私に他人が見えないのなら…
私は他人がよく見えていない。
他人の心の動きがまったくわからない。
だから自分勝手な行動をしてしまう。
そんな自分が嫌だ。恥ずかしい。
そんなことにずっと悩んできました。
でも、ちょっと待って!
私が他人をよく見ていないということは、他人だって私のことを見ていないのでは?
愛着障害をかかえると、自分が他人からどう見えているのかに注目しすぎるあまり、本当に他人が何を見ているのかを考えられなくなります。
矛盾していますね。
他人が私をどう見ているか
ばかり考えているということは、
私の姿など眼中に無い他人の目線が想像できないということ。
つまり他人は常に私という人間との関わりの中だけで存在していると思い込み、私の存在など全く意に介さず、私と一切関わりのないところで、その他人の時間は続いているという想像が及ばないのです。
私が、他人から睨まれないようにコソコソと行動していたり、何か聞かれた時に私の行動を見透かされているような気がしてオロオロしているなんてことは、相手にとって知ったことではありません。
相手は、私のことなど全く考えていなくて、たまたま会った時に何を話題にしようか迷って「最近どう?」と聞いただけなのに、それを私が詮索されたように受け取ってしまったなどと、想像できるはずもありません。
ある行事に参加するのが嫌で、一人で違う方向に出かける予定を入れました。
別に強制的な参加ではなかったので、その時に私が何をしていようと、行事参加者にはまったく関心はありません。
その行事を満喫しているでしょうし、私のことなど微塵も考えていないと思います。
それなのに私は、何か後ろめたい気持ちが拭えず、誰とも会わないようにと気にかけているわけです。
滑稽ですね!
私は何から逃げているのでしょう。
きっとそうやって『他人が私を監視している』という強迫観念を抱いてしまう自分の心を、全く知り合いのいない場所でゆっくり落ち着けたかったのかもしれません。
他人は私が思うほど、私に対して何か期待しているわけでも、詮索しているわけでもない。
頭ではよーくわかっているのに、気持ちがどうにも落ち着かないのです。
もうこれは神経反射レベルで、私を監視する目を恐れているとしか思えません。
それはきっと、幼い頃に、私の行動を気まぐれに咎めてきた母の目への恐れなのでしょう。
母の監視には一貫性がなく、気まぐれなタイミングで私の行動が目についたら注意をするという、躾の根拠など何も無いものだった、ということは大人になってよく分かりました。
母の目など恐るるに足らず!
けれど小さな子どもの私が、
「お母さんに怒られるかもしれない」
と反射的に怯えてしまう『習い性』は、なかなか抜けないのです。
こそこそ逃げ回って出かけた先で、なんと素晴らしい出会いがたくさんありました!
自分の悩みに訴えかけるような教訓めいた言葉を目にしたり、目指して行った場所が見つからなくて迷っていたら、とっても素敵な穴場を見つけたり!
私は逃げ回っていたのではなくて、自分に必要だと思うことをしていたんですね!
ある意味とても計画的でとても重要な予定だったのに、自覚が無くて後ろめたく思っているなんて!
いやはや、心から自分の行動に自信を持って「これでいい!これしかないでしょ!」と思い切れる日はいつになるのやら?
