ショートショート 「おしい生活」 #アマノ文筆クラブ
夕暮れの光が、広すぎる居間の畳を淡く照らしていた。その光の中で、爺はぽつりと呟いた。
「もう十分に生きた…、もう惜しいことは何もないな…」
声は細く、まるで空気に溶けていくようだった。
妻に先立たれ、独りになった家は、広いというより“余っている”という方が近い。
爺の声は、誰に届く必要もないと知っているかのように弱々しかった。
ふと視線を巡らせると、二人で積み重ねてきた年月が、家のあちこちにひっそりと残っている。
柱の傷は、他人から見ればただの古びた痕だが、爺にとっては笑えない夫婦喧嘩の名残だったりもする。
変色した畳は、踏むたびにギギギィ…と軋み、まるで「まだここにいるのか」と時の流れが爺をからかっているようだった。
仏壇の前には、妻が好きだった白いカーネーションが一輪。昨日水を替えたはずなのに、花は少し首を垂れ、どこか寂しげだ。その姿は、爺の胸の奥に空いた穴をそのまま映しているようだった。
爺には子供がいなかった。だからこそ、老いの準備は早くから整えていた。葬儀の段取りも、遺影に使う写真も、すべて決めてある。いつ「お迎え」が来ても困らないように。それでも、心の奥の冷たい風穴だけは、どうにも埋まらなかった。
「でも…せめて、死ぬ前に一度、妻に会いたい」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ、長年寄り添った相手の名を呼ぶように、自然と零れ落ちた。
涙がひと粒、頬の皺をゆっくりと伝い落ちる。
畳に落ちた瞬間…ギギ…と床が鳴った。
まるで、妻がどこかで返事をしたかのように。
爺は驚いて顔を上げた。
しかし、そこには…誰もいない。
ただ、悪魔がのり塩ポテチを食べているだけだった。
「…………は?」
爺の思考が止まった。
!!
「あ!え?あ?え?…悪魔?の、のり塩ポテチ?」
腰を抜かした拍子に、仏壇に供えていたのり塩ポテチの袋が倒れているのが目に入った。
中身は、きれいさっぱり無くなっていた。
「おしい、いや、おいしいなやっぱ…のり塩は」
悪魔は口を動かさず、直接心に語りかけてきた。
歯にはしっかり海苔が付いている。そして、ニヤリと笑った。
「おい、ジジイ。なんかんだこの世に未練があるみたいだな。のり塩のお礼に“何でも”願い事を叶えてやろう」
「な、何でも…?」
「何でも」
「ほんとに?なんでも?」
「ほんとに、なんでも」
爺は震える声で、しかしどこか吹っ切れたように叫んだ。
「最後に…ラ…ラ…ラス…ラスベガスで豪遊したい!!」
その瞬間、家中の床がギギギギギギギィ〜…と鳴り響いた。
「お安い御用だ」
悪魔はのり塩まみれの指先をパチンと鳴らした。
…気が付けば。
爺はラスベガスの煌びやかなカジノの真ん中で、大量のコインを抱えていた。眩いネオン、鳴り響くスロットの音、人々の歓声。そのすべてが、爺の胸を久しぶりに熱くした。
ポーカー、バカラ、ブラックジャック、ルーレット…目につくものすべてに賭けていく。
「あぁ…おしい、うぅ〜、おしい、おぉ、おしい!あ”〜おしい〜!」
爺は笑いながら、泣きながら、とにかく「おしい」を連呼した。
そして…
爺さんは死ぬまで“おしい生活”をしましたとさ。
めでたし、めでたし。
完
(本文1278字)
あとがき
甘野充さんの企画『アマノ文筆クラブ』題名「おしい生活」に参加させて頂きました。久々に高熱に襲われ、頭が痛い。でも書いちゃいますね…。もう生活の一部ですね…はい。
