ? 井戸も綺麗になったし、儀式もやるんだから、これで満足だろ」

「でも、井戸にたくさんの赤ちゃんの骨が埋まってたんだよ?」

「結花子は怪異の原因は床下にある井戸だと思ってたんだろ? 赤ん坊の骨は龍雲寺にちゃんと納めたし、供養もすることになってる。この家に一番長くいたのは結花子じゃないか。ガスの中毒で幻覚や幻聴があったんだよ」

 頑なに認めようとしない夫に結花子は失望し、息苦しくなるほど苛立ちを覚える。泣き叫びたくなるのを堪えて、喋るのをやめた。今となっては夫と意思疎通できず、引っ越す前よりも酷い。夫とのコミュニケーションを諦めて自我を押し殺していたのに、夫と亜美の浮気のせいで我慢の限界が来てしまったのだ。確かに、井戸を埋めて五木住職に魂抜たまぬきをしてもらったら怪異がなくなるかもしれないが、保証はない。その日がくるのを待つしか出来ることはなかった。


 結花子は住職と吉日を選び、井戸の魂抜き——埋井うもれいをおこなうことにした。今は初夏だったので、儀式の日は丙寅ひのえとら丁卯ひのとうのどちらかと決まっている。それで、結花子は一番近い吉日に儀式の日取りを決めた。

 その日まで、頻繁に起こる怪異に耐えなければいけないが、蓋をされて床板と畳が元に戻されているおかげで、井戸を目にすることがないだけましなように思える。

 けれど、ここに越してきた当初から自分を悩ませている怪異は収まるどころか、井戸を弄ったせいで余計に刺激してしまったようだ。

 音だけでなく、物理的な現象が頻繁に起こり始めた。丁卯まで日にちがあるというのに、毎日様々な怪異が起こり始めた。

 朝起きて廊下に出ると、泥のついた小さな子供の足跡が、コの字の廊下を行ったり来たりしたのか無数についていた。それを見て結花子は呆然と立ちすくんでしまった。赤ん坊の骨をきちんと供養したのになぜこんなことが起こるのか。何が足りなかったんだろう。本当は何をしなければいけなかったんだろう。

 掃除を終えて、トイレに行こうと廊下の突き当たりへ行くと、床に水が溜まっていた。トイレから水漏れしているのか、とドアを開けてみるがどうも違うようだ。雑巾を持って来て水を拭おうとして、結花子はひっと声が出た。水たまりの中に大人の足形がついている。夢で見るずぶ濡れの女の足跡なのか。怪異が着実に結花子めがけて迫ってきている気がした。

 拭いても拭いても目を離した隙に足跡がまたついているのが当たり前になった。

 閉めておいたはずのふすまが全開していて人形が一体だけ仏間の真ん中に座っていたり、何体か廊下に転がっていたり、奥に座らせていた人形の位置が手前に入れ替わっていたりもする。

 夫には、こういった怪異について愚痴ったり、訴えたりするのをやめた。全部、気のせいだと言って何もしてくれない。夜更けになると決まって、仏間の井戸の真上に当たる場所に正座し、人形に向かって何かつぶやいているのを見て、恐怖で毛が逆立った。

 以前、壱央と亜美が来たとき、「もうすぐお友達が来るからね」と夫が言っていたと教えてくれた。今もまだそれに似たようなことを人形に話しかけているのだろうか。


 怪異は日に日に変化していき、いきなり、結花子との距離を縮めてきた。

 誰もいないはずの廊下を、軽い足音が行ったり来たりしている。気にしないように、と言い聞かせながら、結花子は台所で洗い物をしていた。気がつくと、足音は止んでいてその代わり何かが雪見障子をバンッと叩いた。

 驚いて振り返ると、雪見障子に黒い手形が付着している。それはとても小さくて、低い位置にあった。まるで二歳にも満たない子が転びそうになって障子に手をついたように見えた。あの足音はこんなに小さな子供のものだったのか、などと思っていると、いきなり雪見障子全部に紅葉のような小さな手形がベタベタベタッと一斉についた。結花子は思わず息を飲む。小さな手形は天井近くのくもりガラスにも付着し、結花子の考えをあざ笑っているかのようだった。

 突然のことに金縛りに遭ったように体がこわばる。無心に魂抜きをしたらこんなこと起こらない、と何度もつぶやいていた。我慢して震えているしかない理不尽に涙が出てくる。それ以上に自分をここに縛り付けている夫に憤りを覚えた。


 丁卯ひのとう埋井うもれいの当日、夫も会社を休んで同席することになった。

 業者の作業員が畳を上げ、床板を外して、井戸の蓋を取った。前回井戸の中をさらっておいたおかげで悪臭はない。住職が井戸の魂抜きをするために埋井の儀を始めた。

 作業員が、清砂きよめすなと竹を持って井戸の横に降りた。竹の先に和紙が挟んである。清砂とは砂をきよめたもので、これで井戸を埋めるのだそうだ。

 儀式は粛々と執り行われ、その様子を結花子と夫は正座して見守った。

 清砂で井戸を九十センチほど埋めたあと、塩や米、酒を中に撒きながら、井戸の中央に和紙を挟んだ青竹を立てる。最後に息抜きのための竹の筒を清砂と一緒に埋めた。

 埋井の儀式が終わると、住職は業者全員をお祓いして締めくくった。

「つつがなく終わりました」

 住職が結花子の前に座り直して告げた。結花子は床下を覗き、砂に埋もれた井戸があるのを確かめた。これで終わったのか。もっと劇的な変化があるのかと思ったが、そういうことは一切なかった。

「ありがとうございます」

 結花子は頭を深く下げた。夫も同じように頭を下げているのを見て、少しでも効果があったのだろうかと期待する。

 住職もお辞儀をしたが、何かに気付いたのか夫の視線の先に目をやった。穏やかな顔つきが変わり、目が細められた。

「井野さん、あの人形、前からありましたか?」

 住職は、結花子と以前話したことを思い出してくれたようで、夫に訊ねてくれた。住職は義父母の葬式の時、この目立つ人形たちの存在に気付かなかったようだ。夫が目尻を下げつつ人形を見つめている。

「いい人形でしょう。我が家の宝なんですよ。先祖代々受け継いでるものなんです」

 それを聞いていた住職が神妙な顔つきになるが、夫の言葉には何も返さなかった。その代わり、玄関まで見送りに出た結花子に住職が静かに言った。

「奥さん。あの人形のことで何か困ったことがあったら、いつでも相談してくださいね」

 ドクンと心臓が鼓動する。人形の気味悪さが住職にも伝わったのだろうか。すでに困り果てていたから、言葉が口をついて出た。

「あの……」

 実は、と言いそうになったところに夫がやってきた。ごまかすように結花子は深々とお辞儀をした。

「今日はありがとうございました」

「いえいえ、これが私の仕事ですから。じゃあ、奥さん、困ったことや相談事があったら気軽に来てくださいね」

 そう言って住職は敷地に停めていた軽自動車に乗って帰っていった。


 気軽に来てもいいと言われて、結花子は心から安堵した。こんな気味の悪い現象を一人で背負うのは荷が重い。少しでも話を聞いてくれるだけでも良かったし、住職なら解決してくれるのではないかと期待もした。

 定期検診で医者からは軽い鬱と診断されたが、医者は何もわかってない。こんな異変が毎日起こったら誰しも病んでしまう。それなのに、カウンセリングや漢方などで鬱を軽減することを勧められる。カウンセリングで、妙なものを見てしまうなどと言ったらどうなるかわからない。結花子に必要なのは話を聞いて解決してくれる人物であって、結花子が訴えることは気のせいだとか、幻覚だとか、精神が不安定なのだと言う人物ではなかった。


 毎朝、五時に起きて食事と弁当を作り、夫を見送ったあと、まるで見計らったように起こる怪異現象は、埋井の前日に起こったものよりも、明確に結花子と接触しようとしている。

 廊下を越えて雪見障子より内側に入ってはこないが、一旦廊下に出ると、結花子の背後をくっついて回り、服を引っ張ってくる。ある時、廊下の掃除を終えて腰を伸ばしていると、ぐいっと髪の束を掴まれ、ガクンと結花子の顔が上向いた。一瞬だったが、その力が尋常ではなく強くて、悲鳴を上げながら居間に逃げた。頭に不気味な感触が残り、振り払うように結花子はイヤイヤと頭を振った。

 もう嫌だ。これ以上我慢できない。誰か助けてほしい。そんなことを頭の中で叫びながら、居間を抜けて玄関へ出た。つっかけを履き、自動車に乗って龍雲寺を目指していた。

 寺の敷地にある駐車場に車を停めたあと、転びそうになりながらも住居に向かって走った。

 いきなりやってきた結花子を見て、住職の坊守が驚いた表情を浮かべた。

「あら、どうしたんです」

「住職さんはいらっしゃいますか」

 声を震わせて、住職に話がしたいと告げると、奥から住職が現れた。

「井野さん、どうしました」

「このあいだ、住職さん、相談してもいいっておっしゃいましたよね」

 玄関口で息せき切って喋ろうとする結花子に、坊守が上がるように促す。

「座敷に行きましょう。そこで話を聞きますよ」

 住職が奥へと手招きした。

 住職に以前、過去帳や家系図を見せてもらった同じ部屋に通されて、坊守が冷たい麦茶を持って来た。

「もう限界なんです」

 結花子は泣きそうになりながら必死で訴えた。怪現象をどう伝えればいいか、逡巡しながら説明する。ただの足音から、足跡や手形に変わり、とうとう自分の服や体に触るようになったことまで。

 結花子が一所懸命に話すのを、住職は静かに聞いていた。最後まで聞き終わり、口を開く。

「あの人形はよろしくない。井野さんのご主人が人形に話しかけるようになったのは、人形が原因ですよ。あなたは家にまつわるもの全てに関わりを持たれている。このままだとあなた自身が危ないですよ」

「でもどうすればいいんですか。どこに行けばいいんですか」

「ご実家や友人の家に身を寄せることは出来ますか」

 結花子の両親は九州にいる。遠すぎて助けを求めることが困難だった。しかも友人だった亜美には裏切られている。

「出来ません……」

 その言葉に住職が何やら考え込んでいる。

「あまりにも酷いときはうちの寺に逃げてきなさい。いつでも歓迎しますよ」

「井戸の魂抜きは成功したんですよね? なんで、どんどん変なことが酷くなるんですか」

 結花子の言葉に住職も難色を示した。

#創作大賞2025 #ホラー小説部門

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