【シロクマ文芸部】旅立ちの夜、風光る
風が吹くと葉が光る樹があるという。
ある立春の夜、凪斗は先生に連れられて公園の樹を見に行った。見上げるほど大きい樹だ。
この樹はホタルヤドリ。この地域にしかいない特殊なバクテリアがつくる物質を根から吸い上げ、葉で光合成を経て代謝され、発光タンパク質となって葉に蓄積されるのである。
風が吹くとこの発光タンパク質が分解され、光を放つ。
「春先の葉が青い時期だと綺麗に見える。一緒に見るのはこれで最初で最後になるわね」
先生は言った。春とはいえ夜は冷える。先生は山吹色の薄手のカーディガンを着て、こちらにカイロを差し出した。凪斗は断った。
「ほら、風が吹く」
柔らかく、しかし微かに冷たい風が頬を撫で、ホタルヤドリの枝葉をカサカサと揺らした。
青緑の光の粒が葉の上で揺れている。田んぼの上を風が通り過ぎるように、湖面を風が撫でるように、風の形が可視化されている。
枝の先から幹の方へ、やがて全体が青緑に光る。暗闇に浮かぶ光の粒が葉の立体像を作り、風が凪ぐとともに薄れていく。
「綺麗ですね」
凪斗は言った。先生は——
「そうね。先生もこれが好き」と言った。
「……この光は夜行性の虫を引き寄せるための光なの」
先生は闇に還った樹を見つめて言った。
「虫を引き寄せることで樹は虫に餌場を提供。餌場として定着すれば花が咲いた後花粉を拡散してもらえる。虫を餌とする鳥が定着すれば、果実を食べさせてより遠くに種子を運んでもらえる」
つまり、この樹が光るのは花粉や種を運ばせる生存戦略なのだ。この樹は、他の土地に命を運ぼうとしている。そのための光だ。
「先生は、もうこの街に戻って着ないんですか?」
「ううん、でも、この街は好きじゃないかな」
風が凪ぎ、どこかでフクロウが鳴いている。凪斗は胸の内に穴が空くのを感じる。
「凪斗くんのことは好きだよ」
こちらを見て先生が微笑む。一つ結びの黒い髪は、初めて会った時よりやや荒れている。
どこかでバチッと弾ける音がした。誘蛾灯に吸い込まれた虫が焦げて地に落ちている。
「じゃあ、僕が大人になったら先生に会えますか?」
凪斗は思い切って尋ねた。
「もちろん」
先生は微笑んでくれたが、凪斗の心は晴れなかった。先生がこの街を出ていくのは、相応の理由があるのだ。それは仕方なくて、凪斗には止めようがないものだ。
それが、悔しかった。
行かないでほしいと思う自分の未熟、先生を引き留められない非力。何もかもが凪斗には足りていない。なんと小さな存在か。凪斗は拳を握った。
「風が強くなってきたね。そろそろ帰ろっか」
先生が言った。いやだ、帰りたくない。もっと先生と一緒にいたい。だがどうせ叶わない。振り返る先生に続くように、凪斗も一歩踏み出したその時——。
「……先生」
強い風が吹いた。春を告げるような温かく、しかし心強い風。ホタルヤドリを強く揺らし、カサカサと乾いた音が夜闇に満ちる。
「……すごい」
ホタルヤドリのほぼ全ての葉が光っていた。樹の輪郭どころか、葉の一枚に至るまで明確にその形が分かるほどに、青緑の光の粒で満たされていた。葉が散ればまるで光の蝶が舞うようで、風が落ちた葉を掬い上げて光の絨毯を作る。
その強い風は厳しさと、その裏にある春の暖かさを含んでいた。これは先生の旅立ちを彩り風光るとともに、凪斗が生涯目指し続ける美しき精神性の象徴となった。
この二人の再会は、風のみぞ知る。
