呪願の代償 第四章 井戸 2
病院で治療を受けたのはいいが、帰る当てがない涼々は途方に暮れて、待合室の椅子に座っていた。
男子に同行した教師がそんな涼々に気付いて、涼々の家に電話したが、涼々から電話が通じないことを聞くと、わざわざ涼々の家まで車で送ってくれた。
「お父さんに事情を話そうか?」
教師が気を利かせたが、涼々はなるべく夏生に誰も会わせたくなくて、「いいです。大丈夫です」と答えた。
教師が困った顔で、涼々を見下ろす。
「本当に大丈夫?」
多分、涼々の家の事情を知っているのだろう。
でも、夏生が教師から、今日起こったことを聞けば、理由なく激怒するかもしれない。その時殴られるのが自分なのか、夕季なのか見当も付かない。
「大丈夫です」
涼々は精一杯元気な声で返事をした。
教師が後ろ髪引かれるような表情を浮かべ、車に乗り込んで行ってしまった。
もう夕暮れ時で、空が燃えるように赤かった。秋だから日が沈むのが早い。あと十分もすれば、辺りは暗くなってしまうだろう。
それでも、涼々は家に帰りたくなかった。
今日、目の当たりにしたことが頭から離れない。死んでしまえと願ってなくても、ラムネ瓶は凄まじい呪いを発揮するのだ。もう誰のことも呪いたくなかった。呪った相手が死んでしまうなら、我慢したほうがましだった。
ずっと、涼々はラムネ瓶をくれたのが月乃だと思い込んでいたけれど、本当は違っていたのだろうか。
ラムネ瓶に呪いを吹き込んで恐ろしいものにしたのは涼々だ。月乃が、あのとき涼々の哀しみを聞きながら教えてくれた、『たくさん嫌なことを吹き込んだら、涼々のお願い事が叶うよ』という言葉。それは、本当に月乃の言葉だったろうか。
優しい月乃が、本当にそんなことを言うだろうか。
涼々は呟いた。
「私、死んでほしいなんて思ってなかったよ」
願い事が叶う。それは一様に不幸な願い事だった。涼々自身も不幸にして、みんなを不幸にした。死んでほしいなどと思ってもいなかった。
涼々は、ラムネ瓶を握りしめて公園へと走り出した。
人気のない公園は頼りない外灯一灯で照らされていて、闇が深かった。この公園には不思議なくらいお化けがいない。こんなに暗くて怖そうな場所だが、涼々はそれも安心出来る理由の一つだと思っていた。
ドームの中に潜り込み、真っ暗な中で見えるはずもないラムネ瓶を取り出した。
もう誰の不幸も願わない。
涼々の願いは一つだけ。
「ママ、迎えに来て。涼々もいっしょに連れていって」
何度もその言葉を繰り返した。
家にいると、夏生が怖い。夕季は家事に追われて涼々のことなど省みない。
たまに食べられるご飯はおかゆばかりで、卵が入るのは贅沢だった。だからといって夕季がずるをしてご飯を食べているとは思わない。涼々同様、この半年で夕季もガリガリに痩せ細った。
お姉ちゃんはお腹が空いてるから、涼々に意地悪なんだ
夕季に冷たくされる度に、涼々はそう思うようにしていた。
けれど、ラムネ瓶のことで悩むようになってからは、考え方が少し変わった。
月乃が出て行く前、涼々は月乃と夕季の間に挟まれ、川の字になって寝ていた。でも、月乃がいなくなってから、夏生の寝室側に涼々が布団を敷くと、「あんたはこっちで寝な」と窓側に布団を入れ替えられた。
今考えるとおかしな事だ。あのときは月乃の思い出を壊されたように感じたけれど、もしかすると、夕季は夕季なりに涼々を夏生から守ってくれたのかもしれない。夜更けに夏生が急にやってきて、手近な場所にいる月乃を引きずっていって、殴っていたのは涼々も知っていたからだ。
涼々は手の中のラムネ瓶を見つめた。
捨ててしまえばいいと、心の中で別の涼々が囁く。でも涼々自身は捨てたらダメだと思っている。捨てれば、だれかがこのラムネ瓶を見つける。呪いが涼々の意思と関係なかったら、いつでも恐ろしい呪いが発動することになる。涼々が隠し持ってなるべく人前に出さないようにすれば、他の人を巻き込むことがない気がした。
ラムネ瓶が真っ黒なのは、涼々の不満が詰まっているからだ。言わば、これはすでに涼々の分身で、他人に悪意をぶつけて殺す道具になったのだろう。
こんなに真っ黒にしてしまうほど、汚い気持ちが涼々の中にあったのだ。汚い気持ちが灰色のお化けになってラムネ瓶から出て行っても、もう色が変わることがないほど、ラムネ瓶の中に汚い気持ちが詰まっている。
このラムネ瓶をくれた月乃に化けた白い手は、きっと涼々の汚い心が分かっていたのだろう。無邪気に月乃だと信じて、涼々は恐ろしいものを作り上げた。白い手は何を涼々にさせたいのだろう。灰色のお化けを生み出すために涼々を利用したのだろうか。灰色のお化けがクラスメイトの魂を食べるのを待っていたのだろうか。
こればかりは、一所懸命に考えても分からなかった。
「涼々ー」
遠くから夕季の声が聞こえてきた。
涼々の帰りが遅くなると、夕季はこの公園に迎えに来てくれる。涼々はランドセルの中にラムネ瓶を押し込んで、ドームから這い出た。
「お姉ちゃん」
涼々の姿を見つけた夕季が小走りに寄ってきた。
「涼々、こんな時間までこんなとこで遊んでたらダメだよ。ここ、不審者が出るんだから」
「うん」
涼々は、自分を少しでも気に掛けてくれる存在がいてよかったと思う。今なら夕季を前のように好きになれる。
そっと手を伸ばして、夕季の手を握った。
ちょっとだけ夕季が涼々を見下ろしたが、夕季も手を握り返し、二人は家路についた。
やっと下校時間が来て、涼々は走って学校を出た。
今日は夕季の手伝いをするのだと心に決めていた。今まで、何もしてこなかった分、頑張るのだと張り切っていた。
小学六年生の夕季が帰ってくるのはまだ先だ。まず何をしたらいいか分からないので、部屋の掃除をしようと思った。
夏生がいなかったらいいなと、期待しながら玄関に入る。夏生の靴がないのを見て、パチンコかどこかに出掛けたのだと察した。
靴を脱ぎ散らかして玄関を上がり、台所へ行こうとして、あっと声を上げた。もう一度玄関に戻り、脱ぐ散らかした靴を揃えて、涼々は「うん」と頷く。
涼々がちゃんとすれば、夕季のやることが減って、夏生を怒らせることが少なくなると思った。
涼々達の部屋の隅にランドセルを置き、二つ折りに畳んだ布団を、もう一度綺麗にたたみ直した。掃除道具を置いた廊下の隅へ、箒とちりとりを取りに行った。
畳の目に沿って、箒でちりを掃き出していく。一室、丁寧に掃除をしただけで額に汗を掻いた。
夏生の部屋に入り、ものを動かさないように箒を動かして、大きなゴミを掃き出した。ちゃぶ台の上のものは、どうすればいいのか分からなかったので、そのままにしておいた。
台所に行って、板の間を掃いた後、雑巾を持って来て、四つん這いで丁寧に拭き掃除をしていった。
夢中で掃除をしていたので、どのくらい時間が過ぎたか分からなかった。
ふうっと息をついて手を休めたときに、電話が鳴った。
プルルルルルルルル
電話は玄関前の廊下に置いてある。
涼々は雑巾を置いて、玄関に小走りで向かい、電話の受話器を取った。
「もしもし、左奈田です」
無音だった。
「もしもし?」
いたずら電話かなと思い始めたとき、しわがれ声が聞こえた。
『ほどよく腐ったか』
何のことか分からず、どう答えたらいいか迷っていると、声が続けた。
『腐ったなら行くよ』
腐るようなものはこのうちにはない。何せ食べ物がないのだから腐りようがないのだ。
「腐ったものはありません」
涼々は正直に答えた。
不意に、また無音になった。電話が切れたわけではなさそうだった。
涼々は首をかしげながら、受話器を置いた。
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