写真は「表現」の敵なのか──金村修『写真批評』
写真を撮っていると、「何を表現したかったのか」と聞かれることがある。
撮影者の感情、作品に込めた物語、被写体を選んだ理由。写真はしばしば、撮影者の内面を映し出す芸術として語られる。
しかし、写真家・金村修氏は、そうした写真観を根本からひっくり返す。
写真は「表現」や「創造」の敵です。
かなり挑発的な言葉だ。
だが、この一文に引っかかった人ほど、金村修の『写真批評』を読む意味がある。
『家電批評』の人気連載が一冊に
『写真批評』は、2016年から2025年にかけて月刊誌『家電批評』に掲載された「金村修の写真批評」から、文章を厳選して編まれた写文集だ。
単に過去の連載を並べただけではない。単行本化にあたり、新たな加筆と修正が行われている。
扱われるテーマは写真論だけにとどまらない。
芸術論、音楽と写真の関係、その時代に起きた出来事への批評、カメラや撮影機材をめぐる話まで、さまざまな話題を横断していく。
約100点の写真作品を収録し、全360ページ。
金村修にとって初となる、本格的な写真批評集だ。
写真を学ぶための入門書というより、写真について考えていたつもりの頭を、いったん壊すための本と言ったほうが近いかもしれない。
写真家は創造主ではなく、カメラの下僕
金村修の写真論で強烈なのが、写真家とカメラの関係だ。
一般的には、カメラは写真家が作品を生み出すための道具だと考えられている。
写真家が主人で、カメラは従う側だ。
しかし金村修は、その関係を逆転させる。
写真を実際に記録しているのは機械であり、写真家はカメラを完全に支配しているわけではない。むしろ写真家のほうが、カメラという装置に使われている。
写真家は創造主ではない。
神がいるとすれば、それは撮影者ではなくカメラであり、写真家はその下僕なのだという。
この考え方は、写真を撮る人にとって少し居心地が悪い。
自分が作品を生み出したと思っていたのに、「それはカメラが撮ったものだ」と言われてしまうからだ。
しかし、実際の撮影を思い返せば、完全には否定できない部分もある。
偶然入り込んだ人物。
意図しなかった光。
自分では気づかなかった看板。
撮影時には見えていなかった背景の情報。
写真には、撮影者の意図を平然と裏切るものが写り込む。
その裏切りこそが、写真の面白さなのかもしれない。
写真から勝手に物語を作らない
写真を見ると、人はすぐに物語を作りたくなる。
寂しそうな背中を見れば、その人の人生を想像する。古びた建物を見れば、そこで暮らしていた人々の記憶を語り始める。
だが金村修は、そうした鑑賞態度に対して厳しい。
まず画面を見ろ。
自分の想像を語る前に、実際に何が写っているのかを見ろ。
写真の外側にある物語ではなく、画面の中に存在している電柱、建物、影、文字、人物、車、道路を見る。
写真を感情で包み込むのではなく、写っているものから逃げない。
これは簡単なようで、かなり難しい。
人間は意味のないものを見ることが苦手だからだ。
犬が写っていれば、「なぜ犬がいるのか」と考える。空き地が写っていれば、「失われた街の記憶」といった意味を与えたくなる。
しかし写真は、ただ犬が写っているだけかもしれない。
ただビルが写っているだけかもしれない。
その説明しようのない退屈さまで含めて、写真なのだ。
「良い写真」の基準を揺さぶる
写真の世界には、さまざまな正解がある。
構図が整っている。
光が美しい。
主題が明確である。
撮影者の感情が伝わる。
作品としての物語がある。
もちろん、それらを否定する必要はない。
ただ、そうした基準だけで写真を見ていると、写真は次第に「上手な写真」と「下手な写真」に整理されていく。
金村修の言葉は、その整理を邪魔する。
撮影者が何を表現したかではなく、機械が何を記録してしまったのか。
美しくまとめられているかではなく、画面の中にどのような情報が衝突しているのか。
写真家の意図よりも、写真そのものを見る。
『写真批評』は、写真を評価する本であると同時に、「評価する」という行為そのものを疑う本でもある。
写真論だけでは終わらない
本書の特徴は、写真だけを閉じた世界として扱わないことだ。
音楽と写真。
芸術と消費。
カメラという機械。
その時代の社会や出来事。
写真は美術館やギャラリーの中だけに存在しているものではない。
雑誌、広告、街の看板、ニュース、SNS、監視カメラ、スマートフォン。現代では、日常のあらゆる場所に写真がある。
だから写真を考えることは、現代社会そのものを考えることにもつながっていく。
『家電批評』という雑誌で写真論が連載されていたことも興味深い。
芸術専門誌ではなく、家電製品を批評する雑誌だからこそ、カメラを芸術家の神聖な道具ではなく、一台の機械として見ることができたのかもしれない。
写真家を志す人に必要なのは、答えではなく疑い
本書は、写真が上手になる方法を教える本ではない。
おすすめのレンズも、売れる写真の撮り方も、SNSで評価される構図も教えてくれない。
その代わり、写真を撮るときに無意識に信じているものを疑わせてくる。
自分は本当に表現しているのか。
写真に物語は必要なのか。
美しい写真は、本当に良い写真なのか。
写真家はカメラを使っているのか、それともカメラに使われているのか。
こうした問いに、簡単な結論は出ない。
むしろ、結論が出ないまま撮り続けることが、写真家になるということなのかもしれない。
写真を撮る人より、写真を見たい人へ
金村修『写真批評』は、写真を撮る技術を増やす本ではない。
写真を見るときの速度を落とす本だ。
写真を見て、すぐに「エモい」「美しい」「物語を感じる」と判断する前に、もう一度画面を見る。
そこに何が写っているのか。
どのような線が走っているのか。
建物と人物がどのように重なっているのか。
文字や影がどこに入り込んでいるのか。
撮影者の意図では説明できないものが、どれだけ残されているのか。
写真について語る言葉を増やす一冊でありながら、安易に写真を語ることを止める一冊でもある。
写真を表現だと思ってきた人。
写真に自分の感情を込めようとしてきた人。
写真を見るたびに、物語を読み取ろうとしてきた人。
そんな人ほど、本書の言葉に反発するはずだ。
そして、その反発から写真についての新しい思考が始まる。
写真を撮る前に読む本ではない。
写真を撮り続け、写真について分かったような気がしてきたときにこそ、開きたい一冊。
(この記事には、アフィリエイトリンクが含まれます。)
いいなと思ったら応援しよう!
もし記事を気に入っていただけたら、チップをいただけると嬉しいです。より良い記事がかけることに投資させていただきます。