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【小説】東雲家の夜(21/21)

最終夜 夜の家

退院の日、空はよく晴れていた。

病院の窓から見えていた空は広く、白く、どこまでも続いているように見えた。
けれど、美琴がその空の下へ出たとき、自由になったとは思えなかった。

腕の中には、赤ん坊がいた。
小さな身体。軽いのに、確かな重み。
まだ何も知らない顔で、眠っている。

病院の玄関を出ると、智也が荷物を持って先に立った。

「車、すぐそこだから」

美琴は頷いた。
赤ん坊を抱く腕に、少しだけ力が入る。

この子を連れて戻る。あの家へ。
そう決めたのは自分だった。

子どもを置いていくくらいなら戻る。
そう言ったのも自分だった。

けれど、実際に車へ向かう足は重かった。

病院の自動ドアが閉まる音が、背中で小さく鳴った。
その音を聞いた瞬間、美琴は、外の世界からまた少し切り離されたような気がした。

車の中で、赤ん坊は一度だけ小さく泣いた。
美琴は慌てて抱き直した。

「大丈夫。大丈夫だから」

そう呟く。
誰に言っているのか分からなかった。
赤ん坊へなのか。自分自身へなのか。
それとも、これから戻る家に対して、先に言い聞かせているのか。

赤ん坊はすぐに泣きやんだ。
智也は運転席で、前だけを見ていた。

何度か何かを言いたそうに口を開きかけた。
けれど、結局何も言わなかった。

美琴も、何も言わなかった。
車が東雲家に近づくにつれて、道の景色が少しずつ見慣れたものになっていく。
曲がり角。低い石塀。古い木の影。冬の光を受けて白く乾いた道。
そして、東雲家の門が見えた。

美琴は、赤ん坊を抱く腕に力を込めた。

智也が車を停めた。

「着いたよ」

美琴は、すぐには動けなかった。
赤ん坊は腕の中で眠っている。
何も知らず、ただ小さく息をしている。

その息を感じて、美琴はようやく車を降りた。
玄関には、静江が立っていた。
背筋を伸ばし、いつもと同じ丁寧な顔をしている。

「お帰りなさい」

その声は、少しも揺れていなかった。
まるで、美琴がただ買い物から帰ってきたかのようだった。
まるで、あの夜のことなど何もなかったかのようだった。

美琴は赤ん坊を抱いたまま、頭を下げた。

「ただいま戻りました」

その言葉が、自分の口から出たことに、美琴は少しだけぞっとした。

ただいま。
戻ってきてしまった。

静江の視線が、美琴の顔から、腕の中の赤ん坊へ落ちた。

「よく戻りましたね」

それは、美琴に向けた言葉なのか。
赤ん坊に向けた言葉なのか。

美琴には分からなかった。
奥から足音がした。朔だった。
廊下の角から顔を出し、美琴を見つけると、少しだけ目を大きくした。

「美琴姉ちゃん」

それから、腕の中の赤ん坊を見る。

「赤ちゃん?」
「うん」

美琴は小さく頷いた。
朔は近づき、そっと覗き込んだ。

「小さい」
「小さいね」
「触っていい?」
「手、洗ってからね」
「うん」

朔はすぐに頷いた。
その顔は、いつもの子どもの顔だった。
けれど、美琴はもう、いつもの顔だけを信じることができなかった。

朔の後ろの廊下は、奥へ向かって暗く伸びている。
そこに、浩介の姿はなかった。
誰も、その名前を出さなかった。
美琴も出せなかった。
けれど、いないことだけが、はっきりと家の中にあった。

父親が消えた家。それなのに、何事もなかったように整えられている廊下。
磨かれた床。閉じられた襖。静かに置かれた花。
なかったことにされる。

美琴は、病院で決めた言葉を思い出した。

忘れない。たとえ、誰が否定しても。
たとえ、この家が別の話に置き換えても。
自分だけは、見たものを忘れない。

部屋へ案内された。
布団は整えられていた。
赤ん坊のための小さな寝具も用意されていた。
白い布。柔らかな掛け物。小さな枕。

本来なら、準備されたことを喜ぶべきなのかもしれない。
けれど美琴には、それらが祝福ではなく、待ち構えていたもののように見えた。

この子がここへ来ることは、最初から決まっていた。
そう言われているようだった。

美琴は、赤ん坊をそっと寝かせた。
小さな手が、空を掴むように動いた。
美琴はその手に指を差し出す。

赤ん坊の指が、美琴の指をかすかに握った。
弱い力だった。それでも、美琴には十分だった。

この子はここにいる。
自分の手の届く場所にいる。
今は、それだけを確かめたかった。

夕方になると、家の中の空気がまた少し重くなった。

退院の日だからなのか、その日は札の部屋へ行く者はいなかった。
静江も、何も言わなかった。
けれど、美琴には分かっていた。
終わったわけではない。
ただ、今夜だけ静かなのだ。

赤ん坊が眠ったあと、美琴は部屋の中で一人、障子の向こうを見ていた。

冬の夜が、庭に降りている。
木々の枝が黒く揺れ、遠くで風が鳴った。

智也は別室で何かをしている。
静江は奥にいる。
朔はもう寝たのだろう。

家は静かだった。

静かすぎた。
その静けさの奥に、何かがいる。

美琴は、腹の下に残る鈍い痛みを感じながら、赤ん坊の寝顔を見た。
この子は、まだ何も知らない。
何も知らない。だから、守らなければならない。

ふいに、廊下の奥で木が軋んだ。小さな音だった。
けれど、美琴の身体は反応した。
赤ん坊を起こさないように、ゆっくり顔を上げる。
そこに、誰かがいる気がした。
ただ、家の奥がこちらを向いている。

美琴は赤ん坊のそばへにじり寄った。
布団の端に手を置き、赤ん坊の小さな身体を隠すように座る。

奥の方で、また木が鳴った。
みしり。それだけだった。
けれど美琴には、その音が笑い声のようにも聞こえた。

美琴は唇を結んだ。
逃げるために戻ったのではない。
従うために戻ったのでもない。

この子を置いていかないために戻った。
そして、見たものを忘れないために戻った。

美琴は、赤ん坊の寝息を聞いた。
小さく、頼りない息。
それでも、確かに続いている息。
その息を数えながら、美琴は暗い廊下の方を見続けた。

夜はまだ深い。
東雲家の奥では、誰かが息を潜めている。
美琴は赤ん坊のそばに座ったまま、その夜が明けるのを待っていた。

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