見出し画像

防寒着で出社せよ。「かもしれない運転」で乗り切るハリネズミ社会の歩き方

「生きにくい世の中になった。」

そんな声をよく聞く。私もそう思う。

国家が肥大化している。
綺麗な世界を作るためにか、権力を維持し税収を増やすためにか、政府は大きくなり続けている。規制は増える一方だ。自転車の運転にさえ、口やかましく言われるようになった。

私は小さな政府が好きだ。自由が好きだ。
とは言え、そんなこと言っても仕方がない。


決して悪いことだけではない。
世の中がよくなっている証拠だ。世の中から消し去るべき悪いことが消え、次に悪いことを消しに行っている。

だが、それにしても生きにくい。

皆さんは適応できていますか?

法規制だけの話ではない。世論という名の圧力もインターネットの力を借りて強くなっている。

ダイバーシティの推進、少数者への配慮。
もちろん法整備もされているが、こういったものが世に浸透するには世論の力が必要だ。
コロナの時のマスク警察のような民間の強制力が働いている。
そうやって世の中は浄化されていくのだ。

さて、自分事に返ってみよう。
昭和のようには生きていけない。時代を変える力もない。
今の時代に適応するしかない。
そういう意味では、うまくやっている気がする。

タバコなんてもう5年前に辞めた。
受動喫煙を嫌がる世間に負けたのだ。最近はアルコールも付き合い程度にしか飲まなくなった。

女性がいる飲み会では気を張っているし、可能な限り行かない。
“絶対に”他者からパワハラと言われずに指導する方法は難しいが、それでもなんとかやっている。

世の中からバッシングを受けそうなこと、キャンセルされそうなことは極力避けていくようにしている。

この障害物だらけの険しい山道をなんとかうまく運転していると思う。
少なくとも、うまく運転しようとしている。

だが、果たしてこれでいいのだろうか?

かもしれない運転の弊害

今の時代にしてはいけないことを学ぼうと思えば、驚くほど簡単に情報が手に入る。

ニュース番組を観ても、討論番組を観てもいい。
毎日のように、人がどのようなことに傷ついていて、どう対応すればよかったかが語られている。

「今の若者はこういうことに傷つくんですよ。」
「今の女性はこうされると嫌がるんですよ。」
「おじさんもこういうのは嫌なんですよ。」

学ぶことは悪くない。
だが、理論だけを学ぶのはよくない。フィールドワークも必要だ。

しかしだ。学べば学ぶほど怖くなる。
誰かと接する時、「嫌がっているかも」、「傷つくかも」といった想像が頭をもたげてくる。頭の中で、想像上の傷つきやすい人が肥大化していく。あらゆる特殊な事象を一般化し、世界中の傷つきやすさを集めたような人格を作っていく。

現代に適応した人間は、そういった不安、いやリスクと呼んだ方が正しいだろう。リスクが見えた時どうするか。
教習所で習っただろう。「かもしれない運転」をするのだ。

相手が傷つくかもしれないから、やらないでおく。
嫌がるかもしれないから、伝えないでおく。

そうして、誰も傷つかず、嫌がれもしない無事故な社会がつくられる。
過度に傷つくこと、傷つけることを恐れるハリネズミ社会が完成する。

ハリネズミのジレンマ

ハリネズミのジレンマはご存じだろう。

冬の寒さをしのぐためにハリネズミたちが身を寄せ合おうとするが、近づきすぎると互いの針で刺し合って痛い。しかし離れると凍えてしまう。傷つくことと温もりを求めることの間で葛藤し、最終的に「互いに傷つかず、かつ凍えない最適な距離」を見つけ出す、という寓話だ。

かもしれない運転を続けると、針が刺さることはなくなるが、組織は弱体化し凍えてしまう。
でも、勇気を持って近づけば針で刺してしまうかもしれない。針で刺せば一発退場だ。
ハリネズミ社会は決して手放しで喜べるいい社会ではない。

そもそもだ。この寓話が持っている大前提「針が刺さらなくても凍えない距離がある。」は本当に正しいのだろうか。
針が刺さらない距離ギリギリを攻めたとして、その距離では凍えてしまうかもしれないではないか。

目的志向でジレンマを回避する

今まで「社会」という言葉で語ってきた社会とはどの範囲のことだったのだろうか。

大きな言葉を使う時は気を付けた方がいい。
今、「社会」という言葉で語ったのは、おおむね「会社」と「公共空間」だ。
「公共空間」。例えば、電車や酒場だ。
ここでは徹底して「かもしれない運転」をすればいい。安全第一。
昔であれば、袖触れ合うのも多少の縁で、こういうところでも出会いがあったのだろう。
かもしれない運転を維持し、ハリネズミ社会を築けば、こういった偶然性が生む出会いはなくなる。だが、そのメリットはそこまで大きいものではない。諦められる程度だ。

問題は「会社」だ。
ここでどうやってハリネズミのジレンマを解消するか。

そもそも会社とはなにか。英語では「company」。
ラテン語の 「com(共に)」 と 「panis(パン)」 に由来し、日本語で言う「同じ釜の飯を食う関係」だ。

意味を読み解けば、解決法が見えてくる。
ひとつは、「同じ目的を持つ」ということだ。
「目的を共有」とか「目的を示達」なんて生ぬるいことではいけない。その程度では、ハリネズミの針は長いままだ。

「同じ目的を持つ」
全員が心から同じ目的を大事にし、向かうことができれば、我々は対峙する関係から一緒に同じ方向を向く関係になることができる。

これが正攻法。本質的な解決方法だ。


しかし、これほど難しいこともあまりない。
人の考えや気持ちを変えるのは簡単ではない。いや、簡単ではないどころか不可能に近い。

組織が大きくなればなるほど、同じ目的を持つのは困難になっていく。
人は皆、考え方が違う。思想も違う。価値観も違う。
ただ、同じ会社で働いているだけ。それだけで全員が同じ方向を向くのはほとんど不可能だ。

ベンチャーなんかが強い理由がここにある。
同じ目的を持った人しか入って来ないのだ。そうなれば、多少無茶な行動も目的にかなう行動なら許される。むしろ賞賛される。

ルール化・システム化で回避する

組織が大きくなると共通目的によるジレンマ回避は困難。
もはや大企業は「company」ではなく「system」だ。
ではどうするか。ルールやシステムという共通認識を作るのだ。

このやり方はあまり血が通ってないように見える。実際にそうだと思う。
だが、ルールやシステムが明確になることのメリットは大きい。誰も起こったことに対して驚かなくなる。次になにが起こるか予見できる。

予測可能性は人の不安を大きく下げる。

この方法は針を短くして、ハリネズミ同士が近づけることを目指すものではない。近寄れないことを前提として、防寒着を着せる対処法だ。

人生のポートフォリオ戦略

「それでは仕事が味気ない」「血の通った人間関係がない」と嘆くおじさんたちの気持ちは分かる。よく分かる。私もそう思う。
だが、それは会社に対して、過剰な期待を抱きすぎているのだ。

会社では、分厚い防寒着を着て、徹底した「かもしれない運転」で安全第一に徹すればいい。無事故運転がプロの仕事だ。

そこで生まれた余力と対価を使って、私たちは別の場所で「血の通った世界」を持てばいいのだ。
家庭、友人関係、あるいは趣味のコミュニティ。 ハリネズミ社会化してしまった現代においては、すべてを一つの場所(会社)で満たそうとするからジレンマに陥る。

リスクだらけの公道は「かもしれない運転」で乗り切り、ここは一緒にノーガードで走り回れると思える民間サーキットを別に見つける。
それこそが、この生きにくい社会を乗り切る、令和のポートフォリオ戦略だ。

いいなと思ったら応援しよう!