境界の恋③

ピンポン、とベルが鳴った。古い家なので、ピンポン、というよりは濁点付きの年季が入った音だったけど、いつものことだ。慣れてしまった。
 読んでいた雑誌をぱたんと閉じてソファのサイドテーブルに放る。着地に失敗した雑誌は背表紙を天に向けてばさりと広がった。
「はい」
「宮瀬です」
「開いてるから入って」
「あの」
「何か」
 女一人だけの家に勝手に入れません、とでも馬鹿げたことをいうのかと思ったけど違った。女一人でも、鏡がいるので、別に問題はないし、宮瀬は前うちに来たことあるし。好きな子に気を遣ってるならそれでもいいけど、なら来るな、と思う。
「今、手が塞がってて、ごめんなさい、開けてもらえませんか」
 少し考えて、合点がいく。そういえば、機材を持ってくるとかなんとか言ってたっけ。カメラの機材には詳しくはないが、両手が塞がるものだってあるんだろう、きっと。三脚でかいし、たぶん。
「ありがとうございます、助かりました」
 でかい図体をかがめて礼を言う宮瀬の頭を見ていた。身長差のせいで滅多に見れないつむじ。右回りか左回りか、どちらかが珍しいんだっけ。思い出しそうだったけど、まず私は左右の識別が苦手だったことに気づいてやめた。
「それはいいけど、何それ」
 おそらく機材、の入った黒いバック、に、もう一方の手には大きめの紙袋。割とぱんぱんに膨れていて、何入れてんだそれ、と呆れた。
 宮瀬の胸元では特等席、と言わんばかりのごついカメラが揺れている。
「布です」
「はぁ」
「鏡にかける布、なんでもいいって言ってたので、似合うの選んできました」
「はあ」
 物好きだな、と思う。そんなもので荷物を増やすくらいなら、好きな子にプレゼントの一つぐらい買っていってやればいい。今あるもので足りているものの代わりを持ってくる必要なんてどこにもない。
「好きにしたら」
「ありがとうございます」
 前と同じように鏡の元へと案内して、少し考えた。
「一人で平気?」
「はい!」
 元気のいい返事に本当に大丈夫なのか、と思いつつ、これ幸いと踵を返した。
「ドアは開けとくし、なんかあったら呼んで。たぶん、居間か台所にいる」
 あの、鏡に持っていかれないでくださいね。駆け出しとはいえあなたもプロでしょうけど、という言葉は飲み込んだ。
 そのときはそのときで、また考えればいい。
本部は文句を言うかもしれないが、ただ、またひとり、人間が消えるだけだ。それが、宮瀬だった、というだけのこと。広報誌に載るような、少しだけ有名人だった、というだけのこと。どうなるかなんて、正直鏡の機嫌しだいだ。今も、きっと昔も。
 
 雑誌をだらだらと眺めていると、いつの間にか正午をまわっていたことに気づいて立ち上がった。昼ごはん。冷凍うどんに麺つゆで味をつければいいだろう。簡単なものでも腹は膨れるし、生きていける。人間は食べなければ死ぬけれど、どんなものでも食べてさえいれば生きられるのだ。
 そういえば、忘れていたけれど、宮瀬もいたんだった。最初こそがさごそ、がたごとと音がしていたけれど、すぐに慣れて気にならなくなった。気にする労力が無駄だと思った。うんともすんとも言わなかったから、問題は生じてないんだろうけど、見に行って食われてたらさすがにちょっと嫌だな、と思った。寝覚め、そう寝覚めが悪い。
 たぶんこう感じるのは、さっきまで読んでいた雑誌の特集が宮瀬だったからだろう。あの後、友人が一冊の雑誌とスクラップブックを持ってまたすぐに押しかけてきた。宮瀬が載っているという雑誌と記事らしい。スクラップブック、それも割と厚いもの、を眺めながら、ガチ勢じゃないか、と溢すと、そうでもないけど、と返ってきた。嘘をつけ。貸してやる、と半ば押し付けられた雑誌類にため息をつき、でもまあ、好きなことやらの答え方は気になったので、見てみることにした。サインよろしく、とまた言い捨てていった友人ははたしてどこまで本気なんだろうか。
「宮瀬くん」
「どうしました?」
 開け放しておいた部屋のドアからひょいと中を覗く。半分冗談で考えていた食われている状態にはなっておらず、姿があったことにほっとする。真剣な顔をして鏡を見ていたものだから、邪魔するのはな、と思い、ついで、家主なのだから気を使う必要なんてないだろうと声をかけた。
 予想に反して、声をかけてすぐ宮瀬は振り向いた。
「もう昼だけど、ごはんどうする」
 さすがに歳下の男の子をお腹を空かせて放置するほど非情ではないし、簡単なものならば二人分くらいすぐに用意できる。そうでもできなきゃ家主の名が廃る。
「え、もう昼ですか」
 素っ頓狂な声をあげて宮瀬は首を傾げた。そういうところがわんこなんだ、と思いながら返事を待った。
「あー……、俺、食べもん一応あるんでお構いなく。ありがとうございます」
「そう」
 調整していた機材らしきものを置いて、荷物の中を探りはじめる宮瀬の後ろ姿を眺めていた。
「ななさん、ここの部屋って飲食禁止ですか?」
 飲食、飲食ねぇ。
「考えたことなかったけど、たぶん禁止。鏡がバグってもやだし、居間に来なよ」
 下手なことしてぱくりといかれても困る。人と過ごすのはあまり得意ではないが、ご飯の間ぐらいはいいだろう。
「なに、それ」
 居間のテーブルに案内すると宮瀬は持ってきていた袋とペットボトルを置いて座った。
「饅頭です」
 一度買って美味しかったからそれからずっとこれです、とパッケージを開けながら言う。
 菓子パンで有名なブランドのロゴがついた、白玉団子ほどの大きさのものが八個ほど入ったこし餡饅頭。思わず、足りる、それ、と言ってしまった。
「足りますよ。僕、少食なんで」
 だからひょろりとしてるんだろうな、と口からでかけて、黙る。さすがにそれは一食としては少ない。せいぜいおやつになるかどうか、というところだ。
 それでもたぶん、宮瀬は私が宮瀬に食事を用意することを望んでいないことぐらいわかったから、黙って自分の分のうどんを茹でていた。
 ああ、そうか、宮瀬はそういうやつなんだ。人当たりがいいわんこのように見えて、その実、本当の意味では人になつかない。鏡にしか、境界にしか興味がない。振られて仕舞えばいいのに。好きな子に告って、玉砕すればいい。そうして、境界を撮り続けて、いつか、飲み込まれて仕舞えばいい。私はその結末を記事で知って、やっぱりな、と笑うんだろう。
 あとにはカメラだけが残されていればいい。カメラだけが宮瀬がこの世界にいた証拠だなんて、素敵なことじゃあないか。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げて帰っていく宮瀬を見送る。鏡の小部屋の鍵を閉めに行くと、真新しい白が目に入った。白いレースの布。それが例の鏡にかけてあって、別物のようだった。前の布よりも長いのか、かけ方が違うのか、床にもレースの布は垂れていた。どこか、ウェディングベールのようで、華やかだ。
 やっぱり、宮瀬は境界にしか興味がない。
「サイン」と言う友人の顔を思い出して、サインもらうの忘れてたな、と思った。でもまあ、もう会うこともないだろうし。

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