呪願の代償 第四章 井戸 5
夕季の魂か、肉体のどちらにすがればいいか分からなくて、涼々は優しいおじさんの背広を両手で握り閉めた。
「嬢ちゃん、お姉ちゃんと話がしたいか?」
涼々はおじさんを見上げる。
「お話し出来るの?」
もう夕季は死んでしまったのに? と不思議そうに見つめた。
「お姉ちゃん」
おじさんが話しかけると、肉体のほうではなく、夕季の魂のまぶたが開いた。目玉だけがキョロキョロと動いていたが、何度も瞬きをして、口を開いた。
『涼々』
「お姉ちゃん!」
涼々は夕季の腕に両手を当てた。
「お姉ちゃん、生き返って! 涼々を置いてかないで!」
夕季が、涼々を見つめて優しく微笑んだ。
『涼々、私、死んだのかな?』
「死んでないよ!」
夕季が、『そっかぁ』と呟いた。
『ごめんね。でも側にいるから』
「涼々を一人にしないで」
涼々は泣きながら、夕季の腕を揺らした。強く揺さぶると、夕季が苦笑いを浮かべて、涼々の手を止めた。
『ママも側にいるよ』
「いないもん」
夕季が、涼々のために優しい嘘をついたと思った。
『涼々、私達、ママに捨てられたんじゃないよ』
涼々は、目を見開いて夕季を見た。
『ママはね、パパに殺されて井戸の底にいるんだ。次は、涼々かもしれない。今すぐ、パパから逃げて! あんたも殺されちゃう』
涼々は驚いて言葉を失った。
『私は、ママを井戸に落とす為に、パパの手伝いをさせられたんだ。パパに警察にばらすって言われて怖くて、涼々に言えなかったんだ。ごめんね』
「ママは井戸にいるの?」
涼々の脳裏に井戸のお化けが浮かんだ。あの怖いお化けがママだとは思いもしなかった。
『涼々が井戸に怖いお化けがいるって言われて、怒っちゃってごめん』
「うう」
全て、自分の勘違いだったのだ。夕季が井戸の側で泣いていた訳を知った。何故、お化けが泣いている夕季の側や、夕季がパパに殴られていた時に側にいたのか、その真実を悟った。
「ママ」
『涼々、パパから逃げてね』
「お姉ちゃん。行かないで。ずっと涼々といっしょにいて」
涼々は夕季の手をぎゅっと握った。
『だから、ずっと側にいるって。涼々は寂しがり屋さんだな』
涼々の頭におじさんが、ふんわりと手のひらを当てた。
「そろそろ、お姉ちゃんを見送ろう」
「どこへ?」
「天国だ」
涼々が目を大きく見開いた。
「天国に行っちゃったら、お姉ちゃんと会えないよ」
おじさんが笑う。
「そうだな。でもな、魂はどこにでも存在出来る。嬢ちゃんの側にもいるし、天国にもいる。地獄は違うけどな」
「本当に?」
「うん、心配するな。それに、おじさんも頼りになる人に涼々ちゃんのことを頼んでおいた。だから安心していい」
おじさんに優しく諭されて涼々は頷いた。
「それに嬢ちゃんのお姉ちゃんは綺麗な魂だ。きっと嬢ちゃんを守ってくれる」
涼々は、夕季を見た。心なしかキラキラと透明に輝いている。
『じゃ、またね』
夕季の手が、涼々の手の中でキラキラと輝きながら薄れていく。
キラキラとした粒子が空へ巻き上がっていき、夜空の星へと消えていった。
涼々はいつまでも空を見上げていた。
気付くと優しいおじさんもいなくなっていた。
暗い公園に、涼々はぽつんと取り残された。側に地面に倒れた夕季が横たわっている。
胸の中に小さな穴が空いた。いくら、側にいると言われても、夕季はもうこの世界にはいないのだ。
涼々は夕季の側に蹲って静かに泣いた。
偶然、公園を通り掛かった大人に、救急車を呼んでもらい、そのあと、親族のいない左奈田親子の世話を町内会長が務めて、なんとか葬式を上げることが出来た。
扱いづらい夏生に周囲の大人はみんな迷惑そうではあったが、涼々には優しくしてくれた。
児童相談所の所員が来たけれど、夏生が追い返してしまったので、施設に入る話は今のところなくなってしまった。
涼々は、一人きりになった。
何もしない夏生の世話を、涼々は頑張ってこなした。
ことあるごとに、「夕季を殺したのはおまえだ! この人殺しが!」と怒鳴られて殴られた。痛い思いをして初めて夕季の気持ちを心底理解出来た。
夕季の深い愛情を知るのが遅すぎて、涼々は後悔した。
何度も井戸の側に行って、月乃を呼んだ。確かに井戸のお化けは側にいた。けれど、月乃だと思えるだけの確信がなかった。
夏生に殴られる度に、井戸に身を預けて泣きながら、「ママ、ママ」と祈る毎日だった。
夕季の初七日を迎えて、涼々は位牌とお骨に手を合わせた。位牌の横にラムネ瓶を置いた。ラムネ瓶が何をするか、涼々は夕季の時に痛いほど良く理解した。
夏生がこのラムネ瓶に気付けばいい、と暗い感情が胸に湧く。今度殴られたらラムネ瓶を夏生に向けるのだ。そのあと、自分もラムネ瓶に殺されたらいい。そうすれば何もかも解決する。だから、持っていることにした。優しいおじさんなら、そんなことしたらダメだと言うだろう。でも、公園に行けなくなったから、優しいおじさんにも会えなくなった。
絶望すればするほど、涼々のラムネ瓶は真っ黒に煤けていった。
習慣になった家事もずいぶんこなせるようになった。涼々は夏生がいない間に掃除をしてしまおうと、掃除道具を持って夏生の部屋に入った。掃き掃除と拭き掃除を終えて、押し入れの埃を取ろうと開けてみると、一番手前に大きなボストンバッグがあった。
涼々はその見覚えのあるバッグを不思議そうに見つめた。
押し入れから引きずり出して、チャックを開けて中を確かめたら、涼々と夕季の服、見覚えのある月乃の服などが詰め込んであった。
「ママのバッグだ」
なぜ、バッグに涼々や夕季の服も入っているのだろう。月乃は夏生に殺されて、井戸に落とされた。男と逃げようとしたからじゃないのか。
夕季はそのことは教えてくれなかった。夕季も知らないことだったのかもしれない。
月乃は、男と逃げたんじゃない。涼々と夕季を連れて家を出ようとしたのだ。その準備をしているところを、夏生に見つかり、殺されたのではないか。
死んだ月乃の荷物を隠して、夕季に月乃の死体を井戸に捨てる手伝いをさせた。
「ママ」
月乃が最期まで自分達のことを考えていたことに、涼々は涙が出た。ずっと置いて行かれたと思っていた。
涼々は掃除道具とボストンバッグを持って、自分の部屋に戻った。ボストンバッグを押し入れに隠し、井戸に向かった。
冬になって、すっかり寒くなった。涼々は薄着のまま、裏庭に入った。すっかり枯れてしまった雑草の向こうに井戸がある。黒い肉の塊は、太陽光の当たらない日陰に隠れているようだった。
涼々は夕季のように井戸にすがりついて、月乃を呼んだ。
「ママ」
何度も月乃を呼んだ。
井戸の石蓋から、泥だらけの腕が生えた。蓋を突き抜けて、あの不気味なお化けが顔を出す。
涼々は、もはや井戸のお化けを怖いと思っていない。
呼びかけにいつも応えるわけではないけれど、今日は現れてくれた。ボストンバッグを見つけたからだろうか。
「ママ」
お化けを見上げて、涼々は何度も呼びかけた。
「ママは涼々を連れていこうとしてくれたんだね。いっしょに逃げようと思ってくれたんだね」
胸に熱い震えが込み上げてきて、涼々は目に涙が溢れるのを感じた。
「ママ」
長い泥にまみれた髪の隙間から、か細い声が聞こえた。
『す、ず』
「ママ」
『すず』
ママだ!
涼々は立ち上がって、お化けに抱きついた。お化けは首をかしげて、涼々の肩に頭を置いた。歪んだ腕では涼々を抱きしめられないのか、じっと、そのまま涼々に抱きしめられていた。
「お姉ちゃんの言うとおりだった」
井戸にママがいる。お化けはママだった
何度も、心の中で呟いた。
ずっとこうしていたかったが、帰ってきた夏生の呼ぶ声に驚いて、窓を振り返った。家の中を夏生が歩き回って、涼々を捜している。
恐怖に体が固まった。
肩に置かれた月乃の頭が涼々の肩を擦る。
「ママ」
夏生に殴られるかもしれないけど、月乃がいることが分かって、涼々の心は慰められた。これからはいつでもママに会える。そう思うと、夏生が少しだけ怖くなくなった。
殴られるのは痛いけど、ママがいる。それが唯一の、涼々の心の支えになった。
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