忌み地 第六章 結花子 ①
結花子は奇妙な夢を見た。
葦の生える泥でぬかるんだ浅い水たまりに自分が横たわっている。手足が痺れて動かず、自分は流行病にかかったのだという自覚がある。死んでいるのかそれともいまだ生きているのかわからない。徐々に体がこわばっていき、手足の感覚がなくなったと思ったら、自分をここまで運んできた男が上に覆い被さってきた。男が自分の体をまさぐり、乱暴に目合を持ったことを感じた。男は散々自分をおもちゃにして満足したのか離れてくれた。これで徐々に意識がなくなっていくのだと思ったら、男が膨らんだ腹に鉈を当てたのに気付いた。慣れた手つきで、まるで瓜のように自分の腹を割いていく。とうとう慈しんで育てた赤ん坊をむげに取り上げられた。声を出したくても出せない。石のように固くなった舌が、唇から飛び出したのがわかった。半開きになった口元から血が泡を立てて流れ落ちる。腹からも口からもだらだらと血が流れ出ていく。男が赤ん坊をどうするのかわからない。奪われた赤ん坊を取り戻したくて、身動ぎしようとしたが、自分はすでに死んでいたことを思い出した。
その夢を見るようになってから、ますます眠れず、体調を崩しがちになっていった。そんなふうになっても、夫は気付いてはくれない。夫自身もほぼ連日夜中に起き出して、仏間にある人形の元へ行ってしまう。家と人形に蝕まれて、夫婦揃って狂っていく。
昨日も今日も、多分明日も同じ怪異が起き、それに慣れてきている自分がいた。祀りあげてもますます家がおかしくなっていく。
結花子はまた十万円を払ってもいいから、この状態から抜け出したくて、三宮祈祷所に電話した。
「お願いです。先生と話がしたいんです。どうしてもお願いしたいことがあるんです」
電話口で結花子は、「先生と話がしたい」とごねた。
「予約を入れてください。先生はお忙しい身なのです。電話での相談は受け付けておりません」
弟子の女性に何を言ってものれんに腕押しだった。
しつこくお願いをして、ようやく三日後に予約を入れられた。三日間耐えるしかない。きっと先生が解決してくれるはずだ。人形にお供物を捧げても全く効果がなかったにもかかわらず、結花子は今度こそ先生が解決してくれると期待した。
祈祷所へ赴いて、数時間待たされてから、ようやく先生がいる奥座敷に通された。
先生が結花子の様子を見るなり、声を荒げた。
「おまえの家には邪悪なものが住み着いておるぞ! それを祓わねば、次々と不幸に見舞われるぞ!」
「お願いですから、先生のお力で邪悪なものを祓ってください」
結花子は必死に頼み込んだ。
「うちに来て直接視てください。家に取り憑いているものがなんなのか教えてください」
懇願する結花子に、弟子が寄ってきて耳打ちする。
「先生はご多忙な身ですが、お気持ち次第でなんとかいたしましょう」
「わかりました」
藁にもすがる思いで結花子は承諾した。お気持ち次第でなんとかなるならば、可能な限り貯金を崩せばいい。
「今日はおまえに取り憑いている不浄な霊を祓う」
結花子は、弟子に言われたとおりに手を合わせて目をつむった。自分に取り憑いた不浄の霊とは何だろう。人形に取り憑かれているのだろうか。不安が心の中で渦を巻き、心穏やかに目をつむっていられない。
先生が放つ気合いが祈祷所中に響き渡る。幣を振ると同時に、左右にいる弟子が太鼓を叩き、神楽鈴を鳴らす。うなだれた結花子の頭の上で幣がバサバサと音を立てている。先生が唱える大祓詞に合わせて、神楽鈴と太鼓が激しく打ち鳴らされる。大祓詞を唱え終えるまでそれが続き、やがて静かになった。
「これでおまえに取り憑いていた悪霊は祓えたぞ」
結花子は目を開けて、先生を見つめる。悪霊とは人形のことなのか。人形の霊を祓ってくれたのだろうか。
「先生、悪霊というのはどういうものだったんですか」
先生はもったいぶった様子で渋ったあと、答えた。
「おまえに邪まな思いを抱いておる生き霊だ。おまえに取り憑いておったのを祓ったゆえ、大事ないと思え」
生き霊? 結花子は首をかしげる。
「あの、先生。生き霊ってなんなんですか」
「女だ。髪は肩まで伸ばしておる。心当たりはあるか」
そこまで聞いて結花子は腹を打って入院したときのことを思い出した。
白い肌の腕を伸ばし、うつ伏せになった女が脳裏に浮かぶ。あのとき、結花子の足首を掴んで引いた、悪意ある腕を思い出した。見覚えのある髪型、背格好。それらに当てはまるのは亜美だけだ。
「亜美が……」
悪びれることもなく親友の夫を寝取ったうえ、夫の赤ん坊を孕んだ女だ。自分に取り憑いただけでなく、さらに苦しみを与えてくるのか。
先生が結花子と向き合って低い声で告げる。
「その女はおまえと深い縁を持っている。一旦その縁を断ち切ったゆえ、もう二度と生き霊を飛ばせまい」
「ありがとうございます」
やっぱり凄い先生だ、と結花子は感激した。最初のうちは半信半疑だったが、結花子の周囲を取り巻く人間や事柄をことごとく言い当てていく。きっとこの方なら、あの家を正常に戻してくれるはずだ。
「お願いです。先生のお力で私の家を視てください。引っ越してきてから毎日怖い思いをしているんです」
結花子が訴えると、脇に控えていた弟子が先生に耳打ちした。弟子の話を聞きながら老女が深く頷いている。
「わかった。おまえの願いを聞き届けようぞ」
「ありがとうございます」
結花子は深々と頭を下げて礼を言った。
祈祷が終わってから別室に通されて、またもお気持ちを求められた。
「今日は霊視とご祈祷をいたしましたので、三十万いただきます」
一瞬、ぎょっとしたが素直を頷いた。すぐに準備して渡すと約束したあと、家に赴いて祈祷する場合のお気持ちはいくらかと訊ねる。
「五十万でございます。当日、先生にお渡しできるように準備しておいてください」
これで自分の貯金はほとんどなくなってしまったが、金でなんとか出来るのであれば可能な限り払うつもりだ。
また夢を見る。
結花子は灰色の曇天を見上げていた。視界の端に覆い被さるように葦が茂っている。自分は湿原に横たわっているようだ。
自分だけではなく、他にもたくさんの屍が転がっている。腹を裂かれた孕み女たちが、赤ん坊を取り上げられて恨み辛みの涙を流し、怨嗟を口から漏らしているのが聞こえる。死んだ赤ん坊はどこへ行ったのだろう。体の一部を奪われた孕み女は腐りながら、泥と混じり合いながら、蕩けていく目玉を動かし、盗人を捜し続けていた。
結花子の腹を裂いて、泣く赤ん坊を連れ去った男の顔が思い出せない。死んでもなお肉体にとどまり、湿原のよどみに浮かんでいる。蛆が皮膚の下に潜り込み腐肉を食《は》む。
腐り果て骨となった自分が見る夢のなかで、打ち捨てられた屍肉が湿原全体を埋め尽くす。それを踏み歩く男の丸まった背中を恨めしそうに見ているしかなかった。
湿原に土砂が投げ込まれて、骨は埋もれていく。ぬかるみに沈む結花子だったものは怨嗟を孕んだまま土砂の下敷きになっていった。
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