【#創作大賞2024】蒼に溶ける 終 章
「――純江伯母さんは、本当にそれでいいんですか?」
結依の問いに、純江は穏やかな表情で頷いた。
「私一人で決められることじゃないけど、本音を言うなら、私はもうこのままそっとしておいて欲しい。確かに母の命と、私たち家族の生活を奪った犯人を憎む気持ちは今も変わらない。でももうあの事件から50年以上が経ったわ。父も、そして沙和子もいなくなって、残っているのはもう私だけになった。また世間の好奇の目に晒されたくはない。そしてもうひとつ、あなたや大樹くんの生活も、間違いなく影響を受ける。それは私も沙和子も、絶対に望まないことだから」
「それは間違いないでしょうね。下手をするとお二人とも、まともな生活を送れなくなるかもしれない。いや、その確率の方がはるかに高いでしょう。マスコミやSNSの怖さはよくご存じのはずです」
二人の脇に立っていた岡崎が、遠慮がちに口を挟む。
結依は黙ったまま、遠く水平線を眺めた。ここが母・沙和子の育った富山の海かと思うと、つい会話から外れてじっと見入ってしまうのだ。
あの途轍もない混沌の末に、再び岡崎とともに墓地へ戻った結依は、無事に母・沙和子の遺骨を手にすることができた。
元々結依は、母の故郷である富山の海へ、一人で散骨をするつもりでいた。だが純江という血を分けた肉親の存在を知った今、その純江とともに母を送ることは何より心強く、また安堵する思いだった。さらにそこへ岡崎が同行を申し出てくれたのである。
「これも御仏の結ばれたご縁と思って、沙和子さんの旅立ちを最後まで見届けさせていただけたら……」
内心ではやはりどこか不安が残っていた結依は、ありがたくその岡崎の真摯な厚意に甘えることにした。
散骨のための船が出るまでの時間、三人は初めて顔を合わせて言葉を交わした。だがどうしても話題が、あの墓地での忌まわしい出来事に集中するのはやむを得ない。何しろ今回と、そして50年以上前の事件の両方が、沙和子の夫であり、結依の父である晃雄を発端とするものだったからだ。
純江の心配は、何よりも結依の安全に集中していた。かつて我が家へ放火した挙句に母を奪い、実の妹を長年にわたって支配し、ついには姪にまで手をかけようとした晃雄を警戒するのは無理からぬことだった。
「今さら公にしたくないのは確かだけれど、あの人をこのままにしておいた場合、結依ちゃんのことが心配。気持ちの上でもそうだし……」
「――結依さんの身の安全という点でも」
純江と岡崎が顔を見合わせて頷き合う。
あの日駆けつけた警察は、あくまで墓地で奇行に及んでいた男性という扱いで晃雄を保護したに過ぎない。晃雄自身は様々な妄言を口走っていたが、それらはすべて錯乱した人間の根拠のない言葉として処理され、晃雄の幼少時の非道な行いに警察の目が向けられることはなかった。
結依への暴行もまた証拠がない。結依自身と目撃した岡崎が頑強に主張すれば警察も動かざるを得ないが、必ずしも晃雄の行為が立証できる保証はない。
「非常に憤る話ではありますが、晃雄さんの言うとおり、上が揉み消すという可能性もかなり高いでしょう。ちょっといい弁護士がつけば、簡単に覆されてしまう。ただでさえ日本の司法は、親が子供に加える暴力については甘い判断に流れる傾向にあるのですから」
岡崎の苦々しい言葉に、純江も強く頷いて同調した。
だが結依はわざと明るい声で答えた。
「あの人は今、病院で保護されてるみたいだから、当面は大丈夫だと思う。今のうちにお兄ちゃんと相談して、今後どうするかは決めていかないといけないけれど」
兄の大樹は、当初この途方もない現実を頭から拒否した。結依に加えて岡崎、そしてバーチャルの純江が束になって説明しても頑として聞く耳を持たなかったが、純江が録音していた現場の音声を聞いて、渋々ながらもようやく受け入れるに至ったのだ。
「お兄ちゃんは、それからずっと『俺は関係ない』路線まっしぐらって感じで。元々はお父さんがおかしくなり始めて、家の中が荒れ出した途端にさっさと見捨てて家を出ちゃったような人ですから。それこそ自分の立場が気になるのか、とにかく穏便に済ませたいっていうことしか頭にないみたい」
「となると晃雄さんは、このまま病院生活ですか……」
結依は、さあというように首を傾げた。
「その辺をこれから相談することになると思います。嫌味な言い方だけど父のお金はあるから、それできちんとした手が打てればいいなって。私はもう何も要らないんで」
「結依ちゃん、それはいずれ相続を放棄するってこと?」
「はい。それに戸籍も抜きます」
「戸籍を抜く!?」
純江と岡崎が揃って驚きの声を上げるのを見て、結依は照れたように笑った。
「最初は母に対する仕打ちについて怒ってたけど、とてもそんな単純な話じゃないです。言ってしまえば、それはあくまで家庭の中の話ですから。でも父が子供の頃にしたことは、それとは次元が違います。しかもこの先また、誰にどんな真似をするかも判らない。娘としてそれを防ぐ責任はあると思うから、そこまでの手は打ちます」
「それはそうかもしれませんが、それを結依さんが背負うというのは……」
結依はにこりと笑って首を振った。
「大丈夫です。兄はたぶん相続放棄しないと思うので、今後のことも含めて兄にもしっかり考えてもらわないと。でもその見通しが立ったら、私はもうこの鈴村の戸籍からは抜けようと思います。もっともそれをしても、法的に親子であることを辞められるわけではないですけれど」
日本では親子関係を法的に解消できる方法はほとんどない。とにかく物理的・精神的な距離を置くしかないのだ。
「それにしても、母の遺骨を何とかしたいっていう話が、まさかこんなことにまで繋がってるなんて思いもしなかったけど。お二人には本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした」
ぺこりと頭を下げた結依の肩が、かすかに震えている。純江は静かに結依へ歩み寄ると、その背に腕を回して優しく抱きしめた。
直接的な被害者は、晃雄の放火によって家族を奪われた純江かもしれないが、これまでの人生を根底から覆されたという意味では、結依も重大な被害者の一人と言っていい。まして錯乱しているとはいえ、実の親に手をかけられかけたのだ。
純江に抱きかかえられた結依は、恥ずかしそうに顔を上げると、ふと岡崎を振り返った。
「――そう言えば岡崎さんは、どうしてあの時墓地へ来てくださったんですか? 私があの日に行くと伝えたのは、純江伯母さんだけだったはずだけど」
岡崎は恥ずかしそうに坊主頭を撫でた。
「いや、僧職にありながらお恥ずかしい話なんですが……あの日の朝、地震があったのを覚えていますか?」
「ああ、はい、ありましたね。えーと、9時半頃だったかな? 震度2ぐらいだったと思うけど」
岡崎は頷いて言葉を続けた。
「幸い地震の被害はほとんどなかったんですけど、寺でお預かりしているたくさんの位牌の中で、なぜか一つだけ倒れたものがあったんです。それが鈴村家のお位牌で」
結依と純江は、揃って声を上げると笑顔を浮かべた。
「へえ、なんかいかにもっぽい」
「ふふ、沙和子が何か教えてくれたのかしらね」
だが岡崎は真面目な顔をして頷いた。
「結依さんはご存じだと思いますが、そのお位牌の中には、ご供養している方々のお名前を書いた竹札が入っております。そのお位牌が倒れた拍子に、なぜか沙和子さんの竹札だけが、中から大きく飛び出してまして……こういう仕事ですから、お告げだの祟りだのを気にし始めたらキリがないのですが、その時はどうにもこう……何か胸騒ぎのようなものを感じましてね。ひとまず空振りでもいいからと、着替えて車を飛ばした次第でして」
結依と純江は、互いに顔を見合わせた。やがて結依よりも早く、純江が深々と岡崎に頭を下げた。
「――ありがとうございました。岡崎さんのおかげで結依は無事でした。岡崎さんが向かって下さらなければ、今頃どうなっていましたことか……」
純江の言うとおりだった。
嫌でもあの時のことが結依の頭にくっきりと浮かぶ。激しい言い争いの挙句に自分を突き飛ばしたのも、倒れた結依の上にのしかかって容赦なく喉を締めにかかったのも、すべて実の父の手だったのだ。
ぶるりと体を震わせた結依を見て、純江と岡崎が慌てて両脇から結依を支えた。
「ごめんなさい、嫌なこと思い出させちゃったわね。もう大丈夫だから」
岡崎は手にした竹札を結依に差し出した。
「もしよろしければ、この札は結依さんがお持ちください。もう鈴村家のお位牌に入れておく必要もないでしょうから。きっとこれからも結依さんのお守りになってくれるでしょう」
頷いた結依が受け取ると、横から純江が覗き込んだ。
「『玲光院日泉信女』……これが沙和子の戒名なのね」
「日蓮宗では法号って言うんだって、純江伯母さん」
岡崎は破顔して頷いた。
「よく覚えてましたね。日蓮宗では法号をお付けする時に、原則として日蓮上人の日の字と、その方のお名前の一字を入れることが多いのですが、沙和子さんの場合はその……火が怖いと仰ったので、せめてその火を抑えるべく水を意味するものを、と……」
「ああ、だから泉なのね――綺麗な名前」
そっと目を拭った純江は岡崎に深々と頭を下げると、ふいに結依の方へ向き直った。
「本当はね。私、結依ちゃんはしばらくこっちに来たらどうかと思ってたの」
「え? 氷見にですか?」
「そう。もし東京で暮らすことに不安があるなら、ほとぼりが冷めるまでこっちで暮らしてみてもいいんじゃないかって。でもこうして結依ちゃんに会ってみて思ったわ。きっとあなたはこんなことで屈したりしないで、自分の力で人生を切り拓いていくんだろうなって。沙和子がいつも言ってたの。『あの子は本当に強いのよ。でも私は心配で仕方なくて』ってね」
結依は照れくさそうに頬を染めた。
「でも、たまには遊びに来ていいですか? 富山はこれまで一回も来たことなかったけど、海も山も綺麗でほんとに素敵なところ。正直、昨日ここへ着いた時は、一瞬こっちに移住しようかと心が動いちゃった。だってお魚がめちゃめちゃ美味しいんだもん!」
結依の屈託ない言葉に、純江と岡崎が声を上げて笑う。ようやく三人の顔に温かな笑みが戻ったようだった。
「もちろんよ、ぜひ来てちょうだい。私も楽しみができるわ。ちょっと遠くて申し訳ないけど」
「遠いと言えば、まさか岡崎さんが富山まで一緒に来てくれるなんて思わなかったから……でも母も喜ぶと思います。ありがとうございます」
唐突に話が自分へ及んだ岡崎は、恥ずかしそうにまた坊主頭を撫でた。
「まあ普通は、あんまりこんな遠出はしないんですが……やはり沙和子さんの、結果的には遺言のようになったことをお守りできなかったというのもありますし、その後のことも……」
ふいに口をつぐんだ岡崎が二人の背後へ目をやった。つられて結依と純江も振り返る。遠くから黒いスーツに身を包んだ男性が近づいてくるところだった。
「――鈴村佐和子様のご遺族様でいらっしゃいますか?」
どうやら出航の時間が来たようだ。結依が一歩前に出ると、男性は深々と頭を下げた。
「これよりご散骨へと向かいます。どうぞご乗船下さいませ」
この男性が儀式を取り仕切るのだろう。三人の先頭に立って、岸壁に係留された小さな白い船へと導いていく。
「どうぞ、お足元にご注意ください」
そういう男性の足許も、目立たない黒のワークシューズだ。時に波がデッキを洗う船の上での革靴は危険極まりないのだろう。結依も純江も事前の注意事項に従って、平服で滑りにくい靴を履いてきていた。岡崎は僧衣だが、その足許はやはり安全な靴を着用している。
袈裟にこの靴ではどうにも格好が取れんのですが、としきりに恐縮する岡崎に、結依と純江の口元が温かく綻んだ。
小型の遊覧船のような船は、波とエンジンの振動で小刻みに揺れている。男性の勧めるとおり、最初は中の個室で座っていないと船酔いしそうだった。
「――あ、動き出した」
座ったまま、窓から結依が外を覗く。船は岸を離れて沖へと走り始めた。
深く蒼い海がどこまでも続き、その遠く霞んだ先が次第に高い空へと変わっていく。
「お待たせしました。よろしければデッキの方へ」
揺れに足を取られながらそろそろと船室から出ると、遮るもののない海の上をうねりのある風が吹き抜けた。
「わあ、風つよっ!」
「結依ちゃん、袋に気をつけて」
結依は慌てて、母の遺骨が納められた手提げ袋をしっかりと握りしめた。
陸が見えないほどの沖へ出たところで、船がゆっくりと停止した。時折強い風が吹くものの、波の揺れは比較的穏やかだ。
「それではご散骨の儀式を始めさせていただきます。まずはご一同様、黙祷をお願いいたします――黙祷」
結依と純江、そして岡崎も、揃って海へ黙祷を捧げる。
やがて岡崎が前に進み出ると、手持ちの印金を厳かに鳴らした。その澄んだ金属音が波の上を蕭々と伝っていく。ひと呼吸おいて、岡崎の深く張りのある読経の声が波間に朗々と響き始めた。
「お母さん……お母さんの好きだった氷見の海だよ」
結依は手提げの中から小さな袋を取り出した。水溶性の袋の中に、細かくパウダー状に整えられた沙和子の遺骨が納められている。
男性の合図で、結依が海へ向かって袋を差し出した。脇からそっと純江が手を添える。
二人は頷きを交わすと、海へ向かって静かに袋を放した。花を添えた袋は、一瞬潮風に乗って宙に浮いたあと、かすかな飛沫を上げて海面へ落ちた。やがて波がその表面を洗うと、次第に袋が溶けて、白い粉が花びらと共に蒼い海に降る雪のように散っていくのが見える。
もはや拭おうともせず、結依の頬に幾筋もの涙の雫がつたった。その涙さえ、波間を走る風が、沙和子の眠らんとする海原へ吹き落としていく。
「ありがとう、お母さん」
そっと手を振る結依が見守る中、次第に蒼く染まっていく海雪は、舞い落ちるように深く深く溶けあいつつ、はるかな水底へと沈んでいった。
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