ショートショート 「脱法」 #風まかせ文芸部#珈琲
新宿・歌舞伎町。ネオンの海に沈むように、雑居ビルの谷間を縫うような裏路地を歩く。夜の帳が降りると、そこは別の世界になる。湿ったアスファルトの匂い、遠くで響くサイレン、そして──
「あるよ」
低く、くぐもった声。振り返ると、フードを深く被った男が、ビルの隙間から現れた。目が合うと、ニヤリと笑う。
「上物だよ。粉もある。香り、保証付きだ」
「粉……いくら?」
「200で栄一」
ボクは震える手で一万円札を二つ折りにして差し出す。男はそれを受け取ると、茶色の紙袋を無造作に押しつけてきた。
「開けるなよ、ここじゃ。香りが漏れる。すぐバレる」
「……はい」
ボクは紙袋を抱え、夜の街へと駆け出した。心臓が爆音のように鳴る。罪悪感と興奮が入り混じり、足元がふわふわと浮いているようだった。
(やってしまった……でも、どうしても欲しかった)
人混みを縫うように歩き、何度も後ろを振り返る。誰かに尾けられている気がして、ジグザグに道を変える。ようやくたどり着いたアパートの階段を駆け上がり、ドアを閉めた瞬間、全身の力が抜けた。
「……ふぅ」
キッチンに向かい、薬缶に水を注ぎ、火を点ける。紙袋を開けると、銀色の真空パックが現れた。刃を入れた瞬間──
ふわり、と。
甘く、深く、どこか懐かしい香りが部屋を満たす。ボクの中の何かが弾けた。
(これだ……この香りだ)
だが、すぐに我に返る。お湯が沸くまでの数分が、ボクを現実に引き戻す。
「罪を犯してまで手に入れたんだ。最高の一杯を淹れなきゃ意味がない」
サーバーとドリッパーを温め、ペーパーフィルターを丁寧にセットする。粉は10g。表面を平らに整え、90度に落ち着かせた湯をそっと注ぐ。
粉がふわりと膨らむ。部屋中に広がる香り。ボクは目を閉じ、30秒の蒸らしに集中する。
「3、2、1……」
中心から外へ、「の」の字を描くように湯を注ぐ。フィルターに触れぬよう、慎重に。抽出ペースはゆっくり、濃いめを狙う。
黒い雫が、ぽたり、ぽたりと落ちる。
サーバーを軽く揺らし、香りを均一にする。マグカップに注ぎ込むと、琥珀色の液体が静かに波打った。
「……できた」
ボクはカップを手に取り、唇を近づけ──
「警察だ!珈琲禁止法違反の現行犯で逮捕する!」
玄関が爆音と共に吹き飛び、数人の警官がなだれ込んできた。
「な、なんで……なんでバレたんだ……?」
「バレるに決まってんだろ。こんな香り、通報されないわけがない」
「お願いだ……一口だけ……一口だけ飲ませてくれ……!」
ボクはカップを掲げるが、すぐに腕をねじられ、床に押さえつけられる。
連行されるボクの背後で、カップが倒れ、コーヒーが床に広がる。
部屋には、まだあの香りが、静かに、苦く漂っていた…。
完
あとがき
もうネタがないので珈琲が禁止された世界の1ページを書いてみました。はい、コーヒーだけにブラックに。そして私はブラック派です。
