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一音目 ― 映画『Michael』を観て(マイケル・ジャクソンについて考えたこと)

映画『Michael』を観てきた。

スクリーンには、1966年から1988年までのマイケル・ジャクソンがいた。

私は熱狂的なファンではない。
けれど、彼の音楽は好きだ。
ダンスも好きだ。
だから、この映画をとても楽しみにしていた。

主演のジャファー・ジャクソンは見事だった。
マイケルの兄、ジャーメイン・ジャクソンの息子。

今回が映画初出演とは思えないほどの存在感で
視線の動き、立ち姿、指先まで、彼はマイケルという人間に近づこうとしていた。

幼少期を演じたジュリアーノ・クルー・ヴァルディも素晴らしかった。
天才と呼ばれた少年のリズム感や身体の使い方を、子どもとは思えない精度で表現していた。

俳優たちが積み重ねた時間は、画面越しにも伝わってくる。

きっと、想像もできないほどの努力があったのだろう。
だから私は、何度も心の中で拍手を送っていた。

それなのに
私は何度も映画館から現実へ引き戻された。

理由は、歌声だった。

映画では、マイケル本人の音源を中心に、主演のジャファー・ジャクソンによる新録ボーカルやハミングが織り交ぜられているという。

「あ、マイケル。」

そう思った次の瞬間、

「違う。」

また少しすると、

「戻った。」

そしてまた、

「違う。」

その繰り返しだった。

もちろん、これはジャファー・ジャクソンのせいではない。
むしろ、あれほどの存在を演じ切ったこと自体、称賛されるべきことだと思う。

では、なぜ私は違和感を覚えたのだろう。

映画を観終えてから、そのことばかり考えていた。

きっと、人は「声」を記憶している。

顔よりも。
仕草よりも。

声には、その人が残っているのかもしれない。
だから少し違うだけで、心は「違う」と反応してしまう。

思い返せば、亡くなった人を思い出すときも、
最後まで残るのは声だったりする。

笑い方。
息の混じり方。
名前を呼ぶときの、ほんの少しの間。

私たちは案外、「声」で人を覚えているのかもしれない。

映画は終わった。
でも、一つだけ終わらなかった。

持ち帰ってきたのは、マイケルの人生ではない。
「本物とは何か」という、一つの問いだった。


帰宅してから、久しぶりに『THIS IS IT』を再生した。

一音目が流れた瞬間、
理由は説明できないのに、

「ああ、マイケルだ。」

そう思った。

歌が上手いからではない。
似ているからでもない。
そこには、誰にも代わることのできない「その人」がいた。

人は誰かを失ったあと、
写真を見返し、
映像を見返し、
録音された声を何度も聴く。

それでも、その人自身には、もう会えない。
だから私たちは、記憶を抱きながら生きていく。

少しずつ書き換えられ、
少しずつ曖昧になり、
それでも確かに残り続ける何かを信じながら。


答えは、まだ見つかっていない。
だから私は、もう一度『THIS IS IT』を観るのだと思う。

その問いは、たぶん今日だけでは終わらない。

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