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呪願の代償 第二章 ラムネ瓶 6

 空腹のせいで、ふと夜中に涼々は目を覚ました。

 窓の外がざわざわとしてうるさい。風の音かと思って、横になったまま、窓を見上げた。窓は暗く闇夜を映しているだけだ。

 隣を見ると、夕季が静かな寝息を立てて寝入っている。今日は夜中に夏生にたたき起こされて乱暴をふるわれていないようだ。

 たまに夜中遅くまで起きている夏生が、単に先に寝たと言うだけで腹を立てて、夕季を殴ることがあるのだ。このあいだ、首を絞めていたのも多分そうだ。

 ただ、「おまえも共犯だ」と言っていた意味は分からなかったけれど、首を絞められるだけでも怖いと思う。

 もしも、夕季が夏生の寝室側に寝ていなかったら、涼々が首を絞められたり、夜中に殴られたりしただろう。そう考えただけで、震え上がってしまう。

 尿意を感じ、涼々は起き上がって、そっと布団から抜け出した。幸いトイレに行くのに、夏生の寝室を通らずに済むのが救いだ。その代わり夏生がトイレに行くときはこの部屋を経由するので、刺激しないように静かにするのが決まりだった。

 涼々は夜中にトイレに行くのが怖い。この古い借家は、トイレが家の端っこにある。ちょうど、裏庭側だ。

 台所の奥に風呂場があって、風呂場の先にトイレがある。

 そこに辿り着くまでに、さらに試練があった。闇が凝って蟠っている部屋の隅に、いつも佇んでいるお化けが怖かった。お化けが涼々に襲いかかるようなことはないけれど、そこにいるだけで怖いと感じるのは仕方ない。

 トイレへの細い廊下の突き当たりに窓がある。その窓の向こう側に裏庭があるのだ。夏場は雑草に覆われている。その代わりに、丸まった猫のような暗い色の塊が、もぞもぞと草むらの影で蠢いている。

 昼間は影が見えるだけだが、夜はなぜかもっとよく見える。

 塊には四つの足がある。ずんぐりむっくりの体つきで、毛がない猫に見える。そこかしこで、もぞもぞと蠢いて、地面を這いずり回っている。

 昼間は数が少ないけれど、夜になるとその数を増し、雑草の間にひしめき合っている。その塊はいつもなら日光を嫌って奥に引っ込んでいるのだが、日が沈むとぞろぞろと窓の下までやってくる。ヤモリのように壁を伝って、窓に貼り付いているときがある。

 それが怖い。

 そうなると、トイレに行けなくなる。尿意を我慢して、窓から塊が落ちるまで待つしかない。

 窓に貼り付く塊の腹には、肉襞がある。むっちりとした、灰色の肉の塊だ。猫だと思うのは、いつも猫の声がするからだった。発情期の猫のような声を上げて庭で鳴き続ける。こんなにうるさいのに、不思議と誰も起きてこないから、聞こえているのは涼々だけなのだろう。

 今日も塊が窓に貼り付いていた。見えないはずのものなのに、涼々にはそのずっしりとした肉の塊の質感まで分かるくらい、現実に思える。だから余計に怖くて近づけない。

 涼々は息を飲んで窓を見つめた。

 塊が窓の表面を這いずり、少しずつ上の方へ移動するが、ある一定の高さに辿り着くと、音もなく、腹の辺りから肉が割けてぐしゃっと潰れて落ちていく。

 窓に引き潰れた黒い肉の塊がこびりついている。それも次第に薄くなり消えていく。

 そのすきに、涼々は走ってトイレに駆け込んで用を足した。

 一番怖いのは、トイレから出るときだ。

 タイミングが悪いと、目の前の窓の表面に塊が貼り付いていることがある。そのときは戸を閉めて、息を殺してじっと待つしかなかった。

 生きている猫は可愛いのにと、涼々は思う。あの肉の塊は、猫くらいの大きさなだけで、猫じゃないのかもしれないけれど、直視したくないので、ハッキリと見たわけではない。細々こまごまと分かるのは、目をそらしても頭の中に勝手に映像が浮かんでくるからだ。

 怖くて仕方ないのに、頭の中に浮かぶ映像の消し方が分からなかった。

 ようやく、窓から肉塊が消えた。

 涼々は急いでトイレのドアを開いて、振り返らずに台所まで走った。

 何故、こんな怖いお化けの家に引っ越したのか、涼々には理解出来なかった。

 あんなにも怖いと言い張ったのに、そのときの月乃は冷たかった。

 二年前、まだ小学一年生だった涼々は、不動産屋に借家の中を案内されて見て回る月乃にしがみついて訴えた。

『ママ、このおうち怖い』

 月乃の表情が曇る。

『我慢して。ここしか住めるところがないの』

『でもお化けがたくさんいる』

『お化けなんていないの。涼々が怖がりなだけ』

 いつもの月乃なら、大丈夫、ママが付いてるからと言ってくれたのに、この借家に引っ越すことになったときは、涼々は反対に叱られた。借家に引っ越してから、涼々は好きなことや食べたいもの、そのほかのいろいろなことを我慢しないといけなくなった。

 その代わり、月乃が夜もいっしょにいてくれるようになった。それだけが慰めだった。

 風呂場の引き戸に隠れるようにして、子供が蹲っている。台所の影に、男の人が立っている。テーブルの下や、戸棚の影や、冷蔵庫と壁の隙間に、人の形の闇が凝っている。

 涼々は目をつぶって、寝室に戻った。



 優しいおじさんに会ってから数日たった頃、学級閉鎖はまだ続いていて、家には涼々しかいなかった。

 夏生はパチンコにでも行ったのだろうか。朝の十時にふらりと出掛けていった。

 家には涼々しかいない。退屈な時間を、畳の目をなぞったり、ラムネ瓶を弄ったりしながら過ごしていた。空腹をごまかすために公園に行こうか迷っていると、玄関のチャイムが鳴った。

 誰だろうと思いながら玄関を開けると、スーツを着た女性が立っていた。

「こんにちは。左奈田さんのお宅ですか?」

 優しいしゃべり方をする中年の女性だった。

 涼々は無言のまま、頷いた。

「お父さんはいらっしゃいますか?」

 涼々はこの女性が誰か思い出した。確か児童相談所の人だ。月乃が出て行ってから、夏生や涼々達に質問をしに来るようになった。

 ただ、夕季から、児童相談所の人に何も話すなと言われている。多分、夏生が涼々達にしていることを話せば、夕季が夏生に言われていることも話さないといけなくなるからだろうと、涼々は察している。夕季は、夏生に首を絞められながら言われていることを、誰にも知られたくないようだった。

 学校のことも聞かれたので、これなら話してもいいだろうと、今は学級閉鎖だと答えた。

「給食が食べられないけど、おうちではご飯を食べられてる?」

 なんと答えたら良いか、涼々は迷った。ここで食べてないと答えたら、この女性が食べ物を持ってきてくれるのだろうか。

 月乃が出て行って、初めて児童相談所の人が来た時のことを思い出す。夕季は用心深く質問に答えていたが、児童相談所の人が帰ると、涼々に言った。

『涼々、あの人達に本当のことを話すと、施設に連れていかれる。パパと離れられるけど、どうする?』

 夏生と別れられるならそのほうがいい。本当のことを話すと答えたら、夕季が言った。

『私とも離ればなれになる。涼々は一人になるけどいい?』

 まだ夕季が意地悪ではなかった頃だった。涼々は嫌だと即答したのを覚えている。

 児童相談所がどういう所で、入れられる施設がどんなところなのか詳しくは知らない。テレビは夏生のものだし、新聞もない。教師に聞くのもなんだか嫌だったから、よく分かっていなかった。

『知らない子達と共同生活をするところ。ママとパパの代わりの人と会えるらしいよ』

 月乃がママじゃないと嫌だと、大きな声で返したことを覚えている。

 でも、今はどうだろう。嫌だときっぱり言えるだろうか。空腹に負けて、女性に付いていきたくなる。

 涼々は俯いた。女性と目を合わせられなかった。空腹だけど、夕季と別れたくなかったし、もしその施設に行っている間に月乃が帰ってきたらどうなるのだろう。

 代わりのママと暮らすことになってしまったら、月乃と暮らせなくなるかもしれない。それは嫌だった。

「食べてます」

 涼々の痩せ細った腕と足を、その女性がじっと見つめているのが、気配で分かる。

「大丈夫? 困ったことがあったら、この電話番号に電話を掛けて」

 と言って、女性が名前と住所と電話番号を書いた名刺を、涼々に渡した。

「分かりました」

 それだけ言うと、涼々は急いで玄関の引き戸を閉めた。

 夕季が帰ってきたら、この名刺を渡そう。もしかしたら夕季が一番必要としている物かもしれないから、と思った。そうじゃないと、夕季が夏生にいつか本当に殺されてしまう。

#ホラー小説部門 #創作大賞2025

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