忌み地 終章 壱央
壱央は用済みとなった数珠を箱に入れて、宮古島の祖母に返そうとスーツケースに詰めた。宮古島に明日帰るために、マンションの契約も今月までと連絡してある。退居まで一週間早いし、明後日、予定日だと聞いている結花子の出産を待っている時間はない。
数珠が切れたときに、壱央は直感でこれ以上結花子の側にいてはいけないと思った。彼女の側にいれば、残された呪詛が自分を襲うだろうと判断したのだ。結花子にそのことを告げないのは結花子自身がまだ子供の存在に守られていると思ったからだ。
結花子から聞いた話の中に、初代当主の嘉平が、死んだ女の腹を裂いて赤ん坊を奪った、というのがあった。それは全て結花子が夢の中で得た情報だった。奪われた赤ん坊がどういう末路を辿ったのか、それはわからない。ただ、腹を裂かれた女が嘉平を呪うことで作られた呪詛なのだろうから、嘉平の一族に対する祟りである可能性が高い。
病院に現れた女からは悪意しか伝わってこなかった。末代まで祟ってやるといった怒りや憎しみがにじみ出ていた。無差別に襲いそうな危険も感じられた。
人形を始末しようとした人間はことごとく死んでしまった。多分、自分も例外ではない。それでも生き残るために、宮古島へ戻り、自分自身を守るための修行をすることになっている。家財道具などは全てまとめて処分し終えた。ここにあるのは寝袋と着替えと風呂で使うタオルやシャンプーだけだ。
朝一の飛行機に乗って宮古島に戻るので、早めに風呂を済ませようと立ち上がった。タオルなどを持ってバスルームに入る。洗い物は実家に持ち帰って洗えばいいか、と考えてバスルームの外に脱いでおいた。
体と頭を洗った後、前もって湯を張った風呂桶に体を沈めた。足を伸ばしてここ最近の疲れを洗い流す。
結花子や自分を守るために気を張っていたせいで、余計に疲れが溜まった。
結花子につきまとう呪詛は、あまりにも古く土地に根付いたものだったから、谷地という忌み地から離れれば問題ないはずだった。それなのに、谷地からずいぶん離れた病院にまで、呪詛は現れた。それだけが解せない。まさか、二つ目の伊助が作り上げた呪詛がまだ残っているとでも言うのか。
湯を両手ですくって顔を洗っていた手を止めて首をかしげる。やけに水が生臭い。水道水と言うより、淀んだ川か池の水のようだ。しかし、目を開けて風呂桶を見てみるが、変わったところなどひとつもない。それとも風呂の湯ではなく、別の所から臭っているのだろうか。下水の臭いかもしれない。ずいぶんとこの部屋を留守にしていたから、掃除が行き届かず、臭ってしまっているのか。
壱央は風呂から上がり、排水溝を覗いた。蓋と内蓋を外してみる。汚れてはいたが、特に気になるほどではなかった。臭いが強く鼻をついたり、全く臭わなくなったりと、出所を探すのに苦労した。どうも、他の水場から臭いがしているようだ。
タオルを取って、腰に巻く。他に水場と言えば、トイレとキッチンだけだ。トイレを覗いたが、全く臭いはない。キッチンの排水溝も調べたが、こちらも綺麗だった。ここ数ヶ月、料理を作ってないのだから当たり前だ。部屋の水場が原因でないなら、臭いがこの部屋にまできていると言うことになる。換気扇から隣の臭いがこちらまで来ているのだろうか。だとしたら相当な悪臭になる。
急いで服を着て、玄関の鉄扉を開け、外廊下に出てみた。涼しい風が吹きつけてくるだけで臭いまではわからない。
壱央は首をかしげながら、部屋に戻った。
玄関の靴置き場に水たまりが出来ていた。見てみれば、部屋へ続く廊下も水で汚れている。先ほど風呂から上がったときに、体を拭き損なっていて水が垂れたのかと思った。
雑巾はないが、さっき使ったバスタオルで拭って、タオルは捨ててしまえばいいと考えた。部屋に上がり、バスルームの扉にあるタオル掛けからバスタオルを取ると、床の水を拭いた。拭いてから、壱央は気付いた。水を拭ったバスタオルが臭い。さきほど感じた異臭と同じものだ。もしかしたら上の部屋から漏水しているのだろうか。天井を見上げたが、そんな形跡は一つもない。
タオルを手に部屋に続くドアを開いた。付けたままだったはずの電気が消えていた。一歩踏み込んで足裏に感じる違和感に、思わず足を引っ込めた。部屋が浸水している。電灯のスイッチをオンオフしたが電気が付かない。ブレーカーが落ちたのだろうかと、玄関を振り向いた。
目の前に広がる風景に、壱央は愕然とした。先ほどまであった鉄扉がなくなって、辺りはもやがかった開けた場所に変わっていた。
背後から、かすかに水を踏む音が聞こえてくる。ぬかるみに足を踏み入れ、抜く音が響いてくる。気がつけば、もやから垣間見えるのは葦だった。葦原にたたずむ壱央の背後から近づいてくるものがいる。足音は次第に大きくなり、確実に迫ってきていた。
振り返ることも出来ず、脂汗が額を垂れていく。息を殺して、どうすべきかを考えた。
ここは埋め立てられる前の谷地の湿原だ。忌み地とされて人から敬遠された土地だ。
疫病で死んだ人間が放り込まれて、累々の屍が放置された。壱央が知っているのはそこまでだった。
これが結花子の見ていた夢なのだろうか。淀んだ水と腐敗した肉片の悪臭が入り交じる湿原に、得体の知れないものと一緒にたたずんでいる。振り向くことも出来ず、ましてや自分の身を守るための数珠もなく、壱央に出来ることは祖母から教えられた念仏を唱えることだけ。
唱えながら、なぜ谷地の呪詛がここまできたのか懸命に考えた。一つ目が忌み地にまつわる呪詛であることに間違いはないはずだ。二つ目の呪詛は無効になったはずだ。媒体だった人形は燃えてしまい、呪詛の源だった井戸も埋めた。それでは足りなかったのか。今、自分がこうして谷地の呪詛に出くわしているのは、まさか人形と関わってしまったからか。それとも呪詛がいまだに暴走でもしているのか。二つ目の人形を使った呪詛は、長年積み重ねてきた儀式を明治に入ってやめてしまったことで、繁栄をもたらす代わりに破滅を招いた。井野家が生け贄を捧げているうちは守護していたはずだったが、生け贄が途絶えたことで、呪詛は自家中毒を起こして、生け贄を求めて攻撃し始めたのだ。そのせいで谷地の家に住む人間は次第に狂っていったのだ。
その間も足音は少しずつ自分に向かってくる。振り向こうにも体が言うことをきかない。とうとう足音は壱央の真後ろまでやってきた。耳元に、生臭く鉄臭い息が吹きかけられる。逃げようがない。足音を立てていた何かが、壱央の胴に腕を回して抱きついてきた。強烈な腐敗臭が鼻をつく。
胴に回された腕は蕩けて糜爛し、ボタボタと肉片が足下に落ちていく。その腕が強く壱央を抱きしめた。肋骨が折れそうなほど強く絡みついてくる。
息が苦しくなり、壱央は固まった体を動かそうと悶えた。壱央が見ている前で、強くしがみついていた腕が壱央の体の内側へと沈み込んでいく。背中に感じる、べったりとくっついた何かが、肉も骨も無視して壱央の体の中へ入っていく。
ゆっくりと時間をかけて、壱央を苦しめながら、その何かは壱央と混じり合った。
一体どのくらい時間が過ぎたのだろうか。気が付くと、部屋は明るく電灯がともり、床に溜まっていた水もなくなっていた。手にバスタオルを持って呆然と立ちすくんでいる。
「あ……」
壱央は周囲を見回したがあの葦原の幻影はすでになくなっていた。それでも不意に生臭い臭いが鼻をかすめる。着ていたシャツがわずかに汚れていて、それが臭っているのだった。
「そうだ……」
壱央は何かやり残した重要なことがあるのに気付いた。それをやらねば、宮古島へは戻れない。壱央はスーツケースから荷詰めする際に使ったカッターを取り出した。チキチキと刃を出して確かめた後、刃を戻しポケットへ突っ込んだ。
結花子に早く会わないといけない。やり残したことを伝えねばならない。結花子はきっと喜んで協力してくれるはずだ。
そうでないと……。
壱央は鉄扉を開けて外に出た。夜の闇が壱央の背に落ちる。黒いもやが壱央を包み、目的を果たせと急く。
そうでないと、戦利品をこの腕に抱けないじゃないか——。
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