見出し画像

ベトナムと韓国 漢字語彙

第4章  漢字語彙


クオックグーが全面化しても、
漢字が作ってきた語彙の層は消えない。
文字は「見た目」を変える。
しかし語彙は、もっと深いところで
社会の思考回路を支えている。

この章で扱うのは、その語彙の地層、
漢字で作られた概念語が、
いまも政治と社会の足回りとして
機能しているという事実である。


1 ベトナムの抽象語彙

ベトナム語は、
表記としてはクオックグーに統一された。
漢字も字喃も、日常の読み書きの場からは
退いたが、そこで消えたのは文字であって、
語彙ではない。

ベトナム語には漢越語と呼ばれる、
漢語系語彙の巨大な層が残っている。
辞書ベースでは約40%とされる。
数字は分野や文体で異なるだろう。
だけど、抽象語彙の厚みが、
多くの漢越語で形成されている点が重要だ。

ここで重要なのは「漢字由来の単語が多い」
という事実ではない。もっと実戦的に言えば、
漢越語は単語の倉庫ではなく、
近代を受け取るための「概念のソケット」に
なっている。

近代国家は、学校・徴税・徴兵・裁判・統計・
新聞、要するに「国家を大量運転する装置」を
必要とした。
すると社会には、抽象語が爆発的に要る。

国家、国民、権利、義務、憲法、議会、革命、
独立、民族、社会、階級、資本、労働、帝国、
植民地、こういう語彙がないと、
制度そのものを語れない。

今のベトナムは、漢字を書かない。
しかし、漢字で作られた概念語の音が
社会を走り続ける。
クオックグーとは、乱暴に言えば、
漢字熟語で作られた概念語の音を
「アルファベットで流通させる装置」
でもある。
表記が置き換わっても、
概念語彙が流通される以上、
社会の抽象的な思考の素材は
保持されている。

そして、明治維新以降、
日本で整備・創出された翻訳語としての漢語
(新漢語・和製漢語を含む群)は、
中国・韓国だけでなく、ベトナムにも流入し、
漢越語として今も使用されている。
つまり共有されたのは、特定の国語ではなく、
漢字熟語という概念生成の作法、
そのものだったのだ。

ベトナムは植民地支配を経験し、
西洋の制度語彙を大量に扱わざるを
得なかった。
そこで必要になったのは、
外来概念を運ぶための“コンテナ”である。
漢越語は、その役割を担い続けた。
文字は変わったが、近代国家を語るための
語彙インフラは残ったのだ。


2 韓国の抽象語彙

同じ構造は韓国にもある。
ハングルが前面化しても、
漢字語の厚い層は消えない。
比率には推計の幅があるが、
辞書ベースで約57%とする説明がある。
ここでも数字は主題ではない。
主題は、抽象語彙の骨格が
漢字語でできているという一点にある。

韓国の場合、ハングルは
「音を正確に表す装置」として精度が高い。
だから、ハングル専用化が進んだ後には
同音異義語の爆発という副作用を生んだが、
にも関わらず表記の近代化は速度を持った。

表記の問題と概念の材料の問題は異なる。
だから、速度が上がっても、そこで語られる
制度と思想の材料は、漢字語彙が供給する。

国家、国民、法、権利、義務、憲法、議会、
革命、独立、民族、社会、資本、労働……
この領域では、
漢字語彙が概念のフレームを形作る。

ハングルはそのフレームを表記して伝える。
つまり、こちらもまた、見た目は脱漢字でも、
概念の骨格は漢字語彙という二重性を抱える。


3 日本語話者への含意

日本語話者にとっても、
この二重性は示唆的である。

日本語話者は「漢字の意味領域」を
足場にすると、ベトナム語でも韓国語でも、
抽象語彙の獲得が加速しやすい。
ニュース、政治、経済、学術、一見難しそうな
領域ほど、漢字の補助線が効く。

ただし、漢字由来でも、
各国で独自に造語された語や意味変化があり、
「同じ漢字熟語=同義」ではない点もある。
同じ部品で別の機械を組んでいる場合が
あるから、注意が必要だ。


4 冷戦

冷戦は軍事や経済の対立であると同時に、
言葉の戦争でもあった。
人民、共和国、民主、解放、統一、反帝、
反共、社会主義、自由主義、祖国、闘争、
陣営を選ぶとは、制度を選ぶだけでなく、
世界を説明する語彙をセットで
選ぶことでもある。

ベトナムと韓国が「南北に割れる」過程で、
こうした概念語は必要不可欠になる。
人々を動員し、正統性を語り、敵味方を
線引きし、未来像を配布するために。

ここで漢字語彙の地層は、歴史の残骸でなく、
近代政治が走るための意味のインフラとして
作動する。文字が変わっても、概念語が流通
する以上、社会はその語彙で国家を語り、
戦争を語り、分断を語る。

次章では、外部衝撃として冷戦が入り込み、
“北=社会主義、南=資本主義”という鏡像が
どのように固定化されていったのかを
見ていくことにする。

同じ骨格を持つ二つの国が、
なぜ似た分断を経験し、
なぜ決定的に違う過程を経たのか。


次稿:
第5章 分断


いいなと思ったら応援しよう!