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ぐひんの山 終章 ①

 浅い息づかいが、次第に深くゆっくりと落ち着き始めた。陽菜は玄関の引き戸の向こう、夜が明けるまでの長い時間、誰も侵入できないようにそれだけを心がけた。縁側の掃き出し窓もきっちりと閉めた。玄関の引き戸も鍵を閉めて、見張っている。

 何をすれば逃げられるか、そのことばかり頭に浮かぶ。夜が明ければ、ぐひん様は山から下りてこない。太陽が平良須山から顔を出してすぐに母親を車に乗せる。そうすれば、母親だけでもぐひん様と饗庭村から逃がすことができる。

 陽菜は、愛しくて堪らなかった弥生の顔を思い浮かべる。その顔が、もろもろと土が崩れるように、弥生の形を保っていた虫が四散する光景を思い出す。

 弥生がもう二度と戻ってこないことに対して、哀しみと怒りが混じった感情がわき上がった。二年前に何があったか、想像に難くない。

 陽菜が幼馴染み達と平良須山に登り、タイムカプセルを埋めている間に、弥生は蔵に閉じ込められたのだ。『かんすさび』がどのくらいの時間、おこなわれていたか知らなかったに違いない。ようやく蔵の扉を開けたときにはすでに遅く、弥生は消え去っていた。『かんすさびが上手に出来ない子』だった弥生は、この世のものでない存在に連れ去られた。それがどこかはわからないが、確実に連れ去られたことで、弥生の体は変化して、ぐひん様の一部になった。過去、何人もの子供達が、『出来ない子』として連れていかれたのだろう。ぐひん様を具現化する力はそう言った子達によって作り出された。『かんすさびが上手に出来た子』『出来ない子』は、たまたまランダムに選り分けられているのだろうか。いや違う、と陽菜は思った。

 甕にはぐひん様。木箱にはおそらく福の神。その二つは対極にある。何かが鍵となり、『かんすさびが上手に出来た子』を選んでいるのか。それならば、ぐひん様こそ『かんすさびが出来ない子』を選び、福の神は『かんすさびが上手に出来た子』を選んだと思われる。

 陽菜は自分の過去を思い出そうとした。蔵に入ってそこで自分は何をおこなったのか、必ず覚えているはずだった。タイムカプセルに入れた手紙のことも思い出せたのだから、蔵での出来事も必ず思い出すに違いない。

 祖父に『かんすさびが上手に出来た子』と喜ばれたのは、福の神に選ばれたおかげなのか。しかし、その幸運は祖父母には訪れなかった。その福を手に入れたのは起業したてで金がなかった父親だった。『かんすさび』がおこなわれてから十二年間、父親は幸運を授かったが、十二年の期限が来て、再び、『かんすさび』をおこなう必要があった。

 弥生はその犠牲になったのだ。陽菜が『かんすさび』をした年から十二年後に、弥生は七歳になった。これはもはや不幸というしかなかった。

 落ち着きはしたが、緊張は和らがない。陽菜はじっと引き戸のガラスを見つめる。ガラス戸の向こう側に、弥生が現れないか、それだけが怖い。父親の安否も気になるが、探しに行く気がしない。

 甕と木箱の中身は対だと思われる。頭と体をすげ替えて繋がりを強くする。山の民はそうやって、装置を作った。甕の中身が禍々しいほど、福の神からもたらされる幸運は強く長く続いたのだろう。その期限が十二年だったのではないだろうか。十二棟の蔵があったのは、期限に合わせて分家を増やしたのだ。

 座敷牢はおそらく『かんすさびが上手に出来た子』を閉じ込めるためのものだったのではないか。そうでなければ、祖父がぬいぐるみを陽菜の身代わりに蔵に置いていくわけがない。

 弥生がしきりに「遊ぼう」と言い続けていたのは、弥生自身が『かんすさび』をされる側になったからだ。ぬいぐるみを補修することを選んで正解だった。

 真っ暗な玄関に一人膝を立ててうずくまり、時が過ぎるのを待っている。だれかに電話をして気を紛らわせたいと思うが、きっと話し声を聞かれて弥生がやってくる気がしてならない。今、弥生は里に下りて陽菜と母親を探しているはずだ。

 どのくらい耐えれば、夜明けは来るのだろう。不自然なほど静かな夜だ。しんしんと冷え、陽菜は寒さに震えた。仏間にある布団を持って来てくるまりたい気分だ。今までのことなどなかったことにして、眠ってしまいたい。けれど、それが許されない状況だ。

 手元にある装置は甕だけ。それも重要な中身がなくなり、封印も解かれてしまっている。つくもの見立てでは装置は壊れている。元に戻すには、桐野家の先祖の山の民と同じ事をしなければならない。

 甕の中身におそらくぐひん様の一部が封印されたため、ぐひん様は里に下りることが出来ず、テリトリーである平良須山から出られなくなった。

 同じ事が福の神にもおこなわれた。福の神も装置が壊れない限り、ずっと桐野家に縛られたわけだ。

 もしも、弥生が生まれなかったら、陽菜で『かんすさび』は最後になったはずだ。もし十二年ごとの『かんすさび』が途絶えたらどうなっただろう。果たして、身代わりのぬいぐるみで儀式をごまかせたのだろうか。

『かんすさび』は神に捧げる生け贄の儀式なのだとしか考えられない。陽菜のように福の神に捧げられるのか、弥生のようにぐひん様に捧げられるのか。

 そう考えたら、さぁっと血の気が引く。

 祖父はぬいぐるみを身代わりに作ってくれたけれど、もっと昔だったら、私宅監置という名目で地下の座敷牢に次の『かんすさび』まで監禁されていたかも知れない。

 雪の降り積もる音が聞こえてきそうなくらいに寒い。かじかんだ手を擦って息を吐きかける。

 自分の考える仮説が、背筋が凍るほど怖い。

 玄関先で雪を踏む音が聞こえて、陽菜はハッと我に返り、顔を上げた。

 まだ外は暗く、濃い闇に包まれている。陽菜は息を潜めて、じっと耳を凝らした。ざくざくと雪を踏む軽い音と、ハッハッという動物の息づかいがガラス戸の向こうから聞こえてきた。

 屋内のほうが外より暗いのか、ガラス戸にシルエットが見える。影はゆらゆらと揺れながら、引き戸の前にたたずんでいる。頭が異様に大きく、体は三歳児くらいに見える。その影がガラス戸を覗き込み、窺っている。

「陽菜」

 影が幼い声で呼びかけてきた。ガシャッとガラス戸にペタペタと手を突いて、引き戸を開けようとして、何度もガタガタと鳴らす。陽菜の名前を呼びながら、引き戸の前を右往左往している。聞こえてくる幼子の声と影を見ていると、次第に陽菜の脳裏に蘇るものがあった。

 七歳の時、『かんすさび』をするために蔵に閉じ込められた。艶やかな振り袖を着せられ、お菓子とジュースを与えられる。ろうそくの火すらない暗い蔵の中で、素直に何かが起こるのを待っていた。

 そのときに遊んだのが、たった今引き戸の向こうにいる男の子だった。首から下がオオカミの異様な姿を見ても、陽菜は怯えなかった。そのときはそれすら気にならず、その子を受け入れて遊んだのだ。

 それを思い出し、陽菜は口を両手で押さえて声が漏れるのを塞いだ。

 長いこと、二つの影は引き戸の向こうを彷徨いていたが、外が明るくなるにつれて、現れたとき同様に気配が消えた。

 陽菜はそこで初めて深く息をついた。外は黎明の光に包まれ始め、磨りガラスの向こう側に光が差し始める。それでもすっかり太陽が昇るまでは引き戸を開ける気など起こらなかった。

 まだ外に得体の知れないものがいるのではないかと怯えて、息を潜めじっとうずくまっていた。


 母親の様子を見に行くと、寝室の布団はそのままで、まさかと縁側のある部屋へ急いだ。縁側に母親がへたり込み、掃き出し窓を開け放って、外を眺めている。

 陽菜は慌てて掃き出し窓を閉め、鍵をかけた。

 母親は体を前後に揺らしながら、クマのぬいぐるみを抱きしめている。弥生が戻ってくるから掃き出し窓を閉めるな、と陽菜に言った。

 どんなに説得しても動こうとしない母親に逃げる気などひとかけらもないのを見て、今度は仏間にある甕のところへ一人で行った。

 甕のぐひん様を封じ込め、木箱と繋げバイパスの機能を取り戻すのに、先祖と同じ事をしなければならないのであれば、絶対に再現出来ない。甕と木箱の中身は解放されて、平良須山と饗庭村を彷徨いている。どうすればいいのか逡巡するが、時間だけがいたずらに過ぎていくように感じて、脂汗が額と背中に噴き出す。

「どうしよう……、どうしたらいい……」

 どんなに考えてもこのパズルを埋める欠片ピースが見つからない。早くしないと、何かが起こるような悪い予感にせき立てられて、じっとしていられない。

 甕だけだから良くないのか、けれど、木箱は平良須山にいる弥生の元にある。もしその木箱があのまま鉄塔の空き地にあるならば、木箱が元々あった蔵に甕を置くべきだ。

 甕を持ち上げようとしたとき、急に上着のポケットがブルブルと震えて思わず甕を床にゴトッと落とした。振動に驚いて陽菜は心臓が止まるかと思った。ポケットの中のスマートフォンに着信があったようだ。急いで誰からの着信か確かめようと取り出したが、何故かすぐに留守電に切り替わってしまった。白からの電話だったが、出ることなど出来そうにないから、スマートフォンをポケットに戻した。

 陽菜は改めて甕を持ち上げて、仏間を出ようと振り返った。目の前に母親が立っていて、驚いた陽菜は甕を畳の上に落としてしまった。封印が破られて今ではなんの役に立たない木の蓋が転がる。

 一瞬転がる蓋に目を向けていたが、ハッとして顔を上げた。目の前にいる母親の髪は乱れ、目がうつろにくすんでいる。さっきは見えなかった喉元にうっすらと赤い筋を見た。

「え?」

 陽菜は自分の目で見たものが信じられなかった。

「お母さん……」

 まさか、家に逃げ込んで寝室に母親を連れていったあと、縁側に出た母親が掃き出し窓を開け放ったのか。それなら、陽菜が玄関で見た影がいた間も、この窓は開けられたままだったのか。

 途端に陽菜の背筋が凍った。

「これを持ってどこへ行くの?」

 母親が静かな声音で訊ねてきた。陽菜が何をしようとしているか、理解はしていないけれど、それを阻止しようと思っているのは伝わった。

「家に帰るんだよ」

 陽菜は覚悟を決めると、語気を強めて返した。

#ホラー小説部門 #創作大賞2025

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