掌編 「文庫本」 #シロクマ文芸部
文庫本は笑った。
正確に言えば、そう見えたのだ。笑うはずはないのだが、そう思わせるだけの、わずかな歪みがあった。
平台には新刊の単行本が積まれ、どれも自分の価値を誇示するように背を張っていた。その端に、文庫本はひっそりと置かれていた。誰も気に留めない。私も、特に興味があったわけではない。ただ、目に入ったというだけのことだ。
客が手に取った。
文庫本は、紙の癖でゆるく反った。反り返ったその形が、微笑のように見えたのは、周囲の本が無言のまま高く積まれ、文庫本だけが低い位置にあったせいだろう。そこに意志などあるはずもない。紙は、紙として動いただけだ。
「……ちょっと違うな」
客はそう呟き、文庫本を元の場所へ戻した。
戻された文庫本は、先ほどよりもわずかに疲れたように見えた。表紙の光沢が鈍り、角が少しだけ潰れていた。
文庫本は泣いた。
正確に言えばそう見えた。もちろん、泣くはずはない。だが、照明の反射が弱まり、その陰影が涙のように見えたのだ。
書店の空気の中で、文庫本はただ沈黙していた。
その沈黙が、妙に胸に残った。
完
(本文450字)
あとがき
小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』「文庫本」から書き始める企画に参加させて頂きました。文庫本が主役に見えて、実際は観察者の心情の物語。世界は解釈で出来ているというテーマで書いてみた。
