境界の恋④
雨が降っていた。
雨の日に訪れる客人には、ろくな奴がいない。どこかで聞いたそのジンクス通り、家の扉を叩いたのは、よく見覚えのある男だった。古いがチャイムはあるというのに、毎回この男は律儀に扉を直接叩く。そんなところに律儀さを発揮する必要はないし、はっきり言って迷惑だった。これで、宮瀬だったら、まだ許してた。でも、この男はダメだ。
「帰ってどうぞ」
開ける気はさらさらなく、インターホンの受話器を握りながら、コードが続く限り扉に近づく。
「奈那ちゃん、開けてよ、ひどいなぁ」
こちらは名を教えたつもりも呼ぶ許可を与えたつもりもない。
「帰って」
「そう言わずにさぁ」
男は少し声を顰めた。ドア越しで表情は見えやしないが、どうせにんまりと笑っているに決まっている。ここにくるやつは変人なのだと言ったが、こいつが変人で関わりたくない男の筆頭なのだった。
「茶色、革靴、三十センチ。これに、見覚えはない?」
「……」
「ねぇ、いい加減、俺も鏡に会わせてよ」
ため息を吐く。引き継ぎ事項にこの男のことは含まれており、絶対に境界に近づけるな、との注意つきだった。それを初めて見た時、あほなんじゃないかと思ったが、数日後にこの男が来襲してきたのを踏まえて考えを改めた。それから、この男は一ヶ月おきくらいに訪ねてくるようになった。それだけ押しかけられれば嫌でも慣れる。両手で数えられる回数を超えた頃から、この男はアプローチ方法を変えてきた。直近に食われたであろう人物の落とし物をわざわざ言ってくるのだ。何がしたいのかわからないが、こいつが私の仕事を増やしている元凶なのはほぼ確実。鬱陶しいこと極まりなかった。
「あの鏡、異世界に繋がるんだろう? 一目でいいからさ、見たいんだ」
「お引き取りください」
「カメラマンくんは一日中鏡と一緒にいたんだって? 羨ましいことだ」
「そろそろ本部に、」
「ここまでか、今日はお暇するよ」
面倒になってちょっと警察に、というような流れで口に出すと男はさっさと帰って行った。引き際をわきまえているところに一番腹が立つ。
どれだけ訪問回数を重ねたとしても、絶対に男本人は不法侵入をしてこないのだ。律儀に、毎回、私の許可をもらいにくる。不法侵入されれば鏡なり、私なり、本部の職員なりが対処できるというのに。
あの鏡が異世界に繋がる? 馬鹿馬鹿しい。鏡はただの鏡にすぎない。
「また来たの」
三度目の訪問に面食らいながらとりあえず家に上げる。宮瀬は今日もおしゃれな出立ちで、荷物はいつも通り多い。少しずつ変わっていく中でずっと変わらないのは、胸元に下がるカメラだけだな、とぼんやり思った。
「見ててもいい?」
案内をして、そのまま留まったのはただの気まぐれで、鏡とは反対側の角に陣取って宮瀬がくるくると動く様子を見ていた。
私にはこれっぽっちもわからない機材をいじって、カメラを構える。思ったより大きな手が、長い指が、ごついカメラのボタンを押す。シャッター音。角度を調整してもう一度。
ぐりんと振り向いた宮瀬の視線は鋭くて、いつものわんこの雰囲気なんて微塵も感じられなかった。
「あの」
「はい?」
「すみません、もう少し右にずれてもらっていいですか。映るので、鏡に」
「ごめん」
そうか、鏡だから。反射する。思ったより広くを映す。今更ながら気づいた。宮瀬は自分も映り込まないように、撮る方向を微妙に調整していたのだ。
「人、撮りたくないの」
ああ、と宮瀬は頷いた。
「僕、人が無理なんですよ。写真って切り取るから、一瞬が永遠に残る。生きてる人間を閉じ込めてしまうのにどうしても抵抗があって、責任があって、だから、撮りたくない。境界を撮るのが性に合ってるんですよ」
「そう」
鏡に白い布をかけて調整しているところを見ながら、言う。本当に、花嫁のベールみたいだった。
「好きな子、いるんだってね」
「知ってるんですか」
「記事を友人が」
「あー、あれ、恥ずかしいですよねほんと」
「その子のことは撮らないの?」
軽快に、でもぽつぽつと続いていた会話が途切れた。
「撮らないですね」
「どうして」
「そこまで、背負えないです、僕」
「背負えない、ねえ」
何を背負おうとしているのか、なんで撮らないのか、境界を撮るようになった理由。いくつもの言葉が頭の中をぐるぐる回って、そうしてすべて飲み込んだ。
私の口から出かけた言葉が、「被写体になりたい」じゃなかったらいい。もしそうだとしたら耐えられないと思った。
宮瀬が鏡の写真を撮るために通うようになってはや数週間が経った。
宮瀬は来るたびに小部屋に籠るし、私は眺めていたりいなかったりする。昼ごはんは四回に一回は饅頭じゃなくなったし、食べたいものをリクエストしてくることもあった。わんこなくせして、気まぐれな猫みたいな言動。
それでいいと思った。宮瀬は宮瀬の思う通りしていてくれれば、それで。今は鏡がうちにあるからこのよくわからない関係は続いているけど、それもいつかは終わる。それが、満足した写真を撮り終えたからなのか、飽きたという理由なのかは、さっぱりわからないけれど。宮瀬は鏡とその担当の境界守のことなんか忘れるだろうし、好きな子ときっとうまくいくだろう。鏡のことを覚えていたとしても、私のことは忘れる。彼女が塗り替える。それが気楽で、それでよかった。
ある日の朝、宮瀬はチョコレートを持って訪ねてきた。冬真っ只中の、ダウンが重宝される時期のことだった。ぐるぐると口のあたりまで巻かれたマフラーが、やわらかそうで、ちょこんと出た鼻の頭が赤かった。
雪がちらつきそうな天気で、カメラは濡れると困るからと背負ったリュックに入れていることを知っていた。
「これ、お礼です」
「お礼ってなんの?」
「今までいっぱい撮らせてもらったので。本当に、ありがとうございました」
「満足した?」
「はい」
もう、宮瀬はここに来ないのだろうと思った。
「満足しました。長いこと、ごはんもご馳走になって、場所と時間ももらって。だから、僕にできることが何かあれば」
「何か?」
「なんでもいいです。できることはたぶん、少ないと思いますが」
考えて、考えた。してほしいことは一つだったけれど、本当にそれでいいのか、なんてらしくないことを。
「上がって」
いつまでも外にいたら風邪をひくから。
そんな口実で家に引っ張り上げ、そのまま鏡の小部屋まで手を引いた。
「待ってて」
自分の部屋の隅に放置されていたものを引っ掴んで急いで戻る。
「写真を撮って欲しい」
被写体になりたかった。いつの間にか、特別になりたかった。
宮瀬に私が差し出したのは、コロンとしたフォルムのチェキで、宮瀬は抵抗なく受け取った。
「この部屋で、鏡と、後ろ姿でいいから」
「はい。それでよければ」
宮瀬を見送って、ふと玄関に置いたままだったチョコの紙袋を手に取る。赤のリボンにハートが所々散っている。
永遠に気がつかなくてよかったのに、バレンタインの包装になっていることに気がついてしまった。撮ってもらったチェキを抱きしめて、鏡の小部屋に駆け込んだ。サインはついぞ貰わないままで、友人に笑われるんだろうと思った。宮瀬が買ってきたレースの白い布をばさりと取り払って、鏡の前に座り込む。額を鏡面にこつりとつけて、目を瞑った。冷えた鏡面に片手を当てる。
何も、なんにも起こらない。これはただの鏡にすぎない。だから、当たり前。何度も言い続けた言葉がブーメランになって返ってくる。今日だけは、今だけは、異世界でもどこでも行きたかった。
