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50歳のアンサーソング        私たちはなぜ生きるのか 

どう書けばよいのかずっと悶々としていたけれど
いくら考えても書けそうにないから
今日時点の自分で見切り発車
ああデカイ痛すぎるキミイキから引っ張ってきよった赤毛ババア
でもいいんだ、自己紹介に書いてある絶賛中二病って
伝えたいと思う熱量が列車(文章を)を走らせてくれると信じて

暫く前に朝出勤しようとチャリを走らせていると
けたたましいサイレンの音と共に、救急車や消防車、パトカーが数軒先のマンションに集結して物々しい雰囲気に包まれていた
規制線を張ろうと、お巡りさんが黄色いテープをもって駆けるけれど慌てていたんだなと思ったけど
巻きが1メートルもないテープを掴んでしまって全然足りない
あれ?と走って車へと戻っていくけれど
わらわらと集まった野次馬から
飛び降り自殺があったらしいというような声が聞こえて胸がギュッと詰まってしまい
けれど時間だ 
前へ前へとペダルを漕いで職場へと向かった

不意に目にした光景に職場へ着いても胸騒ぎが収まらなくて
先に来ていた同僚に、来る途中のマンションで人が飛び降りたらしいと
規制線の向こうではきっと人が亡くなっていたのだろうけど
こちら側には普段通り登校する小学生の列やバスを待つ人や、チャリで駅や職場に向かう人が行き交っていて
何にも変わらない日常の風景があるのが、違和感だったと話すと

そのことについて直接は何も言わなかったけれど

よく、死んではいけないというじゃないですか
自殺はいけないと
けれどその答えって、あるんですかね
僕にはみつからないんです、その何故に対する答えが

と口を開いた

うん
私もないと思うよ答えは
だってなぜ生まれたのかもわからないんだもの
意思と目的があって生を選択した人なんかいないし
産み落とされた人生を生きるんだから、生きる意味も分からないし
そしてなぜ死ぬのか、死んではいけないのかもわかんないよ
ただ、生まれたから死ぬまでは生きる それだけだと思ってる

朝っぱらから始業時刻前
ATフィールドを破るトークだけれど
勤務中にはこういう自分の脳内をインサイドアウトするみたいな会話は
流石にできない 

ひろゆきは、悲しむからって言ってました。自分が死んでしまったら、誰にだって必ず何人かはそれを悲しむ人がいるから、その人のために死んではいけないって。確かに、誰かを悲しませることは辛い。けれど、本当にそれが、死のうとする人を止める力になるんでしょうか

うん
死のうとする人に他者の悲しみが抑止力になるのかなあ
誰かのことなんか考えられないくらい
自分のことで頭がいっぱいになるから死のうと思うわけで

そうですよね
よく言われることだけど、どうも説得力がないなと思うんです

でももし自分の大切な人が、思いがけず死んでしまったら
遺された人は悲しむよね

攻殻機動隊の中で、三時間悲しんで忘れろってセリフがあるんですけど
悲しみって時間とともに癒えるものじゃないですかね 生きていれば

うーん
確かに時薬ってあると思うけど
けど、全然癒えない悲しみってあるよね
この前尼崎のJRが脱線してマンションに突っ込んだ事故の被害者方の奥さん、同時刻に事件現場を通る列車から手を合わせて、一日たりとも忘れたことはないって言ってたし
池袋のひき逃げの被害者のご主人とか、光市で奥さんと子供を殺されたご主人とかも年月が経っても一向に悲しみが癒えるようには見えないし
突然に命が失われてしまったことによって
遺された人の人生もまた大きく変わって、
それまでのようにはもう生きられないくなる
当たり前のように日が昇り沈むことを信じられなくなってしまうんだと思うと
これは殺人事件だけれど
やっぱり自死も、突然奪われる命と思うと
遺された人の人生も狂ってしまうと思うと
やっぱり一人人間が死ぬということはものすごく大きいんだってことを
もし生きているうちに実感出来たら
ああ残された人の悲しみを思ってこちら側に帰って来れるかもしれないね

そうですね
悲しむからと一般的には言われますけど
もう一歩踏み込んで考えてみると
それまでの日常を失って遺された人もまたある意味
それまでの自分が死ぬような出来事なんだと
自分に引き寄せられるというか、ああ死んじゃいけないなって思えますね

そうだねえ
だからいのちの電話とか、対話が大切なのかもしれないね
自分一人で考えていると沸々と煮詰まるばかりだけれど
こうして こう思う、思わないってラリーすると
思いがけず自分の口から自分でも思ってみなかった言葉が出てきたりするもんね

遺された人はそれまでの人生を生きられなくなるくらい悲しみに覆われてしまうんだって思うと
確かに人一人の生き死にって結局ひとりじゃ済まないよね

逆に言えば、済まないって位生きてるうちから人と関わって生きてないと
そこで押しとどめる力が弱いのかもしれない

そう思うと、ちゃんと人に頼ったり、人を信頼したり、人と関わりあって生きてないと、いざって時だけ必要性を感じるってのもないから
普段から迷惑かけて暑苦しく生きてないと
アタシが死んだらあの人が悲しむって顔が浮かばないね
浮かぶように生きろってことかなあ

と答えは分かってるけど、何故そうなるのかが分からないと
何故何故問答を繰り返してみると
会話が行き来するたびに朧気ながらも
何故自ら命を絶ってはいけないのかという問いの答えが
姿を立ち昇らせたみたいに感じた

人の死には残された周りの人を悲しませ、人生を変えてしまうくらいの影響力があること
そしてもし私がいなくなったらと思う時に、誰かの顔が思い浮かぶくらい
他者に自分の存在を預けて、誰かの中にも自分が生きていなくちゃ
抑止は発揮されないだろうと
自立は礼賛推奨されるけれど もしかしたらしっかり誰かに頼ったり、自分を開いていることもまた、死なずに生きるためには必要なのかもしれないと ハッと思い当たった

娘を産んだ時、私はもう命のバトンを継いだから、私は死んでもいいと思った。同時に、この子らを育て上げるまでは死ねないという思いも強く、死んでもいいと生きねばならぬの二律背反を抱えた
人は、人のためになら生きられる時もある。
私が娘のために生きようと思ったように、誰かのために生きようとすることで、自分自身の命も守ることができるのかもしれない。

死のことを話そうとすると、死にたい人認定されて敬遠されるのは知ってる けど
それは絶対に全然違う
よく聞いてほしい死にたいなんて一言も言ってない。早合点で禁忌避け過ぎてると思う。
生きようと思ったらどうしたって死ぬってことにはぶつからざるを得ないし避けては通れない関所だと思うんだけど
そういうのは少数派なのかもしれない
私は死について話せたら本当の友達だなと思うのだけれど

邦ロックを聞いていると死生観という言葉をよく耳にして
生きることに向き合う人は自然と死にも対峙するんだなあと
アタシついて行きますと、誓う理由でもあるけれど

朝の景色の中に混在した生と死が
齢五十人生の折り返しを過ぎた赤毛に
始まりがあればいずれ訪れる終わりの日のことを
キョンシーのお札みたいにペタッとおでこに張り付いて考えさせた朝に

生き抜きましょう
今日を





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