揺れるイギリス政治の現在地——スターマー辞任、リフォーム台頭、百年の政党秩序の崩壊
はじめに——わずか2年で首相辞任という衝撃
2024年7月、英国の労働党は14年ぶりに政権を奪還しました。総選挙の結果は「地滑り的大勝」と表現された圧勝でした。キア・スターマー率いる労働党は庶民院(下院)で172議席の過半数を確保し、保守党の長期政権に終止符を打ったのです。
しかしその勝利からわずか2年も経たない2026年6月22日、スターマー首相は労働党党首と首相の辞任を表明しました。英国はこれで7年間に6人目の首相を迎えることになります。テリーザ・メイ、ボリス・ジョンソン、リズ・トラス(在任わずか45日)、リシ・スナック、キア・スターマー——そしてまた新たな顔へ。英国の政治的な「回転ドア」は止まりません。
スターマーはなぜこれほど急速に凋落したのか。なぜ「地滑り的大勝」が「地滑り的崩壊」へと変わったのか。その背景には、英国社会の深部で進行している政治的・経済的・文化的な断層の拡大があります。
この記事では、2024年の政権交代から2026年夏の現在に至るまでの英国政治の展開を、できるかぎり詳しく、そして「なぜそうなったのか」という構造的な分析も交えながら解説します。
第一章 2024年の「地滑り」——なぜ労働党は勝ったのか
保守党14年間の疲弊
2024年7月の総選挙を理解するには、保守党が政権にあった2010〜2024年の14年間を振り返る必要があります。
その14年間は、混乱の連続でした。2016年のブレグジット国民投票、それを主導したキャメロン首相の辞任。その後継メイ首相のEU離脱交渉の失敗と辞任。ボリス・ジョンソンの型破りな政治と「パーティゲート」スキャンダル(コロナ規制中の首相官邸での飲み会問題)による辞任。リズ・トラスの「ミニ予算」という財政的大失態(金融市場の混乱を招き、ポンドが急落)による45日での辞任。そしてリシ・スナックによる「後始末」。
保守党は14年間で首相を5人も交代させ、国民は「また変わった」という政治不信を深めていきました。
一方の労働党は、2020年にスターマーがジェレミー・コービンの後を継いで党首に就任。コービン時代の「急進左派」というイメージを払拭し、「責任ある中道政党」への回帰を丁寧に演出しました。スターマーは「変化(change)」というシンプルなメッセージを掲げ、「飽き飽きした有権者に、安全な対立候補を提供する」という戦略を取りました。
その結果が、2024年の地滑り的大勝です。ただし——そしてこれが重要な点ですが——労働党の勝利は「労働党への積極的な支持」によるものではありませんでした。労働党の得票率は約33.7%にすぎず、これは歴史上、過半数政府を樹立した政党の中で1830年以降最低水準でした。有権者は「保守党に愛想を尽かした」のであって、「労働党が好きだから投票した」わけではない——この微妙な差異が、その後の事態を予測させるものでした。
第二章 スターマー政権——「変化」の約束と急速な失望
「インキ乾かぬうちに」起きた失望
政権発足直後から、問題は噴出しました。
まず経済的現実の直視という問題です。スターマーは就任後、「保守党から引き継いだ財政の穴は事前に想像していたより深刻だ」と述べ、緊縮的な予算方針を打ち出しました。財務相(チャンセラー)のレイチェル・リーヴスは2024年10月の予算で、国民保険(雇用者側の社会保険料)の引き上げや、障害年金の見直しなど、多くの人が「労働党らしくない」と感じる措置を盛り込みました。
「これは労働党のための予算ではない」という批判が党内左派から噴出。一方で財政市場はリーヴスの「財政規律」を一定評価しましたが、一般市民は「医療・社会サービスの改善」という選挙の約束と「国民保険料引き上げ」という現実のギャップに失望しました。
国民保健サービス(NHS)への対応も評判が悪いものでした。スターマー政権はNHS改革を最優先課題に掲げましたが、医師・看護師の待遇改善交渉の難航、医療の待機リストの短縮という目標達成の遅れ——国民が最も肌で感じる問題で成果を出せませんでした。
不人気の数字——歴史的な低さへ
世論調査の数字は衝撃的です。
2024年7月の政権発足直後こそ、スターマーの支持率はわずかながらプラスでした。しかし急降下が始まります。2025年1月時点で支持率マイナス30%。2025年11月にはマイナス46%。この数字はイプソスの調査で「1977年に記録を取り始めて以来、最も不人気な首相」というレベルに達しました。
2026年1月のYouGov調査では、75%の国民がスターマーに否定的な見方をしており、純支持率(Approval minus Disapproval)はマイナス57——これはあの「45日首相」リズ・トラスに並ぶ水準です。
「スターマーへの失望」の内訳は複層的です。世論調査会社モア・イン・コモンのルーク・トライル氏は「スターマーは人々のシステムへの不満の容れ物になってしまった」と分析しています。「特定の政策への不満」ではなく、「政治全体への不信と怒り」がスターマーという個人に集中する形になった——これはスターマー個人の問題というより、英国政治が抱える構造的な問題の反映とも言えます。
アンジェラ・レイナー副首相の辞任
ダメージが蓄積するなか、2025年9月に重大な出来事が起きました。スターマーの副首相兼党副党首、アンジェラ・レイナーが税務スキャンダルで辞任したのです。
レイナーは第二の自宅の売却に際して税金を過少申告したと批判され、数か月にわたる調査が行われていました。2026年に至って税務当局は「意図的な不正ではなかった」と結論づけましたが、2025年9月の辞任はスターマーに「強い打撃」を与えたと評されました。
レイナーはスターマーとは性格も出自も対照的な人物でした。北部イングランド出身の労働者階級、率直でウィットに富んだコミュニケーション、「働く人々の代弁者」としての親しみやすさ。彼女の辞任で、党内バランスが崩れ、スターマーはいっそう「エリートに見える」という孤立を深めました。
第三章 マンデルソン事件——政権を揺るがすスキャンダル
「影の実力者」の任命という誤算
スターマー政権の転落をもたらした最も決定的なスキャンダルは、ピーター・マンデルソンの起用をめぐる問題です。
ピーター・マンデルソンは、トニー・ブレアの「ニュー・レイバー」の立役者として知られる老練な政治家です。「政治の暗黒卿」とも呼ばれ、卓越した戦略眼と複数の辞任歴(政権に戻るたびに)を持つ人物として有名です。スターマーは2024年12月、トランプ政権との関係強化を狙い、マンデルソンを駐米大使に任命しました。
問題は複数層にわたって発生しました。
第一に、マンデルソンとジェフリー・エプスタイン(有名な性犯罪者で死亡)の関係が、2025年9月のエプスタイン関連文書の公開によって広く知られることになりました。スターマーはマンデルソンをただちに解任しましたが、「なぜ分かっていて任命したのか」という批判は収まりませんでした。
第二に、2026年4月になって、マンデルソンが2025年1月の着任前に安全保障の身元審査で「不合格」と判定されていたことが判明しました。外務省(FCDO)の官僚が審査機関の勧告を覆してマンデルソンの赴任を認めていたのです。
これを受けてスターマーは「自分は身元審査の失敗について知らされていなかった」と主張しましたが、野党の保守党・ケミ・バデノク党首は「スターマーは議会を誤解させた(ミスリードした)」と強く批判しました。外相ケット・クーパーは外務省最高位の官僚を更迭しましたが、その官僚は後に議会委員会で「マンデルソンの任命を強行するよう深刻な圧力をかけられた」と証言しています。
このスキャンダルが「スターマーは不誠実だ」「隠蔽体質だ」というイメージを国民と党内議員の間に植え付けました。英国のYouGov調査では2026年2月に「スターマーはボリス・ジョンソン以上に腐敗しているか、同程度だと思う」と回答した人が51%に達しました。
第四章 英国を揺るがす2つの選挙——地方選挙の大惨事
2025年地方選挙——最初の警告
2025年5月の地方選挙で、最初の警告が鳴りました。
労働党は大幅な議席を失い、リフォームUKは1,641議席のうち677議席を獲得、10の議会(カウンシル)を制しました。また市長選(6選挙区)でも2つを獲得しました。保守党も650席以上を失い、3位に転落する屈辱を味わいました。
しかしこの時点では、「政権発足1年目の苦境は普通」「次の総選挙まで時間はある」という見方もあり、スターマーは辛くも持ちこたえました。
2026年地方選挙——「歴史的転換」
2026年5月7日の地方選挙は、その規模と衝撃において前年を遥かに凌ぐものでした。
イングランドで5,066の議席が争われ(ロンドン全32区を含む)、同日にスコットランド議会選とウェールズ議会(セナッド)選も行われました。
結果は惨憺たるものでした——少なくとも労働党と保守党にとっては。
リフォームUK:イングランドで1,400議席以上を獲得。スコットランド議会では17議席を獲得、ウェールズ議会では34議席を得る大躍進。得票率は約26〜27%でトップ。ナイジェル・ファラージは「英国政治の歴史的転換だ」と大声で叫びました。
労働党:1,498議席を失い、38の議会の支配権を失いました。これが党内の指導部危機を直接引き起こすことになります。
グリーン党(緑の党):得票率の伸びが最大で、労働党の左からの票を大幅に奪いました。マンチェスターの下院補欠選挙(2026年2月)でも保守的な労働党系選挙区を奪取しており、「緑の波」が左翼側で進行中です。
保守党:約300議席を失ったものの、党首バデノクは「回復の兆しがある」と強調。
自由民主党:約60議席の控えめな増加。
選挙後の世論調査では「労働党から2024年総選挙でリフォームに乗り換えた有権者は5%に過ぎない。32%はグリーン党か自由民主党に移った」という分析が示されており、「リフォームが労働票を喰った」というより「労働票が左右に分散した」という構造が見えてきます。
選挙専門家のジョン・カーティス教授は「どの政党も国民の圧倒的な支持を得ていない。英国の政治の断片化がいよいよ確認された」と指摘しました。
第五章 労働党の指導部危機——相次ぐ辞任とスターマーの最後
ドミノ倒しのような辞任
地方選挙の惨敗を受けて、2026年5月初旬から労働党内のドミノ倒しが始まりました。
5月12日、4人のジュニアン大臣が連続して辞表を提出しました。その中にはセーフガーディング担当大臣のジェス・フィリップスも含まれていました。フィリップスは辞任状に「議論を避けたいがために、我々はめったに主張を展開しない。それが前進の機会を阻み続けている」と書きました。
5月12日夜、スターマーは記者会見で「私は歩み去らない(I'm not going to walk away)」と明言。「指導者を替えれば混乱をもたらすだけだ」と続投の意思を示しました。
しかし状況は悪化の一途を辿りました。5月14日、最も重要な辞任が起きました——保健相のウェス・ストリーティングが辞表を提出したのです。ストリーティングは辞任状に「スターマー首相は次の総選挙に労働党を率いて戦えない」「英国にはより大胆なビジョンが必要だ」と記しました。ストリーティングは長らくスターマーの「後継候補筆頭」として見られてきた人物であり、その辞任は「スターマーは終わった」というシグナルそのものでした。
さらに6月11日には国防相のジョン・ヒーリーが軍事費増額をめぐる内部対立から辞任。事実上すべての方向から「辞めろ」というメッセージが届く状況になりました。
この間、労働党のスコットランド党首アナス・サーワーが「スターマー首相は辞任すべき」と公式に声明を出す(2月)、ユナイト労働組合が40%の党への分担金を削減する(3月)——といった事態も続き、党内外からの圧力は頂点に達しました。
アンディ・バーナムの「帰還」
最終的な引き金を引いたのは、アンディ・バーナムの国会議員補欠選挙での勝利でした。
バーナムはグレーター・マンチェスター市長として9年間、高い人気を誇ってきた労働党左派の政治家です。「ポスト・スターマーの最有力候補」とみられてきた彼が党首選に立候補するためには、下院議員でなければなりません。当初、スターマーの意向を受けた党執行部(NEC)が、バーナムが補欠選挙に立候補することを阻止しようとしましたが、5月14日に現職議員のジョシュ・シモンズがメイカーフィールド選挙区の議席をバーナムのために辞退し、補欠選挙が設定されました。
6月19日のメイカーフィールド補欠選挙でバーナムは圧勝。リフォームUKは「あらゆる手を尽くしてバーナムを止める」と宣言していましたが、議席を失った市民の反リフォーム戦術的投票が機能し、バーナムが党首選への道を切り開きました。
スターマーはバーナムの勝利を受け、2026年6月22日に首相・党首の辞任を正式に表明しました。「英国は今、様々な国際的な課題に直面している。分断でなく団結をもたらすために尽くす」と述べ、7月に始まる党首選が終わるまで在任を続けることを明らかにしました。
辞任表明の直前、トランプ大統領はSNSに「スターマーは英国首相を辞任する。幸運を祈る!」と投稿——本人が正式に発表する24時間前に、米国大統領が英国首相の辞任を告げるという奇妙な光景も演じられました。
アンディ・バーナムの党首選——次の首相は誰か
2026年7月2日(本稿執筆時点)現在、労働党の党首選は進行中です。候補者の受付は7月9日から16日まで、党首が正式に選出されるのは9月になる見込みです。
最有力候補はアンディ・バーナム(53)です。グレーター・マンチェスターの元市長で、「英国の外からやってきたクリーンな候補」というイメージ、北部イングランドへの根強い人気、「底辺からの経済成長」という政策ビジョンが評価されています。バーナムは「地方分権の拡大」「財政規律の維持」「リフォームUKとの正面対決」という三つの柱を打ち出しています。
ストリーティングは出馬を辞退してバーナム支持を表明しました。他の候補者の動向は注視が必要です。アンジェラ・レイナー(46)も「税務問題での清廉性確認」を受けて名乗りを上げる可能性があり、エド・ミリバンド(56、エネルギー相)の名前も挙がっています。
第六章 リフォームUKの台頭——英国政治を塗り替えた「反体制」政党
ナイジェル・ファラージという政治的強者
英国政治で最も重要なプレイヤーのひとりとして浮上したのが、リフォームUKとナイジェル・ファラージです。
ファラージは長年にわたって英国右翼ポピュリズムの顔として活動してきた人物です。EU離脱を求めるイギリス独立党(UKIP)の党首を長く務め、2016年のブレグジット国民投票を実現させた「ブレグジットの父」として英国内外に知られています。トランプ大統領とも長年の親交があり、米共和党の集会に登壇するほどの関係です。
2024年、ファラージはリフォームUKの党首に就任し、6月の総選挙でクラクトン選挙区から自身初めての下院議員当選を果たしました。
リフォームUKは2024年総選挙でわずか5議席しか獲得できませんでしたが、その後驚異的な勢いで地盤を拡大しました。2025年地方選挙で10議会を制し、2026年地方選挙ではさらに大躍進。2026年春時点で世論調査でリフォームは全国第1位の政党となっています。
リフォームは何を主張しているのか
リフォームUKの政策は、端的に言えば「移民の大幅削減」「減税と規制緩和」「ネット・ゼロ(脱炭素政策)の廃止」「文化的保守主義(反『ウォーク』)」「対中強硬路線」といった内容です。
ファラージは繰り返し「政治は左対右ではない。愛国主義対コスモポリタニズムだ」と語り、従来の政治の軸そのものを塗り替えようとしています。「私たちは抗議票ではない」とも強調しており、次の総選挙での第1党を本気で狙う姿勢を見せています。
しかしリフォームには課題もあります。2026年2月には離党した元議員ルパート・ロウが独自の政党「レストア・ブリテン(英国再建)」を立ち上げ、複数の市議がそちらへ移籍。また党財務責任者のニック・キャンディがエプスタイン関連文書に名前が挙がるなど(ファラージは「問題はない」と否定)、内部の問題も露呈しています。
2026年1月には保守党の重鎮ロバート・ジェンリック、アンドリュー・ロジンデール、スエラ・ブレイバーマンがリフォームに移籍するという衝撃的な展開もありました。「保守党」と「リフォームUK」の境界が、どんどん曖昧になってきています。
リフォームの「天井」——連立政権は組めるか
課題は、リフォームが選挙制度(小選挙区制)の下で議席に転換できるかです。英国の選挙は日本と同様の小選挙区制(より正確には単純多数決制)であり、得票を幅広く分散させると議席効率が悪くなります。
2024年総選挙でリフォームは14.3%の得票率を得ながら、わずか5議席しか取れませんでした(労働党は33.7%で412議席)。この「得票率と議席数の乖離」は、英国の選挙制度の最大の特徴でもあります。
次の総選挙まであと3〜4年ありますが、リフォームが「国民の不満の受け皿」から「実際に政権を担える政党」へと進化できるかが最大の問いです。
第七章 緑の波と自由民主党——左右から崩れる二大政党制
グリーン党——左派の「受け皿」
労働党が失った票の多くが、左側ではグリーン党(緑の党)に流れています。
グリーン党は2025年9月に新党首ザック・ポランスキーを選出。エネルギッシュな若い顔として注目を集め、党員数を6か月で83,000人以上増加させました。2026年2月にはマンチェスターの補欠選挙で、長年の労働党堅固地盤を奪取するという歴史的勝利を収めています。
ポランスキーは2026年地方選挙後に「二大政党政治は死んだ。これからは『グリーン対リフォーム』の政治だ」と宣言しました。
グリーン党は気候変動対策・社会正義・公共サービス充実などを掲げており、労働党より左の有権者層を取り込んでいます。特に都市部の若い有権者(労働党がコービン時代に取り込んでいた層)のグリーン支持への移行が目立ちます。
自由民主党——堅実な第三勢力
自由民主党(LibDems)はエド・デイヴィ党首のもと、2026年地方選挙で約60議席を増やしました。派手な躍進ではありませんが、着実に「保守党に不満を持つ穏健派」を取り込んでいます。
特に南イングランドのいわゆる「ティール(青緑)」選挙区——伝統的な保守党地盤で、教育程度が高く温暖化対策に関心の高い有権者が多い地域——では自民党が侵食を続けています。デイヴィはカヤック・アドベンチャーなど奇抜なSNS戦略で知名度を上げ、「深刻な政治の中でほっとする人間味」を売りにしています。
「二大政党制の終焉」——英国政治の構造変化
2017年の総選挙では保守党と労働党の合計得票率が82.3%でした。しかし2024年総選挙では57.4%に落ちており、1918年以降で最低水準でした。
2026年の地方選挙での得票率を見ると、リフォームが26〜27%、他の各党が16〜20%前後に乱立という状態です。「どの政党も国民の信任を得ていない」という多党分立の時代が到来しています。
「英国の議会制度は、このような多党化に対応できるよう設計されていない」という根本的な問題が浮かび上がっています。英国の小選挙区制は本来「明確な過半数政府を生み出すための制度」ですが、得票が分散すれば、誰も明確な多数を持たない「ハング・パーラメント(宙吊り議会)」になりやすくなります。
第八章 保守党——「再建」を謳う野党
ケミ・バデノクという新世代のリーダー
保守党はスナック首相のもとで2024年総選挙に大敗し、議席数を大幅に減らしました(650議席中、120議席程度)。その後2024年秋の党首選で、ケミ・バデノク(46)が新党首に選出されました。
バデノクはナイジェリア系の親を持ち、一部はラゴスで育ったという独特の経歴を持ちます。保守党で初の黒人党首です。コンピュータシステム工学の学位を持ち、弁護士資格も有するという理系×法律系の知性的背景を持ちながら、「アイデンティティ政治批判」「反ウォーク」「小さな政府」を核に据えた右派の旗手として台頭しました。「直言型」で「メディアのPC規制に屈しない」というキャラクターで支持者を引きつけています。
2025年地方選挙でも保守党は厳しい結果(650議席以上の喪失)を経験しましたが、バデノクは「これは再建への途上だ」と強調。2026年地方選挙では議席の一部を取り戻し、「底は打った」という評価もあります。スコットランドのアバディーン南部補欠選挙では、1967年以来初めてのスコットランドでの補欠選挙勝利も達成しました。
「保守党 vs リフォームUK」という難問
バデノクが最も難しい問題は、リフォームへの対応です。
保守党の右派票の多くがリフォームに流れており、「保守党とリフォームが選挙協力すべきだ」という声が党内右派から出ています。しかしバデノクは「リフォームとは選挙協力しない。彼らは真剣ではない」と一貫して距離を置いています。
ジョンソン元首相の側近らの一部がリフォームに合流(ジェンリック、ブレイバーマンらの移籍)するという事態が続いており、保守党は「右から侵食される」という難問を抱えています。「かつての保守党支持者がリフォームに移った」という現実に、バデノクはどう答えるのか——これが次の総選挙までの最大のテーマです。
第九章 英国経済——課題だらけの財政と生活コスト
「生活費危機」の長い影
スターマー政権の支持率が低迷した最大の要因のひとつは、経済です。
英国は2022〜23年、先進国の中でも特に高いインフレ率(ピーク時に11%超)を経験しました。食料・エネルギー・住宅費の高騰は、多くの家庭の実質所得を大きく傷つけました。インフレは2024年末には落ち着いてきましたが、「物価は高止まりしており、生活は2020年以前より苦しい」という感覚は多くの国民に残っています。
NHSの危機も深刻です。コロナ禍以降、治療待機リストは700万人を超えており(全人口の1割以上)、「緊急でもない手術を1〜2年以上待つ」という状況が常態化しています。「世界最高の医療」というNHSへの誇りと、「壊れかけた現実」のギャップは、政治への不満の大きな源泉です。
レイチェル・リーヴス財務相の予算は「財政責任」と「公共投資」のバランスを意図していましたが、雇用主負担の国民保険引き上げは中小企業から猛烈な批判を受け、「労働党は中小企業の味方ではない」という評判を生みました。英国のGDP成長率は2025年第4四半期・2026年第1四半期に若干のプラスを示しましたが、「持続可能な成長軌道か」については懐疑論が多い。
ホルムズ海峡危機(2026年2〜6月)によるエネルギー価格の高騰も、英国経済には打撃でした。「エネルギー価格のスパイクが反転するかどうかに関わらず、第1四半期に見せた成長の勢いが年間を通じて維持されるか不透明だ」(CNBC)という評価もあります。
第十章 英国の外交——EU、NATO、トランプ、ウクライナ
ブレグジット後の「リセット」——EUとの関係修復
スターマー政権が最も成果を上げた分野として評価されているのが、EU(欧州連合)との関係修復です。
ブレグジット後、保守党政権のもとでEUとの関係は険悪なままでした。特にアイルランド国境問題(北アイルランド議定書)をめぐる対立は深刻でした。スターマーはEU再加盟を公約せず(「EU再加盟はしない」と明言)、代わりに「新しいパートナーシップ」を模索しました。
2025年5月、英EU首脳会議がロンドンで開催され、「安全保障・防衛パートナーシップ」が調印されました。欧州委員会のフォン・デア・ライエン委員長は「欧州とウクライナの安全保障は、あなた(スターマー)のおかげで強化された」とメッセージを送っています。食料・農業の相互承認、若者の交流プログラム、そして防衛分野での緊密な協力——これらは「ブレグジット以前に戻すわけではないが、実質的な関係改善」として評価されました。
トランプ米大統領との「特別な関係」の綱渡り
スターマーは首相就任後、トランプとの関係構築に力を入れました。チャールズ国王からの直筆の招待状(国賓来英招待)をトランプ大統領に手渡すという外交的な演出も功を奏し、当初は「特別な関係」の維持に成功したように見えました。
しかし2025年4月のトランプ関税(英国製品に10%の関税)への対応では、「貿易戦争に入らない」と宣言しながら有利な条件を引き出せず、国内から「弱腰」という批判を受けました。
最終的に、トランプがスターマーの辞任を「本人より24時間先に」SNSで告知するという異例の展開が象徴するように、「特別な関係」の非対称性は明らかでした。
NATO・防衛費——「戦争準備態勢」
スターマーはNATO強化にも積極的でした。2025年の防衛見直し(ジョージ・ロバートソン卿が主導)では、英国がGDP比2.5%の防衛費へ引き上げる計画を打ち出しました(従来はGDP比2%)。スターマーは英国が「戦争準備態勢(war-fighting readiness)へ移行する」と述べました。
2025年6月にはF-35A戦闘機の購入(米国の核兵器を搭載可能な機種)を発表し、「英国の核態勢のここ一世代で最大の強化」と位置づけました。
ウクライナ支援も継続しました。スターマーはゼレンスキー大統領の「最も信頼できる欧州の友」として積極的にウクライナを支援し、「F-16戦闘機のウクライナ移転を許可した国」「長距離ミサイルの使用制限を緩和した」など、実質的な支援を主導しました。
ただしホルムズ海峡危機(2026年)においては、「米国の対イラン攻撃への参加を拒否し、英軍基地の使用も認めない」という判断をし、ファラージらから激しく批判されました。
第十一章 スコットランドとウェールズ——離心力の持続
スコットランド——SNPの凋落と分散する票
スコットランドでは2026年5月の議会選挙が行われ、スコットランド国民党(SNP)が引き続き退潮しました。独立住民投票が実現しない中でSNPの勢いが衰え、その票は労働党・保守党・リフォームUK・グリーンに分散するという「スコットランド版多党化」が進んでいます。
リフォームUKはスコットランドで17議席を獲得し、「英国全土の政党」としての実績を積みました。
労働党のスコットランド党首アナス・サーワーはスターマーに辞任を公式要求した人物であり、スコットランド労働党はウェストミンスター(英国中央政府)の方針と微妙な距離を置いています。
ウェールズ——セナッドでの動向
ウェールズ議会(セナッド)選でも、リフォームが34議席を獲得。「ウェールズにも右翼ポピュリズムの波が来た」という衝撃を与えました。ウェールズは伝統的な労働党の票田であり、その選挙区へのリフォームの進出は英国政治の変容を象徴しています。
第十二章 英国政治の断層——その根底にあるもの
ブレグジットが変えた政治地図
現在の英国政治の混乱を理解するうえで欠かせない文脈は、2016年のEU離脱国民投票です。
「離脱(Leave)対残留(Remain)」という軸は、従来の「右(保守)対左(労働)」という軸と交差しました。保守党の地盤でも「残留派」が多い都市部と、労働党の地盤でも「離脱派」が圧倒的だった北部の工業地帯(「レッドウォール」)——この「ねじれ」が、英国の伝統的な二大政党制を内側から崩しました。
リフォームUKは「ブレグジット票」を引き継いだ政党です。労働党が「レッドウォール」の離脱派票を失ってきたのは、「EU離脱から移民問題まで、自分たちの感覚に合わない」という不満の蓄積によるものです。
経済的格差と地域間の分断
英国では「南北格差」が深刻です。ロンドンと南東イングランドは高い生産性と賃金を持ちますが、北イングランド・ウェールズ・北東イングランドなどでは経済の停滞が続いています。
「ロンドン(とその周辺)の繁栄」と「その他の停滞」という二層構造が、「エスタブリッシュメント(体制)への怒り」として政治に現れています。リフォームUKが北部の旧工業地帯に食い込んでいるのも、グリーン党が都市部の高学歴若者に広がっているのも、この経済的分断を反映しています。
「システムへの不信」という共通項
左右を問わず英国の有権者に広がっているのは、「どの政党も信頼できない」という徹底した政治不信です。
約64%の国民が「二大政党(労働・保守)は国を失望させた」と考えており(2026年地方選前の調査)、「現状を変えられる政党を探している」という心理が票の流動化を生んでいます。YouGov調査ではスターマーの支持率が「不誠実さではボリス・ジョンソン以上」という評価が51%——「不誠実ジョンソン」以上に不信任というのは、いかに底まで落ちていたかを示しています。
第十三章 次の英国——アンディ・バーナムの時代が来るか
「マンチェスターからの挑戦者」
労働党の党首選は2026年7月〜9月にかけて行われ、アンディ・バーナムが圧倒的な有力候補です。
バーナムの強みは「クリーン・スレート(白紙の板)」というイメージです。ウェストミンスターの泥臭い党派争いを離れ、9年間マンチェスターで地域密着型の政治を実践してきた「フレッシュな顔」。ウェールズ訛りが残る北部的な話し方、ラグビーへの情熱、「普通の人々」への共感——これらがスターマーとは対照的です。
バーナムは「地方分権の拡大」「成長は上から命令できない、下から育てるものだ」「財政規律の維持」を柱に据えており、左右のどちらにも偏りすぎない「第三の道」的なポジショニングを取っています。
ただし課題もあります。バーナムに批判的な保守派評論家からは「計画がない」「マンチェスター以外のことを分かっているのか」という指摘も。メイカーフィールド補欠選挙後の演説で質疑応答を受け付けなかったことは批判を受けました。
リフォームUKとの「正面対決」
バーナムはメイカーフィールド補欠選挙でリフォームUKに「正面から戦う」姿勢を示し、「反リフォーム」の戦術的投票を引きつけることに成功しました。「有権者が欲しいのは、リフォームへの脅えではなく、リフォームを理由に左翼のフリをやめることでもなく、きちんとリフォームを論破できるビジョンだ」——これがバーナムの主張です。
次の総選挙(2028年か2029年が濃厚)まで、バーナムが党を建て直せるか、それともリフォームが「議席数でも」第1党に近づくのか——英国政治最大の決戦が待っています。
選挙制度改革という「パンドラの箱」
多党化が進む中で、選挙制度(小選挙区単純多数決制)の改革論が再浮上しています。グリーン党・自民党・スコットランド民族党などは「比例代表制への移行」を長年主張してきましたが、労働党・保守党の二大政党は従来この議論に消極的でした。
しかし現行制度が「国民の声を正確に反映しない」という批判は強まっています。「2024年総選挙でリフォームは14%の票を得て5議席、労働党は33%で412議席」という不均衡は、制度の歪みを如実に示しています。バーナムが選挙制度改革に踏み込むかどうかも、注目点のひとつです。
おわりに——英国政治は「混沌」か「再生」か
英国はこれで7年間に6人目の首相を迎えます。テリーザ・メイ、ボリス・ジョンソン、リズ・トラス、リシ・スナック、キア・スターマー、そして次の人物。「混乱した英国」というイメージは世界に定着しつつあります。
しかしより深く見れば、これは「英国政治が変化に適応しようとしているプロセス」とも言えます。ブレグジット、格差拡大、移民問題、脱炭素、NHS危機——これらの課題に対して、従来の二大政党の틀が追いついていないという認識が広がっています。
リフォームUKの台頭は「反体制の怒り」の表れであり、グリーン党の躍進は「システムへの幻滅と新しい価値観の表出」です。どちらも「古い政治への不満」という同じ根っこから育っています。
アンディ・バーナムが「新しい労働党」を体現できるのか、それともリフォームUKが「新しい英国の右翼」として定着するのか、あるいはグリーン党と自民党が「分散する中道左派の受け皿」として成長するのか——英国の有権者が、次の総選挙で何を選択するのか、世界が注目しています。
ひとつだけ確かなことがあります。「二大政党が支配する古い英国政治」は、2026年の夏をもって確実に終わりを告げました。英国政治は今、百年ぶりの構造的な転換点にいます。
〈主な参考資料〉
BBC News「Keir Starmer Resigns as Prime Minister and Leader of Labour Party」(2026年6月22日)
CNN「Farage's Reform UK Wins Big in Local Elections」(2026年5月8日)
Wikipedia「2026 Labour Party leadership crisis」(2026年7月時点)
Wikipedia「Keir Starmer」(2026年7月時点)
Wikipedia「Reform UK」(2026年7月時点)
Wikipedia「2026 United Kingdom local elections」(2026年5月)
Britannica「Kemi Badenoch」(2026年)
Al Jazeera「Burnham Pledges Devolution and Discipline」(2026年6月29日)
CNBC「UK Labour Leadership Challenge: Wes Streeting Resigns」(2026年5月14日)
NBC News「Who Are the Contenders to Oust British PM?」(2026年5月14日)
RTÉ「Will Reform's Run Continue in UK Local Elections?」(2026年4月27日)
