見出し画像

呪願の代償 第二章 ラムネ瓶 1 

 今年の梅雨はしつこい。七月に入ってもまだ降り続き、気持ちまでジメジメと湿ってくる。

 涼々は、なるべく目立たないように教室に入り、席に着いた。机には教師に見つからないくらい小さい鉛筆の文字で、涼々への罵倒や学校に来るな等と書かれている。

 教師にばれないように、愛菜と取り巻きの虐めは続いている。

 学校から逃げても、家には父親の夏生がいる。事故で頭に大けがを負うまでは、優しい普通の父親だった。事故のあと、夏生は性格が変わり仕事もできなくなった。そして、家族に暴力をふるうようになったのだ。

 夏生に代わって母親の月乃が朝も夜も働いた。けれど、夜の仕事を夏生に反対されてからは、いきなり生活が苦しくなり、やがて月乃は男と駆け落ちした。

『おまえらは捨てられたんだ! 養ってやるだけありがたく思えよ』

 夏生は行政から家族に支給される生活費を全て自分のものにして、夕季と涼々にはほぼ何も与えなかった。

 夕季も家事を一人でこなし、しょっちゅう夏生に殴られている。くだらない小さなことでも気絶するまで殴られる。涼々は怖くなって公園に駆け込むのが日常茶飯事だった。

 涙を我慢しながら、必死で小さな文字をちびた消しゴムで消している間、そんなことがぐるぐると涼々の頭の中をめぐる。

 ノートを捨てられたり、給食袋やランドセルに残飯を入れられたり、こうやって机に涼々が傷つく言葉を書き殴られたり、トイレに行っている間に筆箱の中の鉛筆の芯が全部折られたり。

 学校にいれば虐められて、家に帰れば殴られる夕季を見せつけられて、夕季からも冷たくされた。

 涼々の居場所は今のところ、学校の片隅か近くの公園のドーム状の遊具の中だけだ。

 学校から逃げ出して公園の遊具に隠れて一日を過ごせば気が楽だ。けれどそれをすれば、学校が家に電話する。電話されたら夏生の知るところとなる。それが死ぬほど怖かった。

 授業が終わり、ホームルームの後、ようやく下校出来る。そうしたら、走って公園に向かって遊具の中に隠れるのだ。

 夕季から与えられた三十円を握り、駄菓子屋で濃い味が染みついたイカの駄菓子を買う。駄菓子屋の店番をしている老婆が、涼々が店に来る度に、「あんた、あの家に越してきた子だろ? お父さんに言って、早くあそこ、引っ越しな」と言ってくる。

 それに対して涼々はなんと答えればいいか分からなくて、小さく頷く。けれど、そんなことは到底無理だと思った。

 三十円を老婆の手のひらに置くと、涼々は逃げるようにして店を飛び出した。

 涼々だって、あんな気味の悪い借家から早く引っ越したい。

 照明は軒並み光量が弱く、薄い墨が家中の空気に混ざっているようだ。廊下の隅や部屋の隅、少しでもくぼんでる場所に闇が凝って、人の形をしている。後ろ向きに立ち、背中を向けている。うずくまり体操座りをしている。顔を俯けて、涼々にも他の家族にも関心はなさそうだが、いるだけで空気が冷えて怖い。

 借家には小さな庭があって、雑草が茂っている。雑草の中に石の蓋をした古い井戸もある。いつからそこにあるか分からないが、借家が古いので多分借家が建ったときからあるのだろう。今は涸れているようだが、手押しの井戸ポンプが設置してある。今は錆びて一ミリも動かせない。

 井戸の周りの茂った雑草の隙間から、猫のような影がしょっちゅう見える。その影がのそのそと動き回っているのが分かる。それが異様に怖くて堪らなかった。

 涼々はイカをしゃぶりながら、ランドセルを下ろして、遊具の中に四つん這いになって潜り込んだ。そのあと、重たいランドセルを引きずって中に入れる。

 ドームは半円形をしている。明かりは潜り込むために開いている、四つの穴からしか差し込まないので、日が暮れると真っ暗になって何も見えなくなる。

 今日は雨が降ったから、遊具の中の地面は雨が流れ込んでぬかるんでいる。涼々はお尻が濡れて気持ち悪かったが、しゃがみ込み膝を抱え込んだ。

 イカの味がだんだんと薄れて、赤い染料がすっかり取れてしまった頃、日が沈み、またしとしとと雨が降り始めた。

 涼々はのそのそと遊具の外に出ると、イカを口に頬張って、噛みながら空腹を我慢した。

 ふと気付くと、公園の入り口に人影があった。

 夕季が帰りの遅い涼々を迎えに来たのだ。

 もしかしたら今日はご飯があるのかもしれないと、涼々は笑顔で夕季のもとに駆け寄った。

 夕季の頬が腫れて、緑色の痣が唇の端に広がっている。

「ご飯、あるよ」

 それだけ言うと、夕季はきびすを返して、家に向かって歩きだした。

 涼々もそのあとを追って、雨の降りしきる中、濡れながら帰った。


 家に上がると、居間からテレビの音が聞こえる。夏生がテレビを見ているのだろう。

 忍び足で台所に行くと、夕季が雪平鍋を涼々に渡した。

 卵だけの雑炊だ。それを見て涼々は目を輝かせた。

「雑炊だ!」

 夕季の料理は月乃の手料理と味が似ている。渡されたスプーンで雑炊を掬って無我夢中で、口の中にかき込んだ。全部食べ終えて、涼々はハッとする。もう遅いけれど、夕季に訊ねた。

「お姉ちゃんは、食べたの?」

「食べたよ」

 夕季が空っぽの雪平鍋を受け取って、ぼそりと言うと流しで鍋を洗い出した。

 食べたのかと、涼々はほっとした。涼々だけが食べたなら、夕季に悪いと思ったからだ。

 重湯のようなおかゆの時が多いのに、卵が入っているのは贅沢だった。

「卵、どうしたの?」

 純粋な好奇心だった。

「別に。パパから百円もらったから」

 百円で買える米と卵があるのか分からなかったけれど、久々に腹がくちて涼々は気分が良くなった。お腹いっぱいになると精神的に安心出来る。

「もう寝たら?」

 起きているとまた腹が減るので、夕季と涼々はご飯を食べられた時は、すぐに眠ることにしていた。

 汚れた雨で濡れた涼々に、風呂に入れと、夕季が言い放った。

「お湯出るの?」

「ガス代払ってないから」

 涼々に背を向けたまま、夕季がぶっきらぼうに言った。雑炊をどうやって作ったのか、涼々は考えなかった。聞いても多分教えてくれない。

 水風呂に耐えられる季節で良かったと思いながら、風呂場で涼々は雨の汚れと汗を洗い流した。

 臭いとまた愛菜に意地悪を言われるから、涼々は念入りに髪を洗った。水もいつまで出るか分からないので、すぐに水道の栓を閉めた。

 寝室に二人分の布団が敷かれてあった。夕季と涼々の座敷の隣は夏生の寝室だ。テレビを見ている音が聞こえてくる。けれど、少しでも物音を立てると夏生がやってくるので、涼々は静かに布団の中に滑り込んだ。

 隣の布団に夕季も潜り込む。涼々は昼間のちびた消しゴムを思い出した。

「お姉ちゃん、消しゴムが欲しい」

「なんで」

「もうなくなりそうだから」

「消しゴムを買うお金なんてないよ」

 夕季はそう言って、涼々に背を向けた。

 夕季に無視されたら、もはや誰にもお願い出来ない。夏生に言っても急に怒りだして消しゴムどころではなくなってしまうので、涼々は諦めた。明日、落とし物の箱の中から消しゴムがあるか探してみようと思って、目をつぶった。


 隣の寝室から聞こえてくる物音で、涼々は夜中に目が覚めた。寝惚け眼で隣を見ると、夕季がいない。

「お姉ちゃん?」

 のそのそと四つん這いで隣室のふすまに近づいた。ふすまは少しだけ開いていて、ぼんやりとした豆電球の明かりが漏れている。

 涼々はそっと隙間から中を覗いた。

 夕季が横たわって、夏生に首を絞められていた。首を絞められて顔が真っ赤になっている。空気を求めて大きく口を開けて唸っていた。

 夕季にまたがり、夏生がブツブツと呟いている。

「おまえも共犯だ。俺から逃げられると思うなよ。俺を裏切るなよ。いつでもおまえを殺せるからな。おまえは親の言うとおりにしてればいいんだ」

 夕季がパクパクと口を開け閉めする。

 首を絞める力を全く緩めないのか、夕季は苦しげに顔を左右に振った。

 涼々は恐怖で動けないまま、夕季を見つめていた。

 夕季が顔を横向けると、涼々と目が合った。涼々を見つめる夕季の目から、大粒の涙が流れ落ちる。

 ごめんなさいごめんなさいごめんない

 夕季が必死で口を動かしている。そのうち、夕季は目を閉じて、動かなくなった。

 夕季がもがかなくなると、つまらなさそうに夏生が夕季から離れた。

「むかつくむかつく」

 何度も繰り返し呟きながら、夏生がテレビを付けた。

 涼々は夕季が死んでしまったと思い、恐怖で震え上がった。ゆっくりとふすまから離れて布団に潜り込んで、丸まった。

 夕季の首を絞め続ける夏生が怖い。ぴくりとも動かなくなった夕季が怖い。

 その二人の周りを、四肢があらぬ方向に曲がった女が、四つん這いで這い回っているのがもっと怖かった。泥だらけのワンピースを着ている。濡れた長い黒髪に顔が隠れていて、なおさら怖い。

 女は首を四十五度曲げて、夏生の背後で止まり、じっと後頭部を舐めるように眺めていた。

 目を固くつぶっているのに、ありありと女の姿が瞼の裏に浮かんでくる。

 こんなお化けばっかりいるこの家も、簡単に夕季を殺した夏生も、絶望的に怖かった。

 涼々は寒くもないのに震えながら、眠られないでいた。

 しばらくすると、静かにふすまが開けられた。

 今度殺されるのは自分だと思うと、心臓が不規則に鼓動し、涼々はさらに体を硬くする。

 人の気配がゆっくりと移動して、夕季の布団の中に潜り込み、小さく咳き込む声が聞こえてきた。

 夕季は死んでなかった。

 それを知って、涼々は安堵した。夕季が死んだら次は自分が殴られるのが分かる。それと同時に、月乃のことをよく知っている夕季がいなくなるのは寂しくて、もっと辛かった。

#ホラー小説部門 #創作大賞2025

いいなと思ったら応援しよう!

🐱藍上央理🐱 面白かったら、応援よろしくお願いします。いただいたチップは小説家としての活動に使わせていただきます!