呪願の代償 第四章 井戸 6
電話が鳴っている。料金を滞納して、鳴るはずのない電話だ。
無視したいけれど、今日は夏生が家にいる。
涼々は掃除の手を止めて、夏生の様子を見に行った。夏生は寝ているのか、いびきが聞こえてくる。目を覚まして怒鳴り始める前に、あの不気味な電話を取らねばならない。
音を立てないように玄関前の廊下に出て、電話の前に立った。
あのしわがれた気持ちの悪い声を聞きたくなかった。涼々は電話線を電話から抜いてみた。そうすれば電話自体が不通になるはずだったが、依然として電話の着信音は鳴り止まなかった。
もしも、夕季がいてくれたら、『死ぬ電話』なんて怖くないよと、言ってくれたかもしれない。夕季なら、「うるさい」と言って切ってくれただろう。
出るか出ないか迷っていたが、夏生から痛い目に遭わされるのと、不気味な声で、『ほどよく腐ったか』と聞かれて怖い思いをするのと、天秤に掛けた。
涼々にとって、実際に襲ってくる夏生のほうが怖い。不気味な声は我慢すればいいと自分に言い聞かせながら、受話器を手に取った。
そーっと、耳に当てる。
『ほどよく腐ったねぇ』
涼々は息を呑んだ。いつもと言っていることが違った。何が腐ったのか、見当も付かない。でも、良くないことなのは分かった。
電話口からザッピング音が微かに聞こえてくる。
『腐ったなら行くよ』
しわがれた声がそう言うと、電話越しに聞こえていた雑音が不意にやみ、何も聞こえなくなった。
クラスメイトが話をしているのを聞く限り、『死ぬ電話』を取ると、死んでしまうらしい。
『腐ったなら行くよ』という言葉通り、このしわがれた声の主が家に来て涼々を殺すのか、事故か何かで死ぬのか、全く分からない。
ただ待つしかないのかもしれない。
受話器を静かに置いた涼々の胸が、ざわざわと騒いだ。あまり良い予感がしなかった。
その夜、涼々は空腹で眠れなかった。最近、夏生が出掛けないため、小銭を集めて米などの食べ物と交換出来なかったからだ。
お腹が空きすぎると胃が痛くなって吐き気がする。布団の中で丸まって、一所懸命に寝ようと頑張っていた。
寝れば、空腹は感じない。楽しい夢ならもっと感じない。
以前、こんな夢を見た。
月乃と夕季がいて、いっしょに見たこともない町を散歩している。夢の中でショーケースの中でしか見たことがない、食品サンプルの料理の数々が、席に着いた三人の前に並べられる。それが本当に食べられて、好きな物を好きなだけ頬張れるのだ。
それ以上に、月乃と夕季の笑顔を見ながら、楽しく会話をしていることがもっと楽しかった。
突然、月乃と夕季が、すっくと椅子から立ち上がった。
「どこに行くの?」
涼々は二人を見上げて不思議そうに訊ねた。
「もう行かなきゃ」
夕季が言った。
「ママも行かないと」
途端に寂しさと哀しさが涼々の胸に広がった。
「行かないで」
「でもね、私達、涼々とは違う場所にいるから無理なんだ」
夕季が困ったように笑った。
「待って、涼々も連れていって。ママとお姉ちゃんといっしょに、涼々も行く」
月乃が眉をハの字に下げる。
「涼々は生きてるから無理よ。頑張って。側にいるから。ずっと側で涼々を見守ってるから」
「嫌だ!」
涼々は月乃のワンピースを握り閉めた。
「嫌だ嫌だ! 涼々も連れていって!」
こんな苦しい場所に置いていかないで。大好きな二人といっしょなら、どこでも構わないから連れていってと、涼々は泣いた。
泣きながら目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだった。
悲しい余韻が胸に残っている。ぼんやりと夢の記憶を反芻していると、突然、異質な音が聞こえた。
『腐ったか』
その声を耳にして、キュッと涼々の心臓が縮んだ。
しわがれた声が、台所に通じるドアの向こうから聞こえてくる。
嘘。本当に来た
涼々は恐怖に体が固まった。布団の中で丸まったまま、「ママ、ママ」と必死で念じ続けた。
ガチャガチャとドアノブが回されている。ドアに鍵はない。声はのんびりと、『腐ったか』と繰り返している。いつドアが開けられてもおかしくない。
ママ! 助けて!
涼々は電話のお化けのせいで自分が死んでしまったら、もう二度と月乃や夕季に会えない気がした。
ガチャガチャと揺れるドアを見る勇気が涼々にはなかった。けれど、裏庭が見える窓がカタカタと鳴っているのに気付いた。
固まった体をなんとか動かし、布団から顔を出す。
窓に、黒髪で顔が隠れ、四肢が歪んだ月乃がへばりついていた。首を左右にかくんかくんと揺らしながら、窓からすり抜けて部屋に入ってきた。四つん這いになって、折れ曲がった手足をゆっくりと動かし、涼々ににじり寄ってくる。
夕季は月乃が助けに来てくれたのだと、あの怖いお化けから守ってくれると、嬉しくなって、月乃にすがりつく。
「マ」
ママと言おうとした時、涼々の耳元で月乃が、『すず こえださないで かくれて』と、掠れたか細い声で言った。
首が折れているせいで、まともに話せないのだろう。涼々は素直に布団から這い出して押し入れに隠れた。
ガチャガチャ回されていたドアが、軋みながらゆっくりと開く。
『ほどよく腐ったねぇ』
嬉しそうなしわがれた声が、押し入れに隠れた涼々にも聞こえた。
ずりずりと何かを引きずる音がする。押し入れの前を通り過ぎ、ズリズリと音を立てながら、部屋の中をめぐって、涼々を捜しているようだった。
『腐った臭いがするねぇ』
声はどことなく嬉しそうだ。
少しずつずるずるという音が押し入れに近づいてくる。
ママ!
涼々はぎゅっと目をつぶって、心の中で叫んだ。
『邪魔をするな』
しわがれた声がイライラとした様子で言い放った。
ふすま越しに声を聞くだけで、涼々には何が起こっているのか分からない。
『ぎゃ』
一言叫ぶと、ずりずりと押し入れから遠ざかっていく。ふすまのわずかな隙間から、白い光が漏れて見えた。
『邪魔するな』『邪魔するな』『邪魔するな』
声が何重にも重なって部屋に響いた。こんなにうるさく叫んだら、夏生が起きてくる。涼々はそれも怖くて、押し入れの中でじっと息を殺していた。
やがて、『邪魔するな』という声も遠ざかり、何も聞こえなくなった。
涼々はじっと蹲って時間が経つのを待ち続けた。
月乃の声が聞こえない。出ても良いのか悪いのかも分からなくて、じっとしていると、ふすまが音を立てて激しく開いた。夏生が部屋に入ってきて、涼々の布団を蹴っているようだ。
散々足で布団を踏みにじったり蹴ったりする音がしていたが、夏生の舌打ちが聞こえたと思ったら、またふすまが閉められた。
夜中に目覚めて、安眠している涼々をたたき起こしたくなったのかもしれない。理不尽だけど、変わってしまった夏生の行動は、涼々にとって予測不能だった。
また、夏生が来るかも知れないと思い、涼々は、畳んで押し入れに仕舞った夕季の布団に寄り掛かって、その夜は押し入れで眠った。
翌朝、押し入れから這い出して、涼々は、めちゃくちゃに乱れた自分の布団を眺めてから、夕季の位牌に目をやった。ラムネ瓶が倒れて、今にも床に落ちそうになっている。
涼々は慌ててラムネ瓶を立て直すと、位牌の右横に並べた。
手を合わせて、夕季に祈る。
「お姉ちゃん、おはよう。昨日はママが来てくれてお化けを退治してくれたよ」
位牌の左隣に立てかけた、昔の家族写真に写る夕季が、涼々に微笑んだように見えた。
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