見出し画像

その夜の輪郭|星降る夜の開花

― 星降る夜の開花 ―

寒かった。

だから、近づいただけのはずだった。
その距離が、戻れなくなるとは思っていなかった。

凍てつく大気が、頬に薄い刃を当てている。
吐息は白くほどけ、夜の中へ消えていく。

見上げれば、漆黒の天蓋には、こぼれ落ちそうなほどの星があった。
音のない空から、光だけが静かに降ってくる。

焚き火の薪が、小さく爆ぜた。

そのたびに、オレンジの火が揺れ、あなたの横顔を少しだけ照らす。
冷たい夜の中で、そこだけが、別の季節のように温かかった。

共有するダウンの内側。
ひざ掛けの下に閉じ込められた空気が、少しずつ二人の体温を覚えていく。

近い、と思った。

けれど、離れようとはしなかった。

肩が触れる。
腕が触れる。
そのたびに、寒さのせいにできる程度の小さな震えが、身体の奥で静かに広がった。

あなたの指先が、ためらうように動いた。

それは、何かを確かめる仕草に似ていた。
言葉にするには近すぎて、拒むには遅すぎる。

毛布の内側で、夜の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。

焚き火の音が遠くなる。
星の光が近くなる。

触れられたのは、ほんのわずかな場所のはずだった。
それなのに、その小さな温度が、凍えていた心の奥まで届いてしまう。

寒さで固くなっていたものが、ゆっくりとほどけていく。

私は何も言わなかった。
あなたも、何も言わなかった。

ただ、吐息だけが、二人の間で白く重なっては消えていく。

最初は、偶然のように。
次第に、それが偶然ではないことを、どちらも知っているように。

指先の気配が、冬の夜に小さな波紋をつくる。

その波紋は、毛布の中だけに留まらなかった。
胸の奥へ、喉元へ、閉じたまぶたの裏へ、ゆっくり広がっていく。

目を閉じると、星が見えた。

空にあるはずの光が、なぜか自分の内側で滲んでいる。
焚き火の赤と、星の白と、あなたの体温が、ひとつの色になっていく。

逃げたいと思ったわけではない。
受け入れたいと決めたわけでもない。

ただ、寒さのせいにしていた距離が、もう寒さだけでは説明できなくなっていた。

薪が、また小さく爆ぜる。

その音に合わせるように、胸の奥で何かがほどけた。
声にはならなかった。
けれど、息だけが少し深くなり、白い夜の中へ消えていった。

しばらく、何も言えなかった。

毛布の中には、まだ温度が残っている。
触れ合っていた場所だけが、少し遅れて、静かな余韻を返してくる。

外の空は、変わらず星で満ちていた。
焚き火も、何事もなかったように燃えている。

けれど、私はもう、さっきと同じ距離には戻れないと知っていた。

離れようと思えば、離れられる。
そう思った。

それなのに、動かなかった。

背中に伝わる体温が、さっきよりも近い。
一度ほどけた夜は、もう元の形には戻らない。

また、毛布の内側で、小さく空気が揺れた。

今度は驚かなかった。
むしろ、どこかでその続きを待っていた自分に気づいてしまう。

焚き火の明かりが、足元で揺れている。
星の光が、肩に落ちている。
寒さはまだそこにあるのに、もう冷たくは感じなかった。

言葉はいらなかった。

この夜に名前をつけてしまえば、たぶん壊れてしまう。
だから私は、ただ目を閉じた。

白い吐息。
爆ぜる薪。
遠い星。
近すぎる体温。

そのすべてが、毛布の内側で静かに混ざり合っていく。

あの夜、寒さのせいにしたすべては、きっと嘘ではなかった。
でも、それだけでもなかった。

星は、何も言わずに降っていた。
焚き火は、何も知らないふりで燃えていた。

ただ、私の中でだけ、
小さな花がひとつ、音もなく開いた。

そしてその花は、夜が明けても、
もう閉じることはなかった。


本作は、赤髪のあかりさんの創作企画
「アカリウムの夜」 参加作品です。

企画記事はこちら。

朔燈子の夜の短編は、こちらのマガジンにまとめています。

いいなと思ったら応援しよう!