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水位 第一話 : 記録する男


「今日は、何も起こらなかった」

彼は、そう書いた。

けれど——
なぜか、その一行を書かなかった日は、
少しだけ落ち着かなかった。

彼が記録を始めた理由を、
正確に説明できる人はいない。

——ただ、その習慣が
彼の人生を少しずつ変えていったことだけは確かだった。

本人ですら、
「いつからか、そうしていた」としか言わなかった。

ノートは特別なものではなかった。
表紙は地味で、紙質も普通。
書かれているのは、
天気、仕事、会った人、移動した距離、
そして一言か二言の感想。

たとえば――
「雨。遅刻。思ったより怒られなかった」
それだけの日もある。

それでも彼は、
その一行を書かずにはいられなかった。

理由は単純で、
書かなかった日は、どこか落ち着かなかったからだ。



彼は自分を
「几帳面な人間だ」と思ったことはない。

約束を忘れることもあるし、
机の上も整理整頓とは言い難い。

なのに、
日付だけは欠かさず書いた。

書き終えたあと、
ページを見返すことはほとんどない。
未来の自分が読むかもしれない、
それくらいの距離感だった。



ある日、
子どものころの記憶がふと浮かんだ。

小学三年の夏だったと思う。
家の押し入れで、
母の古い日記を偶然見つけた。

中身は覚えていない。
どんな字だったのかも、
どんな出来事が書かれていたのかも。

ただ一つだけ、
はっきり残っている感覚がある。

「人は、こんなふうに
何もない一日を、ちゃんと残すんだ」

それが、
少し不思議で、
少し安心できた。



彼は今でも、
大きな出来事より、
「何も起こらなかった日」を大事にしている。

成功も失敗も、
時間が経てば形を変える。

けれど、
何も起こらなかった日だけは、
後から取り戻せない。

だから、書く。

評価を下すためではなく、
意味づけをするためでもなく。

ただ、
水位を測るように。

今日は、
どれくらい満ちていたか。
どれくらい引いていたか。

ただ、それだけを確かめるために。



夜、ノートを閉じると、
彼はいつも同じことを思う。

明日、
今日より少しだけ
流れやすくなっていればいい。

形を決めなくていい。
速くなくていい。
正解でなくていい。

ただ、
どこかへ向かって
静かに流れていれば。

それで十分だと、
彼は知っていた。


けれど

——その“水位”が、
大きく揺れる日が来ることを、まだ知らなかった。



▶ 第ニ話「選ばされる男」

静かだった日常に、
少しずつ変化が訪れる。

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👉もしよければ、こちらも置いておきます。

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