地球が好き
地球を救おうっていろいろ考えて、研究している人たちの本読んだり、ドキュメントフィルム見たりすると、少し人間として回復した感じがする。
大丈夫だ、まだ人間がいるし、そう思える私もまだ人間でいられているみたいだって。
ホッとする。
その研究が実現するか、本当に地球の助けになるか、と言うことは、そんなに重要じゃない。
いや、重要だけど。実際に地球が回復する助けになることは全部重要だけど。
そこにホッとするわけじゃない。
それよりも、その人たちが気持ちの良い人かどうか、ホントに地球とその上に生きてる全ての生物のためを思ってやってるか、愛があるかどうかが、私の人間性が回復したと思える感覚を左右している。
そういう人たちが、この世界のどこかで生命のために頑張ってくれているってわかるだけで、救われた気持ちになる。
ほぼ末期的症状かもしれない。
その視点に立つと、ノーランの『インターステラー』は、申し訳ないけど全く許せない映画になる。
地球に住めなくなったら、宇宙のどこかに住める惑星を探せばいい。
無ければ作ればいい。
それくらいの能力は優秀な人間が数人いれば可能だ。
みたいな考え方が、しごく当たり前のものとして人々の意識に定着しつつある気がする。この映画公開以降、大っぴらにある種の企業家は宇宙開発に参加するようになった気がする。
なんかね、愛が減ってる感じがしてる。
この人間の世界から。
自然の世界と人間の世界が、かつて無いほどクッキリと分離して、分離し続けて離れていって、人間の中から自然に湧き出てくる愛が減ってきている。
何に対しても。
人間から人間に対しても、モノに対しても、動物、自然、地球に対しても。
それとも地球を愛するのはおかしいことなんだろうか。
そんな感じがするから生命に対する、このどうしようもない愛おしさを共有できるであろう人たちが恋しいんだと思う。
地球に変わらず生命が生き続けていけるよう、心を砕く人たちが。
だから実際に効果があってもなくてもいい。
もし、あったとしても、大多数の何も考えずに消費している大衆の行動の結果が勝つ可能性の方が高いかもしれない。
圧倒的な消費と不自然な化学物質の発生をやめられない社会システム。
いや人々の無関心と無意識。
それは変えられないにかもしれない。
つまり、地球も生命体も消費されて壊れてしまう。
それは仕方のないことなのかもしれない。
人間は自分たちが生きる大地を、循環システムを守ること、その程度の基本さえ出来ない無意識状態に落ちてしまったのかもしれない。
人間の大多数がそう言う状態になっているとしても、実際そうでない人たちが存在する。
世界を存続させようとする、種の保存という本能を失わないでいる人たちがいる。
人類を動植物を愛している人々がいる。
だから、世界全体が崩壊に向かっていても、私はただ流されて意識不明のまま破壊に貢献するのではなく、愛や良心を失わずに生きることを選ぶ。
そうするしかないし、それ以外はできそうにないし、それが一人の人間として存在していることの本質なんだって気がするから。
どうしても、そこに戻ってきてしまうから。
実際地球が救えるかどうかより、私が地球を、生命を大切に思い続けていられるか、その回復のために微細なことでもやれているか、同じ気持ちの人たちと一緒にいるか、その存在を確認できているか、が大切。
大切だと思うことをやっていこう。
結果がどうなろうと。
結果は、一人一人の選択の集約に依る。
私の思いや選択は、80億分の1。
それがフェアというものだ。
だから、それでいい。
私は私が大切だと感じることを選択する。
私は、地球が好きだから。
それを変えられないから。
