見出し画像

高校の探究学習、「自己の在り方・生き方」は本当に実装されているか

はじめに:AIに聞いてみて、気づいたこと

総合学習から総合探究に変わって、大きく位置づけが変わったのが「自己の在り方・生き方を考えながら」という視点です。それでは全国の高校の探究カリキュラムで、それにあたる授業がどれくらい普及しているのでしょうか。生成AIに関係文章などを探してもらい「日本の高校の探究学習で、自己の在り方・生き方に関わる教材やカリキュラムはどれほど実装されているか」を調べて読み込ませてみました。それを分析すると、「自己の在り方・生き方」へのアプローチが大きく4つに分類できました。

①自己理解・リフレクション型(ライフチャート、自分史)
②ライフプラン・シミュレーション型(マネープラン、将来設計図)
③課題解決(PBL)型(地域課題解決、SDGs探究)
④社会参画・対話型(外部の大人との本音の対話)

全国的な普及度(推計)を見ると、①と③が多くの学校に根を張っています。②は金融教育の必修化に伴い広がりつつある。そして④は、「効果は高いが広がらない」と評価されています。さて、みなさんの近くの高校の授業はどのタイプが強いでしょうか。

この15年間④の授業を実施してきたわけですが、元々は探究以前の総合学習の時間として実施していることが多く、進路行事という位置付けがほとんどのケースでした。現在のように探究学習に切り替わり、④の位置付けに変更することを先生方に伝えていくなかで、④に位置付けられる授業の難しさを感じています。

それは、従来通り進路行事の位置付けであったり、数年経っても単発で終わっていたり、担当の先生が異動するとすっと消えてしまったり。そういう経緯を何度も見てきたのです。だからこそ、この問いを立てたくなったのだと思います。

「総合的な探究の時間」が本来めざしたもの

2022年度から高等学校で本格実施となった「総合的な探究の時間」は、旧「総合的な学習の時間」から何が変わったのか。学習指導要領の文言を見ると、核心はひと言に集約されます。

「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し、解決していく」

旧来の学習では、課題があってそこに生徒が向き合う構造でした。新しい探究では、課題と自己が「一体的で不可分」であることが求められています。生徒自身の存在が、探究の出発点に置かれているのです。

この変化は、文字で読むと小さく見えます。しかし、実際のカリキュラム設計に落とし込もうとすると、これがかなり難しい。「課題を見つけなさい」は指示できても、「あなた自身の在り方・生き方と不可分な課題を見つけなさい」は、そう簡単には指示できないのです。どうしても、地域課題やSDGsのような「社会的に正しいテーマ」に生徒を誘導してしまいがちになる。そこで探究のプロセスは回るかもしれないけれど、「なぜ自分がこれをやるのか」という問いは、どこかに置き去りにされてしまう。

カタリバが2023年に全国の高校教員340名を対象に行った調査では、探究推進担当の92%が「課題を感じている」と答えています。その課題のトップ3は「カリキュラムの設計が難しい」「調べ学習で終わってしまう」「校内で理解が広がらない」。「調べ学習で終わる」という声は、探究が本来めざしていた場所—自己の在り方・生き方への接続—に、まだ届いていないことを如実に示しているのではないでしょうか。

重ねては、以前記述した記事を参照ください。

①〜③が届かない、たった一つの場所

①②③の実践には、それぞれ価値があります。自己理解・リフレクション型は、過去の経験を言語化し、自分の軸を探す作業として有効です。ライフプラン型は、将来の社会的現実と向き合う機会を与えます。課題解決型は、行動力と協働力を育てます。

しかし、これらに共通して届きにくい場所があります。それは、「他者と本音の対話を通じた、自己変容の体験」です。

①では、ある程度の振り返りができたとしても、「自分だけの思い込み」を超えたり「行動変化の起点」に到達したりするのはなかなか難しい。他者の目があってはじめて、自分の枠が揺さぶられます。②では、統計データや標準的な人生モデルに沿って未来を描くため、「平均的な人生」に収束しやすい。自分だけの問いではなく、用意された枠に自分を当てはめる作業になりがちです。また、経済合理性の枠で人生を捉えがちになるという落とし穴もあります。③では、課題解決のプロセスに熱中するあまり、「なぜ自分がこの課題に関わるのか」という問いが薄れていく。成果物の完成が目的になり、探究の発火点が失われていく。

これは①②③が「悪い」ということではない。むしろ、それぞれが探究の重要な要素を担っています。問題は、これらが個別に実施されているだけでは、学習指導要領が求めた「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題の発見」に、なかなか届かないということです。もっと正確に言えば、届く生徒もいるけれど、届かない生徒の方がずっと多い、という実感が私にはあります。

文部科学省の教育課程部会は2025年10月、「生成AIが急速に発展し、自己の考えや意思が一層重要になる時代に向け、他者との対話が一層大切になる」と明示しました。これは制度の側が、探究における「対話」の不足をすでに課題として認識していることを意味します。では、④の対話型が補うものは何か。三つに整理できます。

「安全な他者」

親でも教師でもない、少し年上の先輩や社会人との対話は、評価されない場を生み出します。その場でしか出てこない言葉があります。「実は将来のことが全然わからなくて」「やりたいことなんてない」——これらは教室の中では言えない本音です。この本音が出た瞬間に、探究が始まります。

「リアルな生き方の物語」

統計上の「平均的な人生」ではなく、目の前の人が歩んできた具体的な軌跡が、生徒の自己と照合されます。「この人も迷いながら選んできた」という事実は、自分の迷いを肯定する根拠になります。「自分だけじゃないんだ」「自分にもできるかも」という具体的な希望は、データからは生まれません。

ロールモデルに求められるのは「成功した人の物語」ではありません。むしろ逆で、迷い、失敗し、それでも選び続けてきた人の物語の方が、生徒の心には響く。完璧な人の話を聞いても「自分には無理だ」となりやすいけれど、失敗もしてきた等身大の先輩の話は「自分もやれるかもしれない」という回路を開きます。

「内発的動機の点火」

 探究の最大の課題は「やらされ感」です。①〜③がいくら整っていても、生徒が「自分ごと」として探究に向き合えなければ、それは高度な作業学習に過ぎません。対話の中で「自分が本当に気になっていること」に気づいた生徒は、①の自己理解も②のライフプランも③の課題解決も、別の重みで引き受け始めます。④は①〜③を否定するのではなく、①〜③を「活きた学び」にするための火付け役です。

AI時代が問い直す、探究の核心

ここで、時代の変化がこの問いをさらに鋭くします。

生成AIは、情報収集・整理・仮説立案・課題解決の提案を急速に補完できるようになっています。「調べてまとめる」という作業の多くは、AIと協働すれば大幅に効率化できます。②のライフプランのシミュレーションも、AIが精緻にサポートできる時代が来ています。つまり、①②③の中核的な作業の多くは、AIが代替・補完できる方向に進んでいます。すでに自動で動くようなことも起き始めています。

だとすれば、学校でしかできない探究とは何か。答えはシンプルです。「自分の在り方・生き方を、他者との対話の中で問い直す体験」です。これはAIには代替できません。他者の目を借りてはじめて見える自分の枠。目の前の人の物語が揺さぶる、自分の固定観念。本音を語る中で浮かび上がる、自分が本当に大切にしていること。これらは、テキスト処理でも情報検索でも生み出せない、人間同士の間にしか起きない現象です。

とはいえ、技術の進歩はさらにそれを凌駕しつつあります。生成AIとのやりとりで本音を引き出され、寄り添われたと感じる体験をした人も、すでに増えてきている。そうした経験も踏まえて考えると、やはり3点の違いが残ります。①フェイクではなく、実際に起きた生の体験を聞くことに価値がある。②そもそも生成AIと対話しようと思っていない生徒は置き去りになる。③模範解答ではない個性的な視点・価値観に触れることの意味。人にはそれぞれの個性があり、「自分の個性とは何か」を問う場では、生成AIにはやはり限界がありそうです。

AIが課題解決を担う時代だからこそ、学校での探究は「自己の在り方・生き方を問う場」として再定義される必要があります。学習指導要領が2022年に示した方向性は、図らずも、AI時代の到来によって理論的な正当性を増してきたといえるでしょう。

対話型学習を「選ぶ」ということ

④の対話型実践は「特別なもの」ではないということです。外部の大人を一人招いて、生徒と30分の対話を設けるだけでも、その場は変わります。地域のNPOや企業の社員、卒業生—誰でもいい。「評価しない大人」が「自分の話をする」という場が設けられれば、それは対話型実践の入口です。

「ともしび」をはじめ、こうした対話型プログラムを提供している団体はあります。大切なのは「実施すること」ではなく、「なぜ実施するのか」という設計の意図です。④をやれば探究が深まる、というものではありません。「この対話体験を経た生徒に、次の①②③でどんな問いを立てさせたいか」という文脈の中に④を置いてはじめて、探究のサイクルが動き始めます。

カタリバが2024年に行った調査では、「コーディネーターを配置し、学校風土の醸成に取り組んでいる学校ほど教員の課題感が低く、探究が進みやすい」という傾向が示されました。対話型を持続させるには、外部との接点を維持するコーディネーターの存在が鍵です。一人の熱量ある教員だけに依存しない体制をつくることが、長期的な継続を可能にします。

④の中でも最も効果が大きいと考えているのが「ともしび」の授業です。他ではなかなかできない特徴が3つあります。(※ 旧名称は「カタリ場」)

一つ目は、訪問者の数の多さです。 生徒3〜4人に対して訪問者が1人つく高い比率で構成されます。大きな規模では100名ほどを組織し、300名の生徒に対して授業を行ったこともあります。
二つ目は、年齢の近い大学生で構成されていることです。 世代が近いと原体験も近い。そのリアリティの質が、対話の深さを担保します。
三つ目は、積み重ねられた研修と経験です。 初めて参加する大学生には9時間の研修を課しています。他校での実践経験を次の高校に活かすサイクルもうまく機能しており、組織としての対話力が継続的に高まっています。

おわりに:「火」を灯すことの意味

探究学習に取り組んで3年が経ち、「なんとなくやっている感じ」が出てきたとしたら、それは探究が形骸化しているサインです。

生徒が調べ、発表し、まとめる。その作業の中で何かを学んでいるとしても、それが「自分の在り方・生き方」と接続していないとすれば、学習指導要領が本来求めた探究の核心には届いていません。①②③の実践は間違いなく価値があります。しかしその手前で、生徒の内側から「問い」が湧き上がる瞬間をつくらなければ、探究は「こなされていく作業」になり続けます。

その瞬間を生み出すために、他者との対話がある。リアルな生き方の物語との出会いがある。評価されない場で本音が語られる時間がある。AIが多くの「作業」を代替していく時代に、人間同士の対話がつくる場の価値は、むしろ高まっています。探究の時間に「火」を灯すこと—それは、①〜③を捨てることではなく、①〜③が本当に活きる土壌をつくることです。

正直に言えば、この問いに対する「完全な答え」を、私自身もまだ持っていません。「ともしび」の授業も100%効いているとは思いませんし、なかには生徒との対話の失敗事例もあります。それは今後も現場を通じて、先生方と試行錯誤しながら、少しずつ答えに近づいていくしかありません。それは、対話を中心に据えた探究の可能性を見せつけられる場面に多く出会うからです。

対話型の実践を、ぜひ一度、探究の設計の中に位置づけてみてください。


参考;
カタリバ調査「探究学習の推進における課題調査」(2023年, n=340)
文部科学省教育課程部会「総合的な学習・探究の時間に関する現状・課題と検討事項」(2025年10月)
矢野経済研究所「探究学習支援マーケット」(2024年)

#創作大賞2026 #ビジネス部門

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集