屍喰い蝶の島 御先様 ④
「てふ様」
屋敷の者ではない。和田津の者でもない。誰も今のわたしをてふ様とは呼ばぬ。懐かしいもの柔らかな声に、わたしはふらふらと雨に打たれるのも気にせず、庭先に出た。素足で地面を踏み、声がするほうへ近寄っていった。
憎しみ以外の感情が、わたしの胸の内に広がる。
柵の向こうに、宗順が立っていた。
「てふ様」
ずぶ濡れになった宗順が、昔と変わらぬ姿でわたしに会いに来てくれた。何故今更とは思わぬ。今だからこそ、宗順は来たのだ。
「こちらへ来て」
わたしが誘うほうへ宗順が歩み寄る。締め殺しの木の陰にある柵が実はいつでも抜くことができると、ずいぶん前から知っていた。
柵を抜き、わたしは宗順の胸に飛び込んでいた。彼もまたわたしの背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「てふ様に会いとうございました……」
しみじみと宗順は囁いた。
雨音がわたしたちの交わす声、息づかい、全てを隠してくれた。迷いもせずわたしは宗順に身を任せた。穢れた体を雨がきれいに洗い流してくれる。彼のゆびさきがわたしの全てを浄めてくれる。わたしの唇もしとどに濡れた髪も何もかも。
わたしと宗順の体は熱に火照り、冷たい雨さえも心地よく感じる。
けれど、長くはそうしておられない。柵を戻し、宗順と指を絡め合って次いつ会えるかと目で問う。
「雨の日に……」
火丸が小舟で海に出、世話をする女房がまだ来ぬ夜明けの雨の日にだけ、わたしたちは甘く切ない逢瀬を繰り返した。
月に一度の時もあれば、幾月も会えぬ日もあった。憎しみに強ばったわたしの心を、宗順が溶かし、癒やしてくれる。それがどれほどわたしを慰めてくれたか。もう二度と会えぬと思うていたゆえに、肌と肌を重ね合う瞬間が愛おしい。永遠に続けば良いとさえ思うた。
そんな折、月のものが滞り、やがて来なくなってしまった。何を喰うても吐き気しかせぬ。それを見た女房らが、火丸に告げた。
「てふが子を孕んじゅー」
「誠か、てふが子を成したか」
火丸は何人も女を囲うておるのに、今まで一度たりとも子が出来たことがなかった。捨て置いたわたしが孕んだことが存外嬉しかったと見える。
あれほど何日も放置していたというのに、私の腹の様子を見に度々来るようになった。
火丸の子ならば、わたしは腹を打って子を堕ろしていただろう。けれど、子の父が宗順であると、わたしは確信していた。
火丸が喜べば喜ぶほど、小気味が良かった。このまま産めば、火丸はそのことに気付かず、我が子として育てるだろう。火丸に隙が出来て、わたしと赤子は宗順とともに易々と逃げおおせることが出来るやも知れぬ。
十月十日、腹の子を慈しみ、大事に大事に扱うて、生まれてくるのを待ちわびた。
そうして、産み月を迎え、わたしは元気な男児を産み落とした。宗順とわたしの愛おしい赤子だ。
火丸は手放しで喜び、我が子だと騙され、赤子をかわいがった。
火丸に隙が出来た。時は満ちたのだ。
宗順は、赤子とともに逃げようと言うてくれた。ただ、海に囲まれた島のどこに隠れれば良いか分からぬ。大浦に逃げ延びればもしかすると引き裂かれることなく、平穏な時を過ごせるような気もした。
けれど、そうなれば火丸はわたしたち二人に容赦をせぬだろう。宗順とともにわたしも殺されて終わるのだ。もしも、赤子を我が子と思うていれば、わたしの子は殺されずに済む。
宗順がわたしの手を握りしめて、一言一言、強く語りかける。
「ともに逃げましょう。男達が海に出たときが好機でございます。大浦には淨願寺がございます。淨願寺のご住職ならば匿ってくださりましょう」
「でも、どうやって逃げるのじゃ。雨の日に逃げても、赤子がおると山を越えられぬやも知れぬ」
「鍾乳洞から洞窟へ抜けて海に出ましょう。引き潮の時ならば、洞窟が口を開けまする。そこに小舟を用意しておきましょう。あの洞窟には誰も来ませぬ。火丸も気付かないでしょう」
宗順は雨が止むのを待ち、満ち潮の時に洞窟を出て、大浦へ向かおうと言うてくれた。わたしはその約束を胸に、次の雨の日を待ち遠しく思うていた。
いつものごとく、火丸どもが夜明け前に海へ出たあと、雨が降り始めたのを機にわたしたちは柵を外して逃げようとした。
宗順の手を取り、赤子とともに山に向かおうと庭を出たとき——。
「動くな」
突如、木の生い茂る中から幾人かの男どもが現れた。
わたしと宗順は心臓が止まるかと思うほど驚き、足を止めた。
海に出たはずの火丸が、屋敷から庭に降り立ち、外された柵を越えて、わたしの腕を掴んで激しく引き戻した。
赤子を庇って、勢いよく濡れた地面に倒れ込み、呆然としたまま火丸を見上げることしかできなかった。
「おお、その顔、まっこと面白い。この女狐が!」
何故火丸がここにおるのだ。それが解せぬ、何故分かった。
「わしがどいてここにおるか知りたいちょいう顔をしちゅーな? 大雨の日に限ってわれがずぶ濡れになるのを不思議に思うた女房がわしに教えたんや。こそこそ逢い引きなどしてふてぶてしい」
火丸がわたしの肩を足蹴にした。
「は、放せ!」
宗順の声が聞こえた。両脇から二人の島民に羽交い締めにされて、締め殺しの木の前に引きずられていった。
「わしの女を寝取りやがって、そがなんしたらどういう目に遭うか、見せしめだ」
おいと声をかけると素早く他の男が綱を持って来た。
いやな予感がして、立ち上がろうと身を起こしたが、火丸にまた足蹴にされてひっくり返る。赤子が腕の中で火が付いたように泣きだした。
「おい、いつからこいつと懇ろになっちょったんや? この赤子、まことにわしの子か?」
答えずにいたら、頭を足で踏みしめ、地面に押しつけられた。
否が応でも顔を宗順に向けられて微動だにできぬ。こめかみを力一杯踏みつけられて、頭が割れそうに痛い。
何故このような目に遭わねばならぬ。理不尽に弄ばれて、罪もないのに命を奪われる。一体わたしたちが何をしたという。
悔しさと憎しみと怒りとが混じり合い、薄笑いを浮かべてわたしの顔を踏みにじるこの男が、宗順を羽交い締めにしている男どもが、遠巻きに見物に来ている女房たちが、この和田津におる者全てが、生きておることを許さぬ。彦左と三郎の首に褒賞を与えた夜須七郎も憎き敵じゃ。もしも、わたしの思いを遂げられるのならば、この命を捧げても良い。
赤子を庇いながら、わたしは力の限りを尽くして、身動ぎした。
「われは相変わらず活きがええな。まぁええ、おい」
火丸が宗順を羽交い締めしている男どもに顎をしゃくって合図した。
宗順の首に綱が巻き付く。彼の顔が強ばって恐怖に引きつっている。わたしを見て、泣きだしそうな程に顔を歪めている。
「宗順!」
わたしが呼ぶと、宗順も応える。
「てふ様!」
無常に綱はギリギリと宗順の首を絞めていく。その綱の端を、締め殺しの木に引っかけて、男どもが綱の端を引っ張った。
宗順の体が引きずられていく。ぬかるみを掻いていた爪先が、とうとう地面から離れた。宙を掻きむしり、もがいて、痙攣し、やがて力なく手足をだらりと下げた。
「宗順!」
大粒の雨が目に入るが、拭うことも出来ぬ。宗順の姿も醜悪な和田津の者どもの姿も、雨で霞んで何も見えぬ。
不意に火丸がわたしの腕の中の赤子を奪った。細くか弱い赤子の片腕を強く引き上げた。赤子が引きつった声で泣き喚く。引っ張られた片腕の向きがおかしい。
「やめて!」
やめてやめてやめて! と何度も叫んだ。赤子を返せ! 火丸、赤子を返せ! わたしは喉が引き裂かれて血を吐くような悲鳴を上げていた。
片腕を引き上げられて、よたよたと立ち上がる。引きずられるように、惣領屋敷をあとにした。
雨に打たれる体が寒さに打ち震える。赤子を持った火丸の背中が霞む。赤子はぼろきれのように片腕を掴まれて、腕がちぎれんばかりに振り回されている。わたしは叫ぶことしか出来ず、次第にか細くなっていく赤子の泣き声を耳にして、おかしくなってしまいそうだった。そんなわたしを囲む和田津の者どもが面白そうに見物して付いてくる。
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