【小説】東雲家の夜(12/21)
第12夜 帰る場所
カフェを出る頃には、夕方に近づいていた。
駅前には、まだ人が多かった。
買い物袋を下げた親子。制服姿の学生。駅へ急ぐ会社員。
誰も、美琴の話など知らない。
この街では、そんなものは最初から存在していないみたいだった。
「じゃあ、また会おうね」
祥子が言った。
「うん」
「ほんとに。あんまり一人で考え込まないでよ」
「ありがとう」
美琴は頷いた。
祥子は少し迷ったように、美琴の腕に軽く触れた。
「さっきの言い方、きつかったらごめん」
「ううん」
「私、美琴がつらいなら、ちゃんと逃げてほしいとは思ってるよ。ただ……現実的に考えちゃって」
「分かってる」
美琴はそう答えた。
本当に、分かっていた。
祥子は、美琴を傷つけようとしたわけではない。
普通の世界の言葉で、普通に考えてくれただけだった。
「何かあったらLINEして」
「うん」
祥子は小さく手を振り、駅の方へ歩いていった。
紗江は、少しだけその場に残った。
「美琴」
「うん?」
「本当に、おかしいと思ったことは、おかしいって言っていいから」
美琴は、すぐには返事ができなかった。
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
「……うん」
「一人で決めなくていいから。迷ったら連絡して」
「ありがとう」
紗江は美琴の顔を少し見てから、小さく頷いた。
「無理して笑わなくていいよ」
そう言われて、美琴は自分が笑っていたことに気づいた。
口元だけ、いつもの癖で笑っていた。
「……うん」
紗江はそれ以上何も言わず、祥子の後を追った。
二人の背中が、人混みの中に紛れていく。
美琴はしばらく、その場に立っていた。
外には、自分の話を聞いてくれる人がいた。
おかしいと言ってくれる人もいた。
それなのに、足元は軽くならなかった。
むしろ、言葉にしたぶんだけ、胸の中が重くなっていた。
すぐに帰る気にはなれなかった。
駅へ向かう人の流れを見ながら、美琴は反対側へ歩き出した。
どこへ行きたいわけでもなかった。
ただ、まだあの家には戻りたくなかった。
駅前から少し離れたところに、小さな寺院があった。
以前、買い物の途中で前を通ったことがある。
特別有名な場所ではない。観光客が集まるような華やかさもない。
けれど、門の内側だけは、街の音が少し遠くなるような気がした。
美琴は、吸い寄せられるように境内へ入った。
夕方の光が、石畳の上に斜めに落ちている。
風鈴がひとつ、軒先で小さく鳴った。
美琴は賽銭箱の前で立ち止まった。
何を願えばいいのか分からなかった。
助けてください。
逃げられますように。
あの家から離れられますように。
それとも、全部がただの考えすぎでありますように。
どれも違う気がした。
美琴は小銭を入れ、手を合わせた。
目を閉じると、札の部屋の暗さが浮かんだ。
美琴は、慌てて目を開けた。ここは外なのに。そう思った。
寺院の売り場で、美琴は小さなお守りを買った。
厄除け。
身代わり。
健康。
いくつか並んでいる中から、結局、厄除けのお守りを選んだ。
何から守ってほしいのか、自分でもはっきりしなかった。
それでも、何かを手元に持っていたかった。
お守りを鞄にしまったとき、ふいに胃の奥がむかついた。
昼に食べたケーキの甘さが、まだ残っているのだと思った。
カフェラテの匂いも、さっきまで平気だったはずなのに、思い出しただけで少し気持ち悪い。
美琴は境内の端で立ち止まり、ゆっくり息を吐いた。
暑さのせいかもしれない。
疲れているだけかもしれない。
そう思おうとした。
けれど最近、こういうことが増えていた。
朝起きたとき、胃のあたりが重い。
食事の匂いが、少しだけきつく感じる。
疲れやすく、眠っても身体が戻りきらない。
札の部屋のせいだと思っていた。
でも、本当にそれだけなのだろうか。
美琴は、その考えを最後まで追わなかった。
考えるのが怖かった。
寺院を出たあと、美琴は近くの公園に入った。
小さな公園だった。
遊具のそばで、子どもが二人、母親に帰ろうと促されている。
ベンチには誰も座っていなかった。
美琴は、空いているベンチに腰を下ろした。
鞄の中には、さっき買ったお守りが入っている。
スマートフォンには、祥子と紗江とのやり取りが残っている。
美琴は何度も、二人の言葉を思い出した。
おかしいと思ったことは、おかしいって言っていい。
紗江の言葉。
けれど、祥子の言葉も消えなかった。
生活は安定している。
夫は乱暴ではない。
玉の輿なのだから、多少は仕方ない。
家を出るのは簡単ではない。
どちらも、間違っているとは言い切れなかった。
美琴は、深く息を吐いた。
ため息ばかりだった。
何度息を吐いても、胸の中の重さは抜けない。
スマートフォンを開き、紗江に何か送ろうとして、やめた。
祥子にも、送れなかった。
何を書けばいいのか分からなかった。
助けて。
怖い。
帰りたくない。
どれも本当なのに、文字にすると急に大げさに見える。
美琴は画面を閉じた。
公園の木の向こうで、空の色が少しずつ変わっていく。
昼の明るさが薄れ、夕方の影が長く伸びていた。
そろそろ帰らなければならない。
そう思った瞬間、身体が重くなった。
帰りたくない。
けれど、帰らずに済む自分を、美琴はまだ想像できなかった。
美琴は、ゆっくり立ち上がった。
その前に、朔へのお土産だけは買っていこう。
そう思った。
おみやげ買ってきてね。
お菓子がいいな。
あの無邪気な声を思い出す。
美琴は駅前の洋菓子店に入った。
ガラスケースの中には、焼き菓子や小さなケーキが並んでいる。
店内には、バターと砂糖の甘い匂いがした。
その匂いに、また少し胃が揺れた。
美琴は口元に手を当て、浅く息をした。
「大丈夫ですか?」
店員が声をかけてきた。
「あ、大丈夫です」
美琴は慌てて笑った。
「少し、暑さにやられたみたいで」
そう言いながら、自分でもその言葉を信じきれなかった。
美琴は、焼き菓子の詰め合わせを選んだ。
子どもが喜びそうな、個包装の菓子がいくつも入っているものだった。
「こちらでよろしいですか」
「はい」
明るい紙袋を受け取り、店を出る。
電車に乗り、最寄り駅で降りる。
東雲家へ向かう道を進むにつれ、駅前の賑わいは少しずつ遠ざかっていった。
門が見えた。
高い塀。
奥へ続く石畳。
古い木々の影。
昼間に出たときと同じ場所なのに、今はまるで口を開けて待っているように見えた。
美琴は、門の前で一度立ち止まった。
帰りたくない。
けれど、足はそのまま前へ進んだ。
玄関を開けると、家の空気が肌に触れた。
たった数時間離れていただけなのに、戻ってきた瞬間、その重さが分かった。
「美琴姉ちゃん!」
奥から朔が走ってきた。
昼間と同じ、普通の子どもの声だった。
「おかえり」
「ただいま」
美琴は靴を脱ぎながら答えた。
朔の視線は、すぐに美琴の手元へ向かった。
「お菓子は?」
美琴は小さく笑って、紙袋を少し持ち上げた。
「買ってきたよ」
「やった」
朔は嬉しそうに近づいてきた。
「開けていい?」
「おばあちゃんに聞いてからね」
「えー。今食べたい」
「夕飯前だから、怒られるよ」
「ちょっとだけでも?」
「ちょっとだけも、たぶん駄目」
朔は不満そうに紙袋を見ていた。
その顔は、ただの子どもだった。
お菓子を待っていて、夕飯前に食べたがっているだけの子どもだった。
その普通さに、美琴は少しだけ救われた。
同時に、胸の奥がまた重くなった。
どこかで食器を置く音がした。
静江の声が遠くで聞こえる。
家は、いつも通り動いていた。
いつも通り。
そのことが、今の美琴には怖かった。
「美琴姉ちゃん?」
朔が見上げてくる。
「どうしたの?」
「ううん」
美琴は首を振った。
「何でもないよ」
その言葉が、家の中に吸い込まれていく。
何でもない。
本当は、何でもなくない。
けれど、そう言うしかなかった。
美琴は朔と並んで、廊下を奥へ進んだ。
手には、明るい紙袋がある。
鞄の中には、厄除けのお守りがある。
胃の奥には、まだ小さなむかつきが残っている。
そのどれもを抱えたまま、美琴はまた、あの家の奥へ戻っていった。
帰ってきてしまった。
美琴は、そう思った。
外へ出ても、話を聞いてもらっても、結局、自分の戻る場所はまだここだった。
