呪願の代償 第五章 地獄 2
「醜い奴だ。一体、呪物で何人の子供の魂を食った」
化け物が頭をくねらせて身もだえし始めた。
涼々の目に、化け物の黒いざんばら髪を摑んでいる白い手が見えた。おじさんが右腕を振る度にその頭が激しく揺さぶられている。
「おまえは、すでに私に捕らえられていたんだ。この機会を待っていた」
涼々を睨みつけている匠が、訝しげに言う。
「おい、おまえさっきから誰と話してる。そこになんかいるのか」
おじさんから涼々は目をそらして、不思議そうに匠を見た。
「見えないの?」
匠がイライラした口調で答える。
「だから、何がだよ」
涼々は、隣に立つ夕季と目の前のおじさん、そして、匠の背後から上体を伸ばしている化け物を見た。
「何も分からないの?」
「イライラするガキだな! 一体何のことだよ」
ほんとに見えないんだ
涼々は、自分の目の前で起こっている全てのことが、匠には全く見えてないのだと悟った。匠の背後に化け物の割けた腹があり、わらわらと沸いているむっちりとした灰色の腕が、今にも匠を摑んで引きずり込みそうなのも分からないのだと驚いた。
「おじさん、早く逃げたほうがいいよ」
優しいおじさんに守られている安心感から、涼々は、何も分からずに危険な場所に身を置いている匠を可哀想に思った。
「嬢ちゃん、私から離れてるんだ。今からこいつを連れていく」
匠に気を取られていた涼々は、ハッとしておじさんを見上げる。
「これで安心して死ねるよ」
おじさんの言葉に驚いた。
『失敗したくせにねぇ』『失敗したくせにねぇ』
化け物がおじさんをあざ笑った。
「ずいぶん余裕があるな」
ぐいと、化け物の頭を引いた。白い腕が何本も地面から沸いて、おじさんの足元でゆらゆらと揺らめいている。
『腐った魂は美味かったよぉ』『腐った魂は美味かったよぉ』
『無駄だよ』『無駄だよ』
涼々は化け物のガラスを引っ掻くような笑い声に背筋を震わせた。それと同時に、涼々の脳裏に見知らぬ映像が映った。
化け物が、見知らぬ男の子に取り憑き、灰色の手と同じように、男の子の頭を、大きく口を開けてしゃぶっている。蛇のような口が徐々に男の子の頭部を呑み込む情景が頭に浮かんだ。
涼々は、恐ろしい情景を見ないように目をつぶったが、否が応でもまぶたの裏に浮かんでくる。
白髪の黒いスーツを着たおじいさんが、化け物の頭を右手で摑んでいた。男の子を背後から匠が両腕で羽交い締めにしている。
先ほどと同様に化け物が金属を擦りあわせるような声を上げると、それが男の子の口から漏れた。その音に驚いた匠が腕を放した瞬間、化け物が男の子を咥えたまま、男の子の体から抜け出し、いっしょに引きずり出した黒くくすんだ魂をそのまま呑み込んだ。
それに引きずられるようにして、おじいさんの魂がずるりと肉体から離れた。化け物はけたたましく笑いながら、黒い霞になって消えた。
おじいさんの肉体から引きずり出されたのは、今、涼々の目の前にいる優しいおじさんだった。
おじさんの右手、だからなかったんだ
涼々はおじさんの言っていた不思議な言葉の数々を思い出した。
呆然と立ち尽くす涼々を見た匠が、腰に差した竹簡を取り出す。
「今からおまえに取り憑いた香弥子を祓ってやるよ」
そう言って、化け物とおじさんの間に割り込んで、じゃらじゃらと竹簡を鳴らし始めた。ぼんやりしている涼々の目の前で、匠は一心不乱に竹簡を上下させる。
化け物が涼々に伸ばした何本もの腕を遮るように夕季が立ちはだかる。夕季の白い光が化け物のぬめりとした皮膚に当たると、ジュッとプラスチックが焼けたような悪臭が立ち上った。
『穢れてない魂は邪魔だ』『穢れてない魂は邪魔だ』
化け物が、二重にぶれる言葉を発し、涼々の代わりに、竹簡を鳴らしている匠の頭を摑んだ。
『臭い臭い』『臭い臭い』『臭い臭い』『臭い臭い』
化け物が歓喜の声を上げた。
『腐った魂だ』『腐った魂だ』『腐った魂だ』『腐った魂だ』
高い声、低い声、しわがれた声、美しい澄んだ声。あらゆる声が喜びに震えている。
化け物の無数の手が、匠の魂を頭から引き抜き始めた。
その途端、匠の体がビクンビクンと痙攣し始める。両手に持っていた竹簡を地面に落として、どうっと倒れた。口から泡を吐き、白目を剥いている。
涼々はその様子を全て見ていた。
化け物の数本の手に掴まれた、黒くくすんだ匠の魂を、化け物が割けた腹に押し込み始めた。ムチムチとした灰色の腕が蠕動して、魂を呑み込んでいく。
光一郎が長く伸びた右手で、化け物の頭部をがっしりと摑んでいる。しかし、光一郎の足にしがみつき、地獄へ引きずり堕とそうとしている悪霊の手によって、すでに膝まで地獄の穴に沈んでいた。
化け物が愉快そうに笑っている。ガラスを引っ掻くような音を立て、壊れたバイオリンのような高音を発しながら、腹の中に匠の魂を包み込んだ。
ぐしゃ ぐしゃ ぐしゃ
汁を含んだ果実を潰すような音がした。
『腐った魂は美味い』『腐った魂は美味い』『腐った魂は美味い』『腐った魂は美味い』
「あれだけ関わるなと言ったのに、匠、おまえは本当にどうしようもない子だ」
光一郎は悲しそうに呟き、右手で摑んだ化け物の頭部を引き寄せた。空いた左手で化け物の顎を摑む。
頭部を固定された化け物が、まるで寄生虫のように体をくねらせる。
自分よりも数倍大きい化け物がぐねぐねと身を捩らせても、光一郎の体は微動だにしない。
化け物が、いらだたしげに奇声を上げ始めた。それが次第に悲鳴に変わる。
光一郎の両手が、化け物の頭と顎を挟んで、ごりっとひねり潰した。
化け物が何度も痙攣して、やがてだらりと力をなくした。
「おじさん!」
涼々が我に返って、光一郎の足に絡む何十もの腕を引き剥がそうと手を出した。
「やめな、嬢ちゃん。これは除霊師の宿命なんだ」
そう言って、優しく微笑んだ。
「じゃあな、嬢ちゃん」
涼々の目の前で、すり鉢状の蟻地獄の穴へと、化け物の潰れた頭を両手で摑んだまま、光一郎は呑み込まれて消えた。
「おじさん!」
涼々は急いで穴に両手を入れようとしたが、弾かれて尻餅をついた。
「そんな」
自分に優しくしてくれた唯一の大人が、目の前で地獄に堕ちたのが信じられなかった。
「お姉ちゃん」
泣きそうになりながら、涼々は顔を上げて周囲を見たけれど、夕季もいつの間にか消えていた。
暮れなずむ公園には、涼々と匠の死体だけが取り残された。
先ほどまでの恐ろしい光景が嘘のように静かだった。しばらく呆然と座り込んでいたが、涼々は重たい腰を上げた。
匠の死体を無視して、ドームに置きっぱなしだった木箱を取り出し、逃げるように公園を出た。
借家の玄関の引き戸は閉じられていた。取っ手に手を掛けると鍵が空いていた。夏生が帰ってきていると、涼々は思った。
夏生が何故、夕季の遺骨をバラバラにぶちまけたのか、家族の写真をちぎって捨てたのか、多分訊ねても答えてくれないだろう。
そっと音を立てずに、玄関に上がって台所から自分の部屋に入った。部屋は自分が出ていったときと同じ状態だった。夏生の寝室へのふすまも閉まったままだ。
夕季の遺骨の入った木箱を棚の上に置く。静かに手を合わせた。
お姉ちゃん、守ってくれてありがとう
さっきあったことは全てがまるで夢のようだと、涼々は感じている。
夕季がキラキラとした姿で現れたり、おじさんが化け物と闘ったり、匠が魂を食われて死んだり、なんだか信じられなかった。きっと、だれかに話しても、全て涼々の作り話だと言われてしまうだろう。
夕季の遺骨に酷いことをされて、逃げ込んだ公園のドームで眠った時に見た夢だと言われても、その言葉のほうを信じてしまいそうだ。
涼々は、暗い部屋を横切って、窓に近づいて外を見た。もうすっかり日が暮れて、月明かりがなければ、裏庭の様子などまるで分からない。
今夜も黒い猫のようなものが井戸の周りを蠢いている。微かな猫の鳴き声も聞こえてくる。
涼々は井戸を見つめて、「ママ」と呼んだ。
石蓋から、泥に汚れた腕がにゅっと伸びて、縁を摑んだ。四肢が歪んだ月乃が現れ、腹ばいになると、首を傾けたまま、涼々のほうを向いた。
「ママ、今日あったことは夢じゃないよねぇ?」
月乃は答えなかった。あの場にいなかったから分からないのだろう。月乃はここから離れられないのか。井戸の底にいるから、井戸の近くにしかいられないのだろうか。
「ママ、今日ね、お姉ちゃんに会ったよ。キラキラ光って綺麗だったよ」
涼々は囁くように月乃に言った。月乃が静かに涼々の話を聞いてくれている。
「でもね、優しいおじさんはいなくなっちゃった」
地獄の穴に引きずり込まれていった、光一郎の姿が脳裏に浮かんだ。涼々を心配させまいと笑顔で別れを告げてくれた。
今日あったことを月乃に話すうちに、涼々の声が震えてきた。泣きそうになるのを、必死に堪える。
涼々の側にいてくれる人は誰もいなくなった。
そう思うと辛くて仕方なくなった。
涙をぐっと堪えていると、どこからか、うめき声が聞こえてきた。
庭かと思って窓を開けたが、虫の声すら聞こえない。家の中かと思って窓を閉め、耳を澄ます。
意外なことに、夏生の部屋からうめき声が漏れてくる。
涼々は足音を立てないように近づいて、静かにふすまに耳を当てた。
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