『読子は今日も本を読む!』第9読 聖書
金曜の夜。読子は伯父の書庫から小説を借りるため、地下にある書庫を訪れた。
ワンフロアの地下は、手前と奥で大きく二つに分けられており、手前のスペースは、中央の通路でさらに二つに分けられている。右側の十帖ほどのスペースは、伯父の執筆スペースになっており、左側の十帖ほどのスペースは、仕事関係者用の応接スペースになっている。
執筆スペースにある執筆用の机は、通路側を見るように配置され、執筆で使っているパソコンや、糖分補給用のお菓子が置かれている。席について背中側の壁一面にある本棚には、これまで伯父が書いた小説が並べられ、右側に置かれたローテーブルには、資料が山積みで置かれていた。
応接スペースには、四人用のテーブルとソファーが置かれ、壁には大型のテレビが掛けられている。伯父の執筆用の机が通路側を向いているのは、この大型テレビを見ながら執筆できるようにしているためだ。この場所は、仕事関係者用の応接スペースとして用意されてはいるが、担当編集者が東京から札幌まで来ることは稀で、ほとんど使われていないらしく、普段は書庫の本を読むために使われている。
通路の先にある奥のスペースはすべて書庫になっており、天井まで届く高さの本棚がいくつも並んでいる光景に圧倒される。本棚の上から三段と下から二段は何も置かれていないが、それ以外の段は、伯父が気に入った小説だけでなく、漫画や資料用の本で埋められている。
書庫の一番手前の本棚だけは、真ん中の段二つ分しか使っていない。ここに並ぶ本の多くが、他の小説家から送られてきた献本だ。伯父は献本で頂いた本を一維持的にこの棚に置き、目を通した後で本棚へと移動する。一時的と言っても、伯父は執筆で忙しいので、数か月はこの棚に放置される。
読子は、一番手前の本棚に並ぶ本のタイトルを一つ一つ確認し、気になる本を手に取っては、裏表紙にあらすじが書いてあるものはあらすじを読み、あらすじがないものは冒頭を数ページ読んで五冊ほど選ぶ。この五冊を書庫から持ち出して、応接スペースに運び、さらに読み込んで、借りる本を二冊に絞る。本当はもっと借りていきたいのだが、一度に持ち運べる本の重さを考えれば、この量がちょうどよかった。
読子が応接スペースで借りる本の選定をしていると、執筆用のデスクチェアに座っていた伯父が声を掛けてきた。
「読子、会社はどうだ? 何かあったら、すぐに相談するんだぞ」
読子は、過保護なまでに心配する伯父を見るたびに、本当の父親のように感じて顔がにやけてしまうが、いつも照れ隠しで溜め息をついてみせる。
「また、その質問? 会社は問題ないけど、中村係長がね。上司としては尊敬できるけど、お人好し過ぎて、私も面倒なことに巻き込まれて困っているんだよね」
伯父は心配そうな顔を見せ、前のめりで読子に尋ねた。
「面倒なことって何だ? 困っていることがあるのなら、伯父さんに言ってみなさい」
読子は音楽会について話した。小児科で長期入院している子供たちとその家族で音楽会を開くこと、クラウドファンディングで資金を集めたが、出資してくれた人の多くが遠方の人で、客席に空きがあること、会社でも音楽会について宣伝したが、素人の音楽会に興味を持つ人は少なく、客席は四分の一も埋まっていないことも話した。
伯父は両腕を組んで頷いた。
「なるほど、客が集まらなくて困っているのか」
「何か、いいアイデアない?」
「世界でもっとも読まれている本のタイトルは知っているか?」
「ベストセラーってこと? それなら、ハリー・ポッターじゃない?」
伯父はローテーブルに積んだ資料の山から一冊の本を抜き出して、読子に表紙を見せた。表紙には聖書の解説本と書いてあった。
「世界でもっとも読まれている本は、聖書だ。と言っても、俺も解説本しか読んだことはないがな」
「伯父さん。私の話、聞いていた? お客さんが来ないって話なんだけど」
「本の素晴らしいところは、著者の知識や経験が圧縮されて一冊に収められているところだ。その最たるものが聖書だ。聖書には、こんな一説がある。汝、隣人を愛せよ。キリスト教徒でなくても、聞いたことぐらいあるだろ?」
「聞いたことはあるけど、それで?」
「まだ分からないか? 教会に助けを求めればいいんだよ」
「クリスチャンでもないのに?」
「純粋なクリスチャンではないかもしれないが、クリスマスは祝うし、ウェディングドレスを着る結婚式にも参加したことはあるだろ? キリスト教の儀式に参加している時点で、半分、クリスチャンみたいなもんだ」
読子は顔を歪めた。
「別にキリスト教とか、意識して参加してないし」
「クリスマスはイエス・キリストの誕生日を祝うイベントだが、仏教にも、釈迦の誕生日を祝う、四月八日の灌仏会、もしくは、花まつりとも呼ばれるイベントがあるが、それには参加したことがないだろ? 釈迦の誕生は祝わないのに、キリストの誕生を祝うんだから、どちらかと言えば、クリスチャンだろ?」
――伯父さんったら、屁理屈ばっかり。小説の取材で山ほど調べものしているせいか、何でも知っていて、何を言っても理論攻めで、いつも勝てる気がしない。
読子は溜め息をついて肩を落とすと、不貞腐れながら言った。
「はい、はい。私の負けでございます。プロの小説家と議論しようとした私が馬鹿でした。キリスト教が身近なのは分かったけど、困ったときだけ教会に頼るなんて、自分勝手すぎない?」
伯父は腹を抱えて笑いながら言った。
「読子は真面目すぎだよ。事件や事故に巻き込まれたとき、初めて出会った人に助けを求めるだろ? どこの宗教も助け合いの精神はあるから、頼ったって文句は言われないさ。もちろん、助けてもらったお礼はしないとな」
「教会に頼るとして、どこの教会に行けばいいの?」
「俺に知り合いがいるから、俺から頼むよ」
「ありがとう、助かるよ。それで、その知り合いって、パトロンの人?」
「パトロンの人ではないよ。子供食堂の取材をしたときに出会った人だ。その人の父親が教会の神父さんをやっていて、教会のイベントで講演もしているから、話ぐらいは聞いてくれるさ」
「もしかして、聖書の解説本を読んでいるのも、その講演のため?」
「これは、次回作の資料だ。熱心なクリスチャン相手に、素人の付け焼刃は使わないよ」
「次回作って、キリスト教がテーマなの?」
「嫌か?」
「宗教を題材にしたものって、予備知識が必要なことが多くて難しいんだよね」
「それなら予備知識を付ければいいだろ? 日本人は宗教と聞いただけで避けるが、宗教は教養の一つだ。最低でも、三大宗教と呼ばれる、キリスト教、イスラム教、仏教の三つは抑えておかないとな。TALESにも宗教をテーマにした物語がいくつかあったから、読んでおいたほうがいいぞ」
「嘘だよ。なんでもあるTALESでも、さすがに宗教をテーマにした作品はないでしょ」
「試しに検索してみろ。結構あるぞ」
読子は手にしていた本を机に置いて、スマホでTALESを開いた。『聖書』で検索をすると、聖書を題材にした作品がたくさん出てきた。
「本当だ! 聖書だけでこんなにあるの?」
「聖書の内容そのものを小説にしたものもあれば、アレンジしたものもある。ハリー・ポッターに影響を受けて魔法学園ものを書く人がいるんだ。聖書に影響を受けて書く人がいても、なんらおかしくはない」
読子は検索に出てきた中で、最初に目についた『士師は民を救った - Servants of the LORD -』を読み始めた。
この物語は、旧約聖書の『士師記』をもとにした物語らしい。
――士師? 士師って何?
読子は伯父に尋ねた。
「伯父さん。士師記に出て来る士師って何? 解放者って書いてあるんだけど、どういう人?」
「説明が難しいな。時代によって役割も変わっていったが、あるときは神の声を伝える預言者で、あるときは戦場に立つ英雄。裁判官としての役割も担ったが、総じて指導者だと言う人もいる」
「指導者って、先生のこと?」
「先生って言うより、リーダーかな?」
「それじゃあ士師記は、イスラエルのリーダー伝ということか……」
読子は視線をスマホの画面に戻した。
物語は紀元前一七〇〇年ごろから始まる。大飢饉に襲われたイスラエルの民は、約束の地カナンを離れ、たどり着いたエジプトの地で奴隷になってしまう。奴隷として苦しむイスラエルの民を救ったのが、紀元前一四四六年ごろに現れた預言者モーセである。モーセは海を割り、イスラエルの民と共にエジプトを脱出する。
やがてモーセは、自分の後継者としてヨシュアをたて、ヨシュアはイスラエルの民を引き連れて約束の地カナンへと戻る。しかし、そこにも争いの火種は残っていた。はるか昔に捨てた約束の地カナンは、すでに別の民族が住み着いていたからだ。
ヨシュアは約束の地カナンを奪い返すため、イスラエルの民と共に、他民族たちとの争いを始める。
――えっ? どういうこと? 宗教の話なのに、戦争なんてしていいの?
「伯父さん。なんか戦争が始まったんだけど、これって、本当に聖書の話?」
「よく誤解されるが、聖書は教義を並べた本ではないんだよ。複数の作者によって書かれた文章を集めたアンソロジーなんだ。神から授かった預言について書かれている文章もあれば、今、読子が呼んでいる士師記のような歴史書もある。だからこそ、解説本が必要になってくるんだ」
「なるほどね」
読子は視線をスマホの画面に戻して、ページをスクロールしていく。
――やっぱり、物語は面白い!
読子は伯父に目を向けた。
「伯父さん。聖書についてもっと知りたいから、さっきの本、借りていい?」
伯父は資料の山に戻していた聖書の解説本を手に取って言った。
「これか?」
「うん、それ」
「駄目に決まっているだろ。執筆に使っているんだから。読子も、たまには自分で本を買いなさい。図書館で本を借りたり、中古の本を買ったりすることは否定しないが、誰かが本を買ってくれないと、本を書いている人たちは生活できないんだよ。本は知識を得るためのものではなく、心も豊かにしてくれる大切な宝だ。手元に置いていつでも読めるようにしておくだけで、救われることもあるはずだ」
「はーい、分かりました。帰りに本屋で買っていきます」
読子は不満そうな顔を見せて答えたが、いつもの照れ隠しだった。ベストセラー作家の伯父は、平均的な会社員の一生分はすでに稼いでいるので、本が売れなくても困らない。それでも、同業者たちが食うに困らないよう、こうして本を買うことを勧めて来るのだ。中村係長と同じくらいお人好しで、読子はそんな伯父のことも好きだった。
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