境界の恋②
毎朝の習慣の一つが、鏡の小部屋の換気だ。自室から起き出して台所でやかんの乗ったコンロのつまみを捻る。その後、鏡の小部屋の一つしかない窓とドアを開け放つ。
ひんやりした朝の空気と一緒に、金木犀の甘いようなむせかえるような特徴的な香りがふわりと漂う。今年の開花はずいぶんと遅いようだった。冬はもうすぐそこだ。
いつもと変わり映えしない毎日のはずだったけれど、その日、鏡の小部屋には誰かの靴が落ちていた。
鏡にかけていたはずの布まで床に落ちていて、あーあ、と思う。あーあ。
靴は革靴で、私の足よりも二回りほど大きい。しかも、片っぽだけ。拾い上げようとして、臭いと嫌だな、と思い直した。どこの誰とも知れぬ他人の靴だもの。素手で触りたくない。とりあえず布をかけ直して、換気したまま台所に戻る。ゴミ袋用の袋がたしかあったはず。見つけたそれを裏返して手にはめる。そのまま鏡の小部屋に戻ってゴミ袋をはめた手で靴を掴んだ。靴を内側に包み込むようにくるりと裏返す。これでもう、靴は袋の中。
あーあ。
本当は、窓がいつもより軽く枠を滑った時点で薄々気づいていた。昨日の夜も、変わらず窓には鍵をかけた。ドアにも鍵をかけた。それなのに。
朝からやることが増えたな、と思いながら、「本部」にメールを入れた。幸い、今日は午後からの授業だったから、午前中はまだ時間がある。のんびりアマプラでも見ようと思ってたのにこういう日に限って面倒ごとが起きる。嫌がらせだろうか、と鏡を見やる。鏡はただの鏡の顔をして残念ながら変わらずそこにあった。
「で、またなの?」
「うん」
「あんたのとこのポンコツ鏡、いい加減どうにかしたらいいと思う」
できたら苦労しないよ、と思いながら数年来の友人兼現在の同僚に苦笑する。
「今日も本部に報告?」
「うん」
「そして、そのあと大学?」
「うん」
「あんたもよくやるよね。うちのとこは手鏡だから逸話もしょぼいし、持ち運びできるし、家に置けるし、大人しいし、ほんと楽よ。担当変えてもらえばいいのに」
「できない癖によく言う」
放課後、帰ると家に勝手に上がり込んでいた友人からの呑気な「おかえり」が飛んできた。どっと疲れた気がして、それでも、これは友人がいるといつもだから、疲れてはないな、と思い直して、荷物を置いた。
「今日はなんで来たの」
「用事がなきゃ来ちゃダメだって? なんてこと。あたしはあんたと喋ってあげにきたというのに、そんなこと言うのね、傷ついた、ほんと」
よよよ、と泣き崩れるように大げさな身振りで両手で顔を覆った友人に呆れた顔を隠さないで見やる。完全に茶番だった。
「いやまず私の家だしここ」
境界守になってから、一軒家の方が都合がよかろうと本部に古い一軒家に引っ越しを勧められた。学生の身で一軒家か、と思わなくもなかったけど、狭いよりは広い方がいいか、と住むことを決めた。鏡も運んでくれるって言ったし、家賃は光熱費くらいでいいって言ったし。親もいない。保護者だったひとも、もういなくなった。だから、ちょうどいい。
だから、持ち家ではないけど、私の家には変わりないのだ。毎度毎度勝手に上がり込んでいる友人の方がだいぶおかしい。なんで鍵を閉めているのに入れているのかわからない。嘘、本当は保護者だったひとが何かあったときを心配して本部に私のことを言付けていたのだ。だから、不本意ながら、本部の計らいで友人はこの家の合鍵をもっている。そして、しっかり悪用している。
境界守の条件に、留守時の侵入者は管轄外とする、という一文がある。正直侵入者の安全までは面倒見切れないと何代か前の境界守が本部に直談判したらしい。あと、見張ってても境界自身が勝手に持ってきたのはノーカウント。報告の義務はさすがにあるけれど。
今朝の靴は報告の義務がある案件だった。鏡が靴だけどっかから持ってきたのか、侵入者が落としていったのか、それとも誰かが鏡に食われたのかは知らないけど、「人食い鏡」の逸話持ちなのだからつまりはまあそういうことだろう。窓もゆるんでいたことだし。よくあることだ。
侵入者が全員食われる、ということでもないらしく、友人はいつもくつろいでいる。定位置は私のお気に入りのソファの上。食われて欲しいとまでは思わないが、なんか癪だ。
「で、何?」
「何が何?」
「いや、なんでうち来たの」
じとりと睨むとふふりと笑われた。そのまま、お茶、と台所を指差す。
むっとしたので、奥の手を使う。客じゃないやつに出すお茶はない。というか、勝手に来といて帰ってきたばかりの家主をこき使うな。
「鏡持ってこようか?」
重いけど、頑張れば持ってこれないこともない。たぶん。
「それは勘弁」
友人はぼろくそに言っておきながらも私の担当の鏡が苦手らしかった。眉間にしわを寄せてべえ、と舌を出す。
「まいどほんと懲りないよね」
あんな鏡に。
「だってあんた、あれ」
友人は無意識なのかほんの少し声を潜めた。
「ん?」
「あんな活火山関わろうとする方がどうかしてんのよ」
嫌そうに首を振る友人に乾いた笑みが漏れた。なんでいちいち身振り手振りが大きいんだろう。芝居を見ている気分になる。
「現在進行形で担当の私にそれ言う?」
「あんたは別でしょ」
「はいはい」
まったく、失礼な奴だ。
宮瀬にはああ言ったけど、私が、私たちが引き継ぎの時に教わったことは少しだけ違う。
「境界」とは、遠い昔、それとも最近、どこかへつながったというものたちのことを言うのだという。その中でも種類はいろいろあって、私の担当の鏡は割とヤバいやつ。今もなおどこかにつながり続けているとかいないとか。とりあえず本体の鏡自体は部屋からちゃんと動かないから、私が担当する分にはたいして苦労はないが、本部曰く「活火山みたいなもの」らしい。いつ噴火するかわからない。不確定要素増し増し。
だから、一ヶ月に一回くらい報告案件が起こる。気づかないうちに何かやらかされているものも合わせたら、たぶん、もっと。やらかすなら物的証拠を残さないでほしい。今回みたいにものが残されていると身元の洗い出しやら届け出やらでいろいろと面倒くさい。
「ああ、そうそう。あんたんとこ、ここにカメラマン来たんだって?」
友人は大きな目を輝かせて食い気味に聞いてきた。勢いで綺麗に巻かれている髪の毛がぶわりと揺れる。いささか話題転換が雑な気もするが、まあそれはいいだろう。
「あ、うん」
「あの宮瀬クン、でしょう。いいなぁ。いいかは置いといて生で見たかったなぁ」
「なに、知り合いか何か?」
脳内であのひょろりとした男の横に友人を置いてみる。友人は私よりもずっとおしゃれで、髪も金で、服も爪も派手だから、割と違和感がなかった。
「なわけ。え、逆に知らないの?」
つり目に見せている目をまんまるにして友人は信じられない、と言う。
「あの、本部が出してる雑誌の表紙になってたし、特集も組まれてた宮瀬クンよ? オシャレで、背が高くて、イケメンって割と話題。それからもいくつも小さな記事出されてるし、一部ではアイドル扱い。どうせ、本部は境界について興味を持ってくれて広めてくれる役割の最近の若い子がいるのが嬉しいだけなんでしょうけど、供給が多いのはいいことよね」
「はあ」
「それを? あんたは? 歳と職業だけ聞いて撮らせてバイバイするつもりだったって? もったいない。有名人のくくりには今のところいるんだから、サインでも貰っときゃよかったのに。本人がどう思うかは別として、あたしにも貰ってくれればいい。いつか高く売れるかもしれないし、有名人のつながり、あって損はない」
正確には、名前も聞くには聞いたんだけれど、そういうことではないっぽいので黙っていた。
「わんこみたいではあったけど、あれってイケメン?」
イケメンより変人。変わり者のイメージが強かった。光にこだわって、わざわざ出直す行動力はあるくせに、なんにも知らないちぐはぐさ。クリエイターってみんなあんなんなんだろうか。
「わんこ! いいわねその属性。それはそれとして顔は整ってる部類に入るでしょうねぇ、そりゃあ彼女いるはずだわ」
キラキラの爪が目立つ両手をぱちりと合わせながら友人は言う。
「彼女いるんだ」
「正確には彼女じゃないかもだけど、気になる子はいるって前答えてたわよ。なんかね、ボブで、芯が通っていて、可愛い子なんだって」
なんてこと答えさせてるんだ、本部。答えてるあいつもあいつだけれども。
友人は宮瀬について語るだけ語って嵐のように去っていった。
最後に言い残したのは「サインお願い」と「仲良くやんなよ」だった。サインはともかく、仲良くなんて無理だろうけれど。
鏡を見たときの宮瀬のうっとりとした表情を思い出す。基本的ぼんやりとしか人の顔を覚えない私が唯一印象的に感じたあの顔。恍惚とした、魅せられた顔。私の嫌いな顔。
私は仲良くなんてできないし、宮瀬も鏡にしか興味がないだろうから。気になってる子と「仲良く」しとけばいい。
