カメの甲羅の由来(アフリカ民話)──甲羅の傷は、逃げなかった証明。(寓話で読み解く株式投資 #197)
プロローグ 溜池のカメ

にゃあの家の上流に、溜池がある。
江戸時代に掘られたものだ。田んぼに水を引くために、誰かが何年もかけて作ったのだろう。今も現役で、水は静かに、ゆっくりと流れ続けている。
朝のうちに猫さんを一匹連れて、あぜ道を歩くことがある。猫さんは草のにおいを嗅ぎながら、にゃあのすぐ横をついてくる。池のほとりまで来ると、決まってどこかで水音がする。
カメが顔を出すのだ。
湖面にすっと鼻先が現れて、少しのあいだ空気を吸って、また静かに沈んでいく。甲羅のでこぼこが、一瞬だけ水面に揺れる。
にゃあはいつも、その甲羅を見るたびに思う。
あの傷は、どこでついたのだろう。
そのたびに思い出す民話がある。アフリカに伝わる、カメの甲羅の由来についての話だ。
第一章 滑らかだったころ

その民話は、こんなふうに始まる。
むかし、カメの甲羅は完璧になめらかだった。
石を磨いたように光り、雨粒が転がり落ち、朝露すら留まらなかった。サバンナの朝日を受けると、甲羅は鈍く輝いた。他の動物たちが「きれいだ」と言った。カメはその言葉を誇りにしていた。傷ひとつない表面が、自分の価値の証だと思っていた。
だから、嵐の予感がするたびに隠れた。
空の色が変わり始めると、カメはすぐに動いた。岩の陰に、草むらの奥に、川底の泥の中に。嵐が来る前に、必ず安全な場所を見つけた。そして嵐が過ぎ去るまで、じっと息をひそめた。甲羅に一筋の傷もつけたくなかったから。
隠れることを、カメは「賢さ」だと思っていた。
無駄に風雨にさらされることはない。他の動物が嵐でぼろぼろになっていく中、自分だけは美しいままでいられる。それが自分の戦略だと信じていた。嵐に向かっていくのは無謀だ。隠れて生き延びることこそが、本当の知恵だと。
しかしその考えには、ひとつ大きな穴があった。
カメは、嵐の中で自分がどれほど耐えられるかを、一度も試したことがなかった。
第二章 嵐の一夜

ある日、空が急に暗くなり始めた。
いつもと違う暗さだった。地平線から湧き上がる雲が、みるみるうちに空を覆った。カメは岩の陰へ急いだ。しかしその日に限って、岩はすでに別の動物たちで埋まっていた。草むらも、川底も、見慣れた隠れ場所はどこも先客がいた。
カメは右に走り、左に走り、それでも場所が見つからなかった。
そのうちに、雨が来た。
最初の一滴が甲羅を叩いた瞬間、カメは覚悟を決めた。どこにも逃げられない。今夜は、ここにいるしかない。カメは低く頭を引っ込め、四肢をぴったりと縮め、甲羅を風に向けて、地面に張りついた。
雷が落ちた。豪雨が叩いた。風が四方から押し寄せた。
小石が飛んできて甲羅を打った。流木が掠めた。地面を流れる雨水が、カメの下をごうごうと流れた。甲羅がきしむ音がした。痛みとも違う、何かが変形していくような感覚だった。それでもカメは動かなかった。動けなかった、というより、動かないことを選んでいた。
嵐は一晩中続いた。
夜明けが来たとき、雨は止んでいた。カメはゆっくりと頭を持ち上げた。体の節々が痛んだ。甲羅に手を当てる代わりに、カメは自分の影を水溜まりに映してみた。
そこには、見たことのない甲羅があった。
無数の傷と筋が刻まれ、でこぼこになった甲羅が映っていた。昨夜の嵐の痕跡が、すべてそこに残っていた。カメは長い間、その影を見つめた。
美しかった甲羅が、台なしになった。
そう思いながらも、カメは生きていた。嵐の中を、くぐり抜けていた。
第三章 古老の言葉

翌朝、古いゾウが水を飲みに来た。
ゾウはサバンナで最も長く生きている動物のひとつだった。干ばつも、洪水も、何十年もの嵐を越えてきた。その皮膚には深い皺が刻まれ、牙には欠けた跡があった。年老いた体は、生きてきた時間そのものを語っていた。
ゾウはカメの甲羅を見て、長い鼻をゆっくりと動かした。
「おまえ、昨夜の嵐を越えたのか」
カメはうつむいた。「甲羅が傷だらけになってしまいました。もう誰も美しいとは言わないでしょう」
ゾウはしばらく黙っていた。水面を見ていた。それから静かに言った。
「傷は、逃げなかった証明だ」
カメは顔を上げた。
「おまえの甲羅には、昨夜のすべてが刻まれている。雷がどこから来たか。風がどの方向から吹いたか。流木がどの高さを飛んできたか。次の嵐が来たとき、その記憶がおまえを生かす。甲羅の傷は、恥ではない。地図だ」
カメは言った。「しかし、傷のない甲羅の方が美しいではないですか」
「美しいかもしれない」とゾウは言った。「しかし、何も越えていない。傷だらけの甲羅は、何かを越えた者だけが持てるものだ。おまえの甲羅を見れば、昨夜の嵐がどれほどのものだったかがわかる。傷の深さが、嵐の強さを語っている。それがわかるのは、同じように傷を持つ者だけだ」
水を飲み終えると、ゾウはゆっくりと歩き去った。
カメは水面に映る自分の甲羅を、もう一度見た。今度は少し違って見えた。でこぼこの一つひとつに、昨夜の記憶があった。あの流木はここで当たった。あの突風はこの方向から来た。それは確かに、地図だった。
第四章 甲羅の意味

それからカメは、嵐が来ても隠れなくなった。
逃げないとは、無謀であることではない。低く身を縮め、四肢を引き込み、甲羅を風に向けて、ただそこにいることだ。嵐のあいだじゅう、カメは大地をつかんでいた。足の爪を土に食い込ませ、体を低く保ち、風が過ぎ去るのを待ち続けた。
嵐が去るたびに、甲羅には新しい傷が加わった。
その傷ひとつひとつに、夜があり、風があり、朝があった。どの傷がどの嵐のものか、カメは覚えていた。大きな嵐の傷は深く、短い嵐の傷は浅い。二つの嵐が続いた夜の傷は、少し違う角度で交差している。
やがてカメの甲羅は、サバンナで最も複雑な模様を持つようになった。
他の動物たちは近づいて、その筋をそっと触れた。ライオンも、シマウマも、はるか遠くから来たキリンも。傷の数だけ、越えた嵐の数がわかったから。彼らはカメに言った。「おまえは、何度嵐を越えたのか」
カメは答えなかった。甲羅が、代わりに答えていたから。
そのときから、カメの甲羅はでこぼこになった。それはずっと、そういうものだと語り継がれている。なぜカメの甲羅にでこぼこがあるのか。それは、逃げなかったからだ。嵐のたびに大地を掴み、傷を受け取り、朝を迎え続けたからだ。
第五章 株式投資という嵐

にゃあが株を買い始めたころ、市場は穏やかに見えた。
長く持ち続けるうちに、いくつもの嵐をくぐった。リーマン・ショックの暴風。東日本大震災の翌朝。コロナ禍の急落。あの頃の記憶は今も残っている。含み損が積み上がる夜、ポートフォリオの評価額が見たことのない数字になる朝、指値注文を指に乗せたまま、画面を閉じた夜。
逃げた銘柄もある。
損切りの判断が正しかったものもある。業績が崩れ、配当が止まり、事業の先が見えなくなった銘柄は、嵐ではなく沈没だった。そういう銘柄から離れることは、逃げることではない。地面がなくなったと判断して、掴む手を放すことだ。
大事なのは、これが嵐なのか、沈没なのかを見分けることだ。
嵐は、外から来る。相場全体が崩れ、良い銘柄も悪い銘柄も一緒に叩かれる。そういうときは、カメのように低く身を縮めて、大地を掴んでいればいい。地面さえ確かなら、嵐はいつか過ぎ去る。
沈没は、内側から来る。業績の悪化、財務の毀損、競争力の喪失。そのとき甲羅を守っても、立っている地面そのものが崩れていく。
逃げなかった銘柄には、傷がある。
含み損という傷。評価額の縮小という傷。周囲から「まだ持っているの?」と言われた傷。しかしその傷は、嵐の記憶でもある。どこで買い増したか。どこで耐えたか。どのくらいの下落を、自分は受け入れられるか。何パーセントの含み損になったとき、自分は夜眠れなくなるか。
その記憶が、次の嵐のとき、判断を支える。
ポートフォリオの傷は、恥ではない。地図だ。
第六章 守りとはなにか

長期保有の哲学は、楽観主義ではない。
嵐が来ることを知っていながら、それでも持ち続けることだ。完璧な評価額を守るために逃げるのではなく、傷がついても大地を掴んでいることだ。カメが足の爪を土に食い込ませたように、自分の銘柄の根拠に爪を食い込ませて、嵐をやり過ごすことだ。
カメは速くない。しかし、カメは残る。
守りとは、何もしないことではない。
低く身を縮め、根拠を確認し、持ち続けることを選ぶ、積極的な行為だ。嵐の最中に売らないことは、何もしていないのではなく、「持ち続ける」という意思決定を毎日繰り返していることだ。それは地味で、誰にも褒められない行為だが、時間が経ったときに結果として現れる。
ただし、根拠を失った銘柄を抱え続けることは、嵐に耐えることではない。
カメが大地を掴むように、投資家も保有の根拠を確かめなければならない。業績は崩れていないか。配当は維持されているか。事業の継続性に疑いはないか。その確認を怠ったまま持ち続けることは、耐えているのではなく、目を閉じているだけだ。嵐をやり過ごすカメと、沈みかけた船にしがみつく者は、見た目は似ていても、まったく違う。
暴落が来るたびに逃げていては、自分のポートフォリオが何をどれだけ耐えられるかを知る機会が来ない。傷のない甲羅は美しいが、それは試されていない甲羅だ。試された甲羅だけが、本当の守りになる。
カメの甲羅のでこぼこは、時間の結晶だ。
にゃあのポートフォリオにも、でこぼこがある。嵐をくぐった銘柄がある。かつて暴落で沈み、今は静かに戻ってきた銘柄がある。傷の深さが違う。角度が違う。それぞれに、嵐の記憶がある。その傷の地図が、次の嵐への備えになる。
エピローグ 甲羅の地図

民話はそこで終わる。
なぜカメの甲羅はでこぼこなのか。逃げなかったからだ。嵐のたびに大地を掴み、傷を受け取り、朝を迎え続けたからだ。
にゃあはその話を思い出しながら、溜池のほとりに立っていた。
水面はまた静かになっていた。カメはもう沈んでいた。しかし少し前まで、あのでこぼこの甲羅がここに浮かんでいた。いくつの嵐をくぐってきたのか、にゃあには知る由もない。ただ、あの傷の数だけ、越えてきた朝があるのだと思った。
ポートフォリオも、あの甲羅に似ている。
傷だらけで、でこぼこで、きれいとは言えない。しかし傷のひとつひとつに、耐えた夜がある。地面を確かめながら掴み続けた、あの感覚がある。その記憶が積み重なって、今のにゃあの投資になっている。
甲羅の傷は、逃げなかった証明だ。
ポートフォリオの傷も、きっと同じことを言っている。
にゃあのしっぽ

にゃあの持ち株は、今日も嵐のあとの顔をしているにゃ。
含み損の銘柄に傷があり、含み益の銘柄にも傷がある。どちらの傷も、逃げずに持ち続けた証拠にゃ。もちろん、沈みかけた船からは降りるにゃ。でも、地面がある銘柄なら、傷もまた記録になるにゃ。甲羅がきれいなままの株は、まだ本当のところをにゃあに見せていないということにゃ。
でこぼこしているほど、越えたものが多い。
それを知ってから、暴落の翌朝が少しだけ違って見えるようになったにゃ。傷が増えた、と思うより、地図が増えた、と思えるようになったにゃ。
うちの猫さんたちは、傷など気にしない。
毎朝、同じように伸びをして、同じように丸くなる。嵐の翌日も、晴れた日も、変わらない顔でにゃあのそばにいる。
にゃあも今日も、猫さんたちに教わったにゃ。
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ここまで読んでくれて、ありがとうにゃ。
チップは「よかったよ」「続きも楽しみにしてるよ」という
気持ちのメモみたいなものにゃ。
無理のない範囲で、そっと置いていってもらえたら嬉しいにゃ。