相談支援専門員の日々 母の想い① 医療的ケア児
制度なき時代。孤独な母親が背負った戦い。
私がまだ新人相談員だった頃。足取り重く、あるご家庭へと向かった日のことは、今でも鮮明に覚えています。
まだ「医療的ケア児」という言葉すら世間に認知されておらず、彼らを支える制度も社会資源も、ほとんど存在しなかった2010年のことでした。
ベテラン相談員の先輩と、地区担当の行政職員とともに訪れたその家は、とてもおしゃれで素敵な一軒家でした。
「いらっしゃーい!どうぞ上がってください」
玄関を開けると、明るく元気な声。笑顔で私たちを出迎えてくれたのは、想像とは裏腹に、とても快活でバイタリティに溢れるお母さんでした。
階段の先の機械音と、1歳になったDくん
案内されるまま、2階の部屋へ上がる階段を上っていくと、部屋の奥から「ゼーコ、ゼーコ」という人工呼吸器の規則正しい機械音が聞こえてきました。
今回の対象児童である、1歳になったばかりの長男・Dくんです。
気管切開の手術を受け、首元にはカニューレ(管)が入り、人工呼吸器に繋がれています。
お母さんは私たちと明るく会話を交わしながら、「どうぞどうぞ」とテーブルに案内して、手際よくタンの吸引を始めました。
ズーズーという音とともに、
「はい、うまくとれましたー。どうですか、Dくん」
と、我が子に優しく、満面の笑みで声をかけます。どこからどう見ても、愛情に溢れた「すてきなお母さん」の姿でした。
Dくんは、超低出生体重児の早産で生まれました。重度の障害を抱え、生まれてすぐにNICUへ、そしてGCUへと移され、1年もの長期にわたって入院生活を送っていました。
【解説:NICUとGCUとは?】NICU(新生児集中治療室): 早産児や低出生体重児、重い病気を持つ赤ちゃんに対し、24時間体制で高度な医療と命の管理を行う集中治療室です。GCU(継続保育室): NICUで急性期を乗り越え、状態が安定してきた赤ちゃんが、自宅への退院に向けて引き続きケアを受けながら成長を促すための病棟です。小さな身体でこの2つの病棟で「1年間」を過ごすということは、本人にとっても、毎日通い続ける家族にとっても、想像を絶する壮絶な闘いです。
「1人で3人分」を背負う、完璧な母親の限界
この家の家族構成は5人。ご両親と、お姉ちゃん、Dくん、そして、生まれたばかりの次男です。
今回、私たちに寄せられた相談の目的は、「自宅でタン吸引をしてくれる福祉サービスが使えないか」というものでした。
Dくんは、「20分に1回」のペースでタン吸引が必要な状態でした。常にそばについていなければ、すぐにチアノーゼ(酸欠状態)を起こし、命に関わります。お母さんは、夜もまともに眠れるはずがありません。
その過酷な命のケアに加え、お姉ちゃんと、生まれたばかりの次男の育児、さらには家事のすべてをこなさなければならないのです。
しかも、このお母さんは誰もが知る有名企業に勤める、優秀なキャリアの持ち主でした。
彼女は今、この家の中で「1人で3人分以上」の価値と重責を、たった一人で背負い込んでいたのです。
「出来ない理由」と、崩れ落ちた仮面
しかし、同席した行政職員の表情は険しいままでした。
無理もありません。当時の法律と制度の壁が、あまりにも高すぎたからです。
【解説:2010年当時の「タン吸引」と「医療的ケア児」の壁】現在でこそ、研修を受けた介護士(ヘルパー)によるタン吸引が認められ(2012年法改正)、「医療的ケア児支援法」(2021年施行)によって国や自治体の支援体制が義務付けられています。しかし2010年当時は、タン吸引は「医師と看護師にしか許されない絶対的な医療行為」でした。訪問看護を利用しても、来てくれるのは1日24時間のうち、わずか1時間程度。残りの23時間は、どれほど過酷でも「家族(母親)がやるしかない」という、完全な孤立無援の時代だったのです。
行政の立場として、嘘はつけません。行政職員は、タン吸引ができる福祉サービスについて正確に事実を伝えました。
「現在の制度では、ヘルパーが吸引を行うことは法律でできません」
「行政として提供できるサービスには、限界があります」
出来ないという話が続いた、その時でした。
突然、お母さんの表情が歪み、大粒の涙が溢れ出しました。歯を食いしばって言葉を
「……私たちに、死ねというのですか!」
先ほどまでの明るく快活な笑顔は跡形もなく消え去り、そこにあったのは、限界を超えてボロボロになった一人の女性の、魂の叫びでした。
彼女は、強い母親を「演じなければ」、この過酷な状況を1秒たりとも維持できない精神状態にあったのです。
退院した病院のケースワーカーからは、事前に「病院といろいろと話し合いをして退院していった。準備ができて…の退院では…」という言葉を選びながらの情報が入っていました。だからこそ私たちも、言葉には細心の注意を払って訪問したつもりでした。
しかし、ダムが決壊したかのように、お母さんの感情は一気に溢れ出しました。
理不尽な制度のこと。誰にも助けてもらえない現実の苦しさ。病院への不信。周囲からの心ない声。そして、大切な家族と手放したくない自分の仕事のこと。
さまざまな葛藤と感情を抱え込みながら、それでも彼女は「退院」を選び、愛する我が子たちのために1人で3役をこなす覚悟を決めて、そして今、限界を迎えていたのです。
武器を持たずに戦場へ行く無力さ、そして雪
当時の私たちは、あまりにも無力でした。
何の武器も薬も持たずに、過酷な現実という最前線で戦っている母親のもとへ行き、ただ「できない理由」を並べることしかできない。
行政の職員も、なんとか支援の糸口を見つけようと必死に聞き取りをしていましたが、「将来の展望」や「少し先の希望」など、明日の命を繋ぐのに必死な母親の心には全く響きません。
何の役にも立たない私たちに対して、彼女が苛立ちや怒りをぶつけるのは、あまりにも当然のことでした。
気がつけば、面談開始から2時間が経過していました。
その間にも、Dくんのアラームが鳴るたび、お母さんは話を中断し、5回、6回と慣れた手つきでタン吸引を繰り返しました。その過酷な反復行動を目の当たりにするたび、私たちはただただ、彼女の凄絶な姿に深い敬意を抱くしかありませんでした。
「今日はこれで失礼します」と頭を下げ、家を出ました。
外に出ると、春先なのにいつの間にか冷たい雪が降り始めていました。
新人だった私、ベテランの先輩、そして行政職員。舞い散る雪の中を無言で歩く私たちの背中には、それぞれがあの部屋から持ち帰った、あまりにも重く、途方もない「大きな宿題」がのしかかっていたのです。
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