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屍喰い蝶の島 三月二十二日 ⑦

 暗くて何も見えない中、月明かりが照葉樹の葉に照り返り、チラチラと光っている。山の空気の清廉な香り。夜闇のしっとりとした感触。冷たい風。時折聞こえる野鳥のけたたましい声。

 その中に人がいること自体、場違いな気がしてしまうくらいに、山と海の厳粛な夜。それと同時に、人でないものの存在を許してしまう夜の深い幽玄。ぽっかりと開いたありもしない穴に落ちていくような錯覚を覚えて、ますます不安になっていく。

 こんな夜に、何に遭遇してしまってもおかしくはない。恐ろしいくらいの闇に包まれて、自分を失ってしまいそうだ。

「おーい! どうしたんだ!!」

 せき立てられるように夜須は叫んだ。バイトが中で倒れているかも知れないという考えが頭をよぎる。けれど、助けに行く気はさらさらない。かんべに戻って、何度でも親父に助けてやれと言うつもりだ。それでも一歩でも家から出たくないと言い張るようなら、和田津の恐ろしい一面を確信するだけだ。

「おーい! 大丈夫かー!?」

 何度も呼んで、ようやく微かに返事をする声を聞いた。

 よかった……、俺は中に入らずに済んだ。それだけが、暗闇に怯えていた夜須を安堵させた。

 やがて、懐中電灯の明かりとざしゅざしゅと砂利を踏む音が近づいてきて、バイトの姿が見えてきた。

「すみません。いろいろ見てたもんで」

「首、首があっただろう? 井戸の中に」

 すると、バイトの青年がきょとんと目を丸くする。

「何言ってんすか。井戸は確かにありましたけど、中には何もなかったですよ?」

「は?」

 これには、夜須は咎めるような返事をするしかなかった。

「あっただろう! 腐った首の山が! 反吐が出る臭いだってしてたはずだ!」

 バイトが困惑した顔で答える。

「なかったですよ……、一体何を見たんですか。確かに井戸はありましたけど、首なんてなかったし、水だって涸れてましたよ。石を落としてみたら、音がしましたもん」

「何言ってんだ。俺が嘘をついたとでも言いたいのか? ああ!?」

 バイトが慌てたように笑顔を作りなだめてくる。

「そんなことは言ってないですよ。落ち着いて下さいよ。本当に何もなかったんです。そんなに疑うのなら、一緒に中に入って確かめましょうよ」

 中に入るくらいなら死んだ方がましだ。入らなければ入らなかったで、やはり夜須は自分があの幻覚を信じていることにもなる。夜須は頭に血が上って、顔が赤らむのが分かった。夜須の目がつり上がり、一見すると怒りで我を忘れたのではないか、と疑われてしまいそうだ。バイトが、そう考えて身を引いているのが分かる。

 夜須はどうしようもない恐怖と戦っているだけだ。先ほどまでの怯えが、自分のプライドと折衝する。首がないのなら、それは交野が片づけたのだ。しかし、それだと首を吊ったかも知れない交野を否定することになる。でも、もしもそれすら見せかけなら、交野はこの屋敷のどこか、もしくは島のどこかにいるだろう。大浦にいることも考えられる。しかし、それすらも憶測でしかない。

「あの……、大丈夫ですか」

 ずっと黙っている夜須を心配して、バイトが声をかけた。

 夜須はゆっくりと息をする。

「大丈夫だ。悪かった、驚いて取り乱しただけだよ」

 ほっと息をつく声がした。夜須が暴れると思っていたようだが、さすがに夜須でも簡単に暴力は振るわない。

 今から相当な勇気を出して、挑まねばならない。女子供のように怯えていられない。首がないのなら確認して、心の底から安心するしかない。超常現象を徹底的に否定できるのは今だけだろう。それにあのときは一人だった。バイトがいれば、あの変な声も聞こえないと思われた。

 何度も深呼吸する。おかしいくらいに手が震える。大丈夫だ、今は一人じゃない。と、言い聞かせる。本音は走ってかんべに戻りたい。一人ならそうしただろう。明かりがなくても、倒れ込んでも、石段を駆け下りて、他の人間の気配のする場所に逃げ込みたい。

 ふぅと息を吐いて、夜須はバイトに言った。

「俺も行くから二人で確認しよう」

 最初からそうすればいいじゃないか、という目つきでバイトがチラリと夜須を見てきたが、今は我慢しておいた。

「じゃあ、行こうか」

 入ろうとしても足が止まってしまう。ガクガクと膝が震えてきたが、ゴミを払うふりをして太腿を両手で強く叩いた。痛みで震えが鈍った隙に、夜須は門扉をくぐるのに成功した。

 先行後行でも同じなので、バイトから懐中電灯を受け取り、先を進んだ。迷いなく井戸のある場所に向かう。

 井戸は夜須が逃げた時のままの状態であった。竹の覆いが地面に無造作に落ちている。

 締め殺しの木には何もぶら下がっていない。蝶の群れもいない。井戸はと言えば、バイトの言ったとおり何もなかった。井戸を覗くのは気が引けたが、思い切って小石を放り込むと、微かにカツンと言う軽い音がした。首どころか、水すら井戸には入っていなかった。

 夜須はただ呆然として、これが現実だった、と受け入れた。最初から何も起こっていなかったのだ。もしくは、やはり交野は生きているのではないかという憶測が頭をよぎった。

 あれは全て、きっと交野の渾身の演技だったのだ。そう思うことにした。

「ふふ」

 夜須は自分がこれほどまでに交野に怯えてしまったことがおかしくて笑った。

「俺の勘違いだったみたいだな」

 上手に引き下がっておかないと、自分がみっともない。しつこく自己主張しても仕方ない。夜須は、バイトを引き連れてかんべに戻った。

 かんべに着いたのは二十時を過ぎた頃だった。あとは明日の朝一番の定期船に乗って帰るだけだ。結局、交野に振り回されてシジキチョウのことをよく調べることが出来なかった。

 惣領屋敷でのことは、交野の自作自演だったのだという考えで落ち着いていた。生きていようが死んでいようが、もう二度と関わり合いたくないと思った。次回シジキチョウのために志々岐島を訪れても交野には知らせないつもりだ。

 夕食を終え、寝支度を済ませた夜須は、布団の中でわだつ日記を開いた。クシャッとしわが寄った鍾乳洞の地図を手のひらで伸ばしながら傍らに置いて眺める。鍾乳洞の地図は海側の入り口までを書いた断面図だ。場所の特徴と名前が筆で書かれている。穴は徐々に低くなり、内部は狭まっていき、海側の入り口で突然広くなり天井が高くなる。これが碧の洞窟なのだろう。地図には推測通り、確かに碧の洞窟と書かれている。こうして見てみると、満潮の時、海抜の低い碧の洞窟と狭い部分は完全に水没してしまう。満潮時に潮流で死体が流されれば、自然と引き潮の時に碧の洞窟内に引き込まれてしまうだろう。だから、ひるこさんが碧の洞窟内に上がるのだ。

 最初に祟り殺された惣領親子は、この仕組みを知っていて、女神——綿津見毘女命わだつみひめのみことの祠をわざわざ碧の洞窟内に作ったのだろうか。

 てふを殺したのと同じやり方で、洞窟内に贄を放置して、女神に捧げていたのではないか。しかし、てふを殺したあと、惣領親子は贄を差し出すのをやめたわけではなさそうだ。日記にはてふが死んだあと、不漁になったとある。それは偶然ではないはずだ。女神は惣領親子の欲望ではなく、てふの願いを選んだのかも知れない。てふ自身の何かが女神の目的にかなったのかも知れない。では女神とは何者なのだろう。分からないが、何らかの意思を持った存在なのかも知れない。

 三月二十二日はてふが殺された日なのか。インターネットで検索すると、三月二十二日は源平合戦が決着した日に近い。偶然、てふはその日を『贄の日』に選んだ。

 けれど、そうなるとひるこさんが上がったから豊漁だ、と喜んでいた漁師たちの言動はおかしい。ひるこさんが上がると豊漁になるというロジックは、実は消極的贄を指す言い方なのかも知れない。事故で亡くなった場合でも、女神は贄判定すると言うことだ。ただの水死体と贄の区別はどこで判断するのだ。もしかすると、その判別はシジキチョウが現れることに関係していると考えられないか。漁師たちの言葉はそこに起因すると思われた。

 シジキチョウが現れなければただの水死体で、現れたら豊漁のしるしなのだろう。だから、あのとき漁師たちはシジキチョウの話をし、その本当の意味を知られたくなくて夜須を追い払ったのだ。

 なかなか眠たくならず、夜須はわだつ日記を手にしたまま寝返りを打った。枕元に置いた腕時計を見て、一時間二時間と無為に時間が過ぎていくのを確認してしまう。

 それにしても、島民を祟る目的で海に牽いている御先様は、結局、この島に富を齎していることになる。皮肉なことだ、と夜須はせせら笑った。なぜなら、もはや和田津集落に住む人たちは自分たちが贄にならないために、策を講じているのだから。

 わだつ日記ではそこまでは言及はしていない。おそらく海で死んだ交野家の先祖たちが連綿と語り継いできた話を書き記しただけなのだ。交野家は確実にてふの願い通り根絶やしにされた。いや、まだ交野がいるかもしれないから根絶やしにはなっていないか、と夜須は独りごちた。

 ただし、揚羽がてふの化身ならば、一緒にいた交野の存在は酷くあやふやになる。考えないようにしていたが、夜須は惣領屋敷の荒れ具合を思い出してしまう。交野は一年前にいなくなったという島民の言葉を信じるならば、院をやめてすぐに姿を消したことになる。いったんは島に帰ってきてから、消えたのだ。それを積極的に探さない島民になんとなく悪意を感じた。自分たちだけ助かればいいという考え方だ。夜須は島民たちを醜い人間だと断じた。

 眠くなってきて思考が散漫になり、まとまりがなくなってくる。

 女神とシジキチョウは結局どこから来たのだろう。鯨と一緒にやってきたと言い伝えられている。空ろ舟に乗ってやってきたとガイドが言っていた。鯨が空ろ舟だったのだろうか。その腹の中に、得体の知れないものがシジキチョウと一緒にいた。それが海の女神——綿津見毘女命と呼ばれる存在として祀られた。

 夜須はとりとめなく考えながら、次第に重たくなる瞼を閉じる。

 人々の信心が必要な神なのか、それとも贄を見境なく求めてむさぼり食っているだけなのか……。

 夜須も、誰にもその真意が分からない————。

#創作大賞2025   #ホラー小説部門

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