📖【短編小説】「死の帯」
(あらすじ)
八千メートルを超えた瞬間、世界は明らかに変わる。空気は粘つく死の匂いを帯び、理性が溶けていく「死の帯」へと姿を変える。登山家である「私」は、ガイドのタクと共に、極限の稜線を進む。酸素が欠乏し、仲間が突然笑い出し、意味もなく「飛べる」と呟いて岩場から身を投げる姿を目の当たりにする。山は人を食う。ゆっくりと、静かに、確実に。死が目前に迫ったとき、家族の顔も恋人の記憶も浮かばない。頭に残るのは、ただ「死にたくない」という、動物としての純粋で醜い執着だけだった。理性も愛も希望も剥ぎ取られた先で、人間はただの肉塊となり、自然という巨大な胃袋と対峙する。冷たく生理的な筆致で描かれた、極限の山岳世界における「生」と「死」の根源的な物語。

【短編小説】「死の帯」
八千メートルを超えた瞬間、空気が変わった。
それまではただ薄かった。肺が必死に酸素を掴もうとする、ただの不快さだった。でもここでは、空気そのものが別の物質に変わる。冷たくて、粘つく。舌の上に鉄と腐った肉の味が広がる。死の匂いだ、と私は思った。誰かが死んだわけじゃない。山自体が、死を吐き出している。私たちは「死の帯」と呼んでいた。誰もが知っている名前。でも実際に足を踏み入れると、名前なんかでは到底足りないことがわかる。ここはもう地球じゃない。山が人を食うための胃袋だ。
ガイドのタクは朝、テントから這い出してきて、突然笑い始めた。「なんか、昨日のおかずがまだ口の中に残ってるみたいだな」彼はそう言って、指を口に突っ込み、吐き出した。出てきたのは黄色い粘液だけだった。酸素ボンベの残量を確認する手も震えていない。むしろ楽しそうだった。私たちはもう三日間、ほとんど眠っていない。睡眠はここでは毒になる。脳が溶ける。私は黙ってザックを背負った。足の感覚が遠い。爪先が自分のものじゃないみたいに、地面を蹴るたびに遅れて痛みが追ってくる。
午後二時、私たちは稜線に出た。風が吹いていた。風というより、巨大な生き物が息を吐いているような音だった。雪が舞う。白い粒子の一つ一つが、死んだ細胞のように見えた。同行者の一人が、突然立ち止まった。名前は忘れた。三十代の男性で、去年の冬に妻ができたと言っていたはずだ。彼はヘルメットを外し、ゆっくりと雪の上に座った。「飛べるかも」彼はそう呟いた。声に抑揚がない。ただ事実を述べているだけ。次の瞬間、彼は立ち上がり、まるで階段を降りるように、岩場の向こう側へ一歩踏み出した。悲鳴もなかった。風が音を全部飲み込んだ。山は人を食う。ゆっくりと、丁寧に。
私は振り返らなかった。振り返ると、自分も同じことをしたくなる気がしたからだ。死にたくない、というより、飛んでしまう自分が怖かった。夜になった。テントはもう張らない。ビバークだ。岩の隙間に体を押し込み、酸素ボンベの残りを確認する。残り二時間分。朝まで持たない。私は目を閉じた。家族の顔は浮かばなかった。恋人の顔も、母親の声も、犬の名前も、何も出てこない。ただ、胸の奥で小さな動物が暴れているのだけを感じた。死にたくない。それは「生きたい」という綺麗な言葉とは違う。もっと下品で、醜くて、根源的なもの。腸が引きつるような、獣の叫び。脳が酸素を欲しがるたび、脊髄が「まだだ、まだ死ぬな」と命令を出す。理性なんか関係ない。私はただの肉塊だった。山に食われるのを拒否する、ただのタンパク質の塊。隣でタクが呟いた。「俺、明日になったら飛ぶかもな」彼の声は穏やかだった。まるで明日の天気を話すみたいに。私は返事をしなかった。代わりに、自分の指を強く握った。爪が掌に食い込む痛みが、唯一の現実だった。朝が来た。空は青すぎた。青というより、死んだ目の色だった。タクはもういなかった。足跡が稜線の向こうへ続いていた。途中から消えていた。山が食ったのだ。私は一人になった。最後の酸素を吸いながら、私はゆっくりと登り続けた。足が動くのは、ただ「死にたくない」という動物の命令だけだった。頂上なんてどうでもいい。そこに何があるのかも知らない。ただ、下りるのも嫌だった。下りたらまた人間に戻らなければならない。
笑ったり、恋をしたり、死を遠いものとして語ったりしなければならない。私はここで、ようやく自分に正直になれた気がした。八千メートルを超えた世界では、人間はもういらない。必要なのは、ただ死にたくないという、純粋で下劣な執着だけだ。山はそれを、優しく、残酷に、味わう。私は最後のステップを踏み出した。視界が白く染まる。死の匂いが、まるで自分の体臭のように染みついていた。でも、まだ、死にたくない。その一心で、私はただ、立っていた。
「死の帯」
作詞.✋
ジレンマ
生きるか死ぬかの誓い
瀬戸際、堕とされた地獄
救えない
転がる亡骸
傾く想いは煉獄中
焦がれる炎
最果ての想いの海へ
煉獄の中
此処に訪れた
悲しみの亡骸たち
亡者の群れは寂しいか?
凍えている
その体、抱きしめて
浄土に送ろう…
生命の取り合い
死の香り
死体食いを喰らう鬼
生きるために
生命、剥ぎ取る
羅生門の鬼
超えてはならない
境涯がある…
線を踏み越えたモノ
因果応報の渦
飲みこまれ…
死地に縛られる…
