呪願の代償 第一章 除霊師 3
笑い声とも叫び声ともつかない、耳障りの悪い声だ。長く聞いていると、背筋に悪寒が走る。
両親が羽交い締めにしたまま、少年は座敷に連れていかれた。
「匠、おまえが押さえつけなさい。何があっても放すんじゃない」
光一郎に指示され、匠は警戒しながら少年の両脇に腕を回した。少年がものすごい力で匠の腕を振り切ろうとする。それを渾身の力と体重で押さえつける。
「小山内さん、非常にたちの悪い悪霊が、お子さんの魂を食おうと取り憑いている。最近お子さんの身の周りで何か思い当たることはなかったですか」
立ったまま、光一郎が同じように立ちすくむ小山内夫婦に問うた。
父親が、慌てたようにジャケットのポケットから、ガラス製の黒く煤けたラムネ瓶を取り出した。
「これを。ずっと手放さないで持ち歩いていました」
ラムネ瓶を光一郎に手渡す。手早い動作で、光一郎がラムネ瓶に札を貼った。光一郎が除霊の際によく使う竹簡に書かれた真言と同じ文字が、札の表面に書かれてある。
「この呪物、こちらで処理しましょう」
札を貼った黒く濁ったラムネ瓶を、黒光りする木箱に収めた。
「お願いします、先生」
その間も、しわがれた声音で少年が笑い続けている。それを耳元で聞かされる匠は生きた心地がしなかった。
押さえつけているけれど、少年の体は恐ろしいくらい曲がりくねった。背を反らし、関節が外れんばかりに四肢を曲げる。匠は、少年を押さえつけるだけで精一杯で、他のことに意識が回らなかった。
光一郎が竹簡を取り出し、少年の頭や胸でじゃらじゃらと鳴らす。その間も呪文を唱えるわけでもなく、ただ、じっと少年を見据えるだけだった。
光一郎の除霊は大仰なパフォーマンスを一切おこなわない。
しばらく竹簡を鳴らしたあと、少年の焦点の合わない瞳を見据えて、光一郎が言った。
「この少年からすぐに離れろ」
少年が口からつばを飛ばしながら大声で笑った。
「すぐに離れなければ、痛い思いをすることになるぞ」
匠は、いつも思う。霊に痛みを感じる器官があるのか。
光一郎に聞いたことがあった。光一郎は、「痛みという次元ではないが、苦しみを与えることはできる。人の苦しみとは違うものだがな」と答えた。
今まさにそれを与えようというのか。しかし、どうやって? と、匠は見逃さないように、目を見張った。集団ヒステリーのようなことを起こすのか。暗示でも掛けるのか。
と思ったら、いつものように、光一郎が少年の頭を摑んだ。
その途端、少年が鉄板が引き裂かれるような悲鳴を上げた。金属と金属の軋み擦れあう怪音が少年の大きく開けた口から漏れ出た。
あまりのすさまじい音に、匠は怯んだ。
いつもと違う、と思った。いつもこんなふうに霊に憑かれた人間が叫ぶことはない。いつもあっさりと気絶して、けろりと意識を取り戻すだけだ。
こんなにも七転八倒しながら、奇声を発することなどなかった。
「邪魔をするな」「邪魔をするな」
老婆の声が、少年の口から響いた。二重に聞こえてくる声が匠の両耳をつんざいた。
「いい塩梅に腐っている」「いい塩梅に腐っている」
少年がぐりんと白目を剥いた。四肢をバタバタと暴れさせる。老婆の声とは違う、少年の声で泣き喚いた。
「ひとし!」
匠の背後に控えている両親が、我慢しきれなくなって叫んでいるのが聞こえる。
匠は必死で暴れる少年を押さえつけていた。光一郎は額に汗を浮かべ、じっと少年の頭を右手で摑んだまま動かない。
老婆の声を間近に聞いていると、両腕にブツブツと鳥肌が立つ。ねっとりとした、口の中に何かものを含んで喋っているような声だ。生理的な嫌悪感が湧いてくる。
もはや少年の口からは聞こえていない。何もない空中から響いてくる。その声に操られるように、光一郎の右手も動いた。右手は少年の頭上を摑んだまま揺れている。
おまえもいい塩梅だ
すぅっと寒気とともに、匠の耳元で囁かれた。
「ひっ!」
突然の怪異に、匠は思わず両腕を少年から放し、後退った。自分の両耳に含み笑いが聞こえてくる。
それと同時に、光一郎が思いきり前のめりに倒れ、少年の体も畳に突っ伏した。
「先生!」
「ひとし!」
父親は光一郎と息子のどちらに駆けつければ良いのか分からない様子でたじろいでいる。母親は真っ先に少年の側に駆け寄り、息子の体を起こした。
それを、匠は腰を抜かしたまま見つめているしかなかった。
救急車は里花が呼んだ。匠は呆然と座り込んだまま、光一郎が担架で運ばれるのを見ていた。
少年の両親が泣き叫びながら、息子の体をさすり、担架にすがりつくようにして救急車に乗り込んだ。
匠の体感でそれらは全てスローモーションに見えた。何が何だか分からなかった。自分の両耳を両手で押さえる。あの声は何だと問い続けた。
光一郎が何故倒れたのかも分からない。何故、匠が少年の体から離れただけで、あの何にも動じない父親があっけなく倒れ伏したのか。
里花が匠の肩を摑んで大きな声を出している。匠は何も聞きたくないと強く両耳を塞いだ。
「あなた! しっかりして! 早く病院に行かないと!」
どう言っても動かない匠から、里花が諦めたように離れ、二階から下りてきた耀に、「おじいちゃんといっしょに病院に行くよ」と声を掛けている。
バタバタとした喧噪が、いつの間にか静かになった。
匠はガタガタと震えながら、あのとき両耳から聞こえてきた声に震え上がっていた。
九割は嘘で、一割は説明がつかない何か。匠はそう思って生きてきたし、光一郎のこともそう見てきた。
あれはその一割なのか。その一割に、情けないことに失禁してしまった。
その姿を、依頼主や里花、耀だけでなく、駆けつけてきた救急隊員にまで見られた。こんな情けない姿を人前にさらしてしまった。
恥ずかしさとやりどころのない怒りが体の中を満たす。いつもの自分ならこんなことにはならなかった。ヒステリーを起こした少年の悲鳴に恐れることなどなかった。
たとえ、得体の知れない怪異が耳元で囁こうが、気に留めることもなかったのではないか。自分の身を守る術が全くなかったのが良くない。
匠の身を守るための方法を講じなかった光一郎に問題がある。守る前に倒れ伏した光一郎に責任がある。光一郎が特別な力を教えなかったから、匠は何もできなかった。もし受け継いでいたなら、匠は恐れることもなく力を使って、光一郎を助けたし、少年も倒れなかったはずだ。
頬を流れる涙に気付いて袖で拭った。
こんなにも情けない気分にさせたのは、あの怪異だ。何もかもあの怪異が悪い。幸い自分は身を守れたが、あのときもしかしたら光一郎のように倒れていたかもしれない。
あの怪異は失敗したのだ。匠も倒しておかなければいけなかったのだ。
匠は畳に投げ捨てられた竹簡を、這いずっていき、右手に摑んだ。
この竹簡は光一郎から受け継いだ物の一つだ。
光一郎が病院から戻った暁には、光一郎の力の秘密を教えてもらい、力を授けてもらう。
そして、あの怪異を追い詰めて、除霊してやるのだ。
気を取り直し着替えた匠が病院に到着したのは、救急車で光一郎が運ばれて一時間経った頃だった。
集中治療室に、救命処置を執られ気管挿管された光一郎が運ばれていった。
薄暗い待合室で、里花がやつれた顔色で座っているのを見つけた。耀は椅子に横になり、里花の膝枕で寝ている。
「里花」
匠は里花に声を掛けた。
里花が顔を上げる。
「あなた。お義父さん、脳死状態って。書類にサインしないといけないんだけど、あなたがいないから、私一人じゃ決められなくって」
とにかく救命措置を執ってもらうサインはしたらしい。そのほかのことは匠が来たときに決めると答え、待っていたのだという。
「遅くなってごめん」
匠の言葉に、里花が大仰なため息をついた。
「すぐ来てほしかった」
それだけ言うと、肩を落として、続けた。
「小山内さんの息子さん、亡くなったって」
あの少年のことか。匠は畳に突っ伏した少年を思い出す。奇声を上げて気味の悪い声を発していた少年。
演技でも何でもなく、匠が一人で考え込んでいたときに思い至った、残り一割の説明がつかない現象に、あの少年は属していたのか。
「そうか」
里花の隣に匠は腰を下ろした。
あの怪異と、匠自身が決着を付けねばならなくなったのかもしれない。
これは使命なのだと、匠は心に刻みつけた。
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