ぐひんの山 第三章 甕 ③
暑さも相まって、背中に汗をかく。額には脂汗がにじむ。心臓の鼓動が不安によって激しくなる。
まさかと、振り返って平良須山を見上げた。大きな鉄塔が山から突き出ている。陽菜たちが鉄塔の空き地にいる間に、山を登って行ってしまったのか。
そのときやっと陽菜は思い出した。
「弥生に一人で山に登ったらいけないって言ってなかった……。わたし、うっかりしてた……」
後悔に心が蝕まれ、何度も悔やんで陽菜は自分を責めた。あれだけ、祖母が陽菜に絶対に子供が一人で山に入るなと言ってくれたことか。だから、陽菜は不思議な声に連れていかれずに済んだのに、弥生はそんなことすら知らずに山に入ったのだから、何が起こってもおかしくない。
一旦、実家に戻り、父親に声を掛ける。
「弥生、村にもいないみたい。山に行ってたらどうしよう」
焦りが声音にも出てしまう。込み上げてくる不安を落ち着かせながら、警察を呼ぶべきか、と父親に相談した。
父親は少し思案したあと、
「そうだな。もう四時になるし、もし山に入ったなら今すぐに捜索願出すほうがいい。陽菜、母さんと警察に電話してくれ。俺はみんなに聞いてみる」
父親はそう言って村へ出掛けていった。
言われたとおり、陽菜はまず母親に電話をした。
「お母さん、弥生がいなくなった。みんなにお父さんが聞いて回ってる。これから警察にも電話する」
『弥生が!? 今すぐ、そっちに行くから』
電話越しに慌てているのが、声音で分かった。
「わたしも今から行ってくる」
『そうして! どうしよう……、どうしよう……』
母親はかなりうろたえていて、ショックを受けているようだった。
「大丈夫だから、きっと弥生は見つかるよ」
『そうね……。見つかる、きっと……』
電話切ったあと、すぐに警察に妹がいなくなった旨を知らせた。すぐに饗庭村に向かうと警察に言われ陽菜は通話を終えた。
急いで靴を履いて、小走りに隣の民家に向かう。
玄関を開け放っていたので、陽菜は玄関口から呼ばわった。
「すみませーん」
ワンテンポ遅れて、夕飯の準備をしていたのかエプロン姿のおばさんが出てきた。
「あら、陽菜ちゃん、どうしたの。さっきも健夫さんが来たけど……、本当に弥生ちゃんがいなくなったん?」
「父も聞いて回ると言ってたんですけど、わたしも心配になって……」
「そりゃ、急に子供ばおらんくなったら、ねぇ。警察にも電話した?」
おばさんが白いエプロンで濡れた手を拭いながら訊ねてきた。
「さっき電話しました。それで、三時過ぎに弥生を見ました?」
おばさんは首をかしげる。
「見とらんねぇ」
隣家に弥生はお邪魔してないようだった。
礼を言ったあと、他の家々を巡り、弥生のことを聞いて回ったが、みんな一様に「知らない、見ていない」と答えた。
十年前、あることがきっかけに母親が村八分にされたことは覚えている。子供だった陽菜が話しかけても、まるでいないかのように振る舞われたことに、どうしようもない怒りと哀しみを味わった。今もまだそれは健在なのだろうかと危惧したが、素っ気ない態度をされただけで済んだ。けれど、耐えられなくなって村のコミュニティから逃げた桐野家を、村民がどう思っているかまではわからない。
県道に沿いにある聡の家が何やら騒がしく、どうも他の村民も集まっているようだ。
近づくにつれ、父親と聡の祖父が言い合っているのだとわかった。
「きさんが平良須山に首つり鉄塔ば立てたせいで、うちの嫁がおらんくなったんや!」
「あそこはぐひん様の山や。あんたも一人で入ったらいかんち、知っとったろうもん! あんたらに親父がそうゆうとったの知っとるぞ。鉄塔のせいやなか」
「そりゃ、入ったらいかんちゆう山に入ったけ、おらんようになっちゆうんか! こっちのせいにするんか!?」
「おう、そうや! だいたい、あの山はうちの山やぞ。勝手に入るほうが悪い! それにうちも娘がおらんようになったんやぞ。まさか、きさんとこの嫁が連れていったんちゃうんか!」
「はぁ?」
高倉家の玄関先で聡の祖父と陽菜の父親が、つばを飛ばす勢いで言い合っているのを、村民が見守っている。誰も双方を止める気はないらしい。村民の中にはニヤニヤしている老人もいる。
陽菜は入るに入れず、うろたえて二人を見ているしかなかった。話が聞けそうな村民を探すが、皆、高みの見物を決め込んで面白いものを見るかのような様子だ。
どうにか聡を見つけて、側に寄った。
「聡くん、一体何があったの?」
聡が陽菜のほうに顔を向けると、意気消沈した様子で教えてくれた。
「母さんが帰ってこないんだ。平良須山に行く約束してたって、隣のおばさんに言われたんだけど、おばさんは具合が悪くなったから、母さん一人で山に行ったみたいなんだ」
「え?」
一人で平良須山に入ったのか……? と陽菜は驚いた。平良須山に一人で入ったら神隠しに遭うとか山神様に食べられるという話は村中が知っていることだ。確かにいまどき一人で入るなという言い伝えを、いまだに本気で信じている村民もいないだろう。ただ、一人で入るのが漠然と不安に感じるだけだ。他の山には、そんなジンクスなどないからこそ、反対に真実味が薄れる。幼い頃に怖い思いをした癖に陽菜自身も例に漏れない。
「誰も入らないから山菜が取り放題だっていつも言ってたから、母さん、一人で入ったらいけないってのを忘れるか、信じてなかったんじゃないかな……」
落ち込んでいる聡に陽菜が言う。
「うちの弥生も一人で山に入ったみたいなの」
「え? 陽菜ちゃんとこも?」
「さっき警察呼んだ。聡くんは警察に電話した?」
聡が慌ててスマホをポケットから取り出して電話を掛けようとしたとき、県道の路肩に停まったパトカーから二人の警察官が降りてきた。
いち早く警察官に気付いた村民が道を譲り、人集りの輪が解ける。それを見た聡が人の間を潜り抜けて年配の警察官のほうへ行ってしまった。その後ろを陽菜も追う。
年配の警察官がケンカを中断した二人に事情を聞いているが、聡の祖父は興奮が冷めやらないようで、警察官に食ってかかっている。
「じいちゃん!」
聡が祖父に駆け寄って、なだめ始めた。
「ちょっと興奮しないで」
と言う警察官に、陽菜が口を挟み今までのことを説明した。
「では、いなくなる直前までお父様と一緒だったわけですね」
父親が困惑した表情を浮かべる。
「直前というか……。てっきり家でおとなしく遊んでいると思っていたんです」
警察官が父親の話をメモに取り、今度は陽菜に訊ねる。
「あなたは友人と一緒に鉄塔がある場所にいたと?」
「そうです」
聡が、メモを取る警察官に焦るように言いつのった。
「うちの母さんも山に入ったきり戻ってこないんです。警察に電話しようとしていたところだったんです」
「はぁ。一応、お尋ねしますが、お母様は別の山に入った可能性はないですか? もしくは家庭内で何か悩み事とか」
すると横で黙って聞いていた聡の祖父が怒鳴った。
「はぁ? なんゆうとるんか! 悩みとかあるわけなかろうもん。他の山に入ったなら、暗くなる前に帰ってきとるが」
興奮して顔を真っ赤にした祖父を聡がなだめる。
「よしなよ、じいちゃん」
そこへ、村民の一人が駆けつけた。
「おまわりさん、やっぱり平良須山におるんやないやろか」
そう言って、女物のつばの広い農作業用の帽子を見せた。
「これは?」
「杉林の斜面に落ちとった」
聡の顔色が青くなっていく。
「母さんはいつ頃出掛けたの」
「昼過ぎやったか。確か一時頃やったぞ」
と、聡の祖父が口を挟んだ。
警察官が陽菜の父親に顔を向け、
「桐野さん、ちょっと署でもう少し詳しくお話を伺えますか」
後ろに控えていた若い警察官に促されるまま、父親はパトカーに乗り込んだ。しばらくして若い警察官が戻ってきて、耳打ちする。
ひそひそと何やら話していたが、やがて若い警察官は父親を連れてパトカーで、町に戻っていった。
「あの……、うちの父だけどうして警察署に連れていかれたんですか」
陽菜が解せない顔つきで警察官に訊ねた。
「詳しく話を聞かせてもらうので」
としか言ってくれなかった。
空が薄暗くかき曇り、ポツポツと雨が降り始め、そのうち大粒の雨に変わった。
慌ててその場にいるもの達は、高倉家に避難した。
聡と陽菜は並んでひさしに逃げ込む。
聡が暗い表情で陽菜に呟く。
「首つり鉄塔に行ったなら、僕達と会うはずだよな」
先ほどからあの鉄塔のことを、首つり鉄塔と呼ぶのはどうしてなのか、素朴な疑問を聡にぶつけてみた。
「ああ、あの鉄塔が出来てから、やたら村外の人たちが来て自殺するから、首つり鉄塔って名前がついちゃったんだ。陽菜にとって気持ちいい話じゃないから伝えなかったんだ。陽菜のばあちゃんのこと思い出すだろうし……」
聡が歯切れの悪い答えを返した。
「あの鉄塔、あれから自殺の名所になったの?」
「心霊スポットだって話を中学の頃聞いたことがあるよ」
「そうなんだ……」
当時、父親が何故平良須山の土地を電力会社に貸したのか、それだけでなく鉄塔が立った理由も幼すぎてわからなかった。今思えば、父親は独立して起業するのに金が必要だったのだ。だから相続した山を好きなようにした。祖父が亡くなったこと、自分の息子が祠を潰したこと、そのせいで祖母は一気に認知症が進んでしまったのだろう。だから祖母は鉄塔で……、首を吊ったのか。
陽菜は忘れかけていた最悪の記憶を思い出し、ぶるっと震え、汗ばむ暑さなのに寒気を覚えた。
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