隣を歩く
~理解できない苦しみを前に、それでも人は寄り添えるのか~
午前4時13分、「死ぬかもしれません」――。優秀な企画者として活躍していた中途社員・青柳からの一本の電話が、課長・古川の日常を大きく揺るがす。診断名はパニック障害。しかし、目に見えず、人にも説明しづらい苦しみを前に、古川は何をすればよいのか分からない。一方、青柳もまた、自分自身に起きている変化を理解できずにいた。
本作は、病気と闘う本人の物語であると同時に、「支えたいのに支え方が分からない」上司や仲間たちの物語でもある。理解できない痛みの前で、人はどこまで寄り添えるのか。正解のない問いに向き合いながら、それぞれが迷い、傷つき、それでも歩み続ける姿を描いたヒューマンドラマ。働くすべての人に届けたい、“共に生きる”ことの意味を問いかける物語である。
プロローグ 午前4時の電話
午前4時13分。
枕元で震えるスマートフォンの音が、静まり返った寝室に響いた。
古川守 は薄く目を開けた。
会社員生活20年。
この時間の電話で良い知らせだったことは一度もない。
画面を見る。
青柳博
表示された名前を見て、一瞬だけ眉をひそめた。
こんな時間に電話をかけてくる男ではない。
反射的に通話ボタンを押した。
「もしもし、青柳?」
返事がない。
代わりに聞こえてきたのは、不規則な息遣いだった。
荒い。
異常なほど荒い。
風を吸い込もうとしているのに吸えないような音。
「青柳?」
数秒後。
ようやく声が聞こえた。
「か……課長……」
途切れ途切れだった。
まるで全力疾走した後のような息の上がり方だった。
「どうした?」
「すみません……すみません……」
「大丈夫か?」
「だ……大丈夫じゃ……」
そこで言葉が切れた。
そして再び荒い呼吸だけが続いた。
古川は一気に目が覚めた。
ただ事ではない。
脳梗塞か。
心筋梗塞か。
事故か。
何かの発作か。
頭の中に悪い想像だけが浮かぶ。
「今どこにいる!」
「家……です……」
「救急車は?」
「わからない……死ぬかも……」
その言葉に古川の心臓が強く脈打った。
死ぬ。
電話の向こうで部下がそう言った。
43年生きてきたが、部下からそんな言葉を聞いたことは一度もない。
「落ち着け。住所は変わってないな?」
「はい……」
「今から救急車を呼べ。」
「もう……呼びました……」
電話の向こうで、かすかにサイレンの音が聞こえた気がした。
青柳は何かを話そうとしていた。
しかし言葉にならない。
呼吸音だけが続く。
まるで溺れている人間のようだった。
古川は何度も声をかけた。
「大丈夫だ。」
「救急隊が来る。」
「俺も行く。」
何を言えばいいのか分からなかった。
ただ黙ることだけはしてはいけない気がした。
数分後。
救急隊員と思われる声が聞こえた。
そこで電話は切れた。
部屋は再び静かになった。
だがもう眠れるはずがない。
古川はベッドから起き上がった。
リビングへ向かい、冷蔵庫から水を取り出した。
しかし喉は乾いていなかった。
スマートフォンを握り締めたまま、窓の外を見る。
まだ夜だった。
街灯だけが道路を照らしている。
ふと青柳の顔が浮かんだ。
3年前。
中途採用面接で初めて会ったときのことを思い出す。
車両企画の経験。
先進的なアイデア。
市場を見る視点。
そして、人を巻き込む力。
久しぶりに現れた本物の即戦力だった。
入社後も期待を裏切らなかった。
チームは刺激を受けた。
若手は成長した。
顧客インタビューをすれば誰より深く聞き取り、企画書を書けば誰より早かった。
そんな男だった。
だが半年ほど前から、何かが変わり始めていた。
会議に遅れる。
返信が遅くなる。
資料の提出が間に合わない。
珍しいミスが増えた。
「疲れてるのか?」
そう聞くと、
「大丈夫です。」
青柳は必ず笑って答えた。
だから古川も、それ以上踏み込まなかった。
今思えば、その時点で何かが始まっていたのかもしれない。
スマートフォンが震えた。
午前5時2分。
病院からだった。
診察が終わったらしい。
古川は電話に出た。
医師から告げられた病名は、初めて聞くものだった。
パニック障害。
その言葉を聞いた瞬間のことを、古川は後になっても鮮明に覚えている。
正直に言えば、何の病気なのか分からなかった。
命に関わる病気なのか。
精神疾患なのか。
仕事は続けられるのか。
何をしてはいけないのか。
何をしてあげればいいのか。
何一つ分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
それは――
今日までのやり方では、もう青柳を支えられないということだった。
その時、古川はまだ知らない。
これから先二年間、
自分が何度も迷い、
何度も失敗し、
何度も答えのない問いと向き合うことになることを。
そして、
「理解できない苦しみを前にした時、人はどこまで相手と歩けるのか」
という、人生で最も難しい問いに向き合うことになることを。
窓の外では、東の空がわずかに明るくなり始めていた。
長い朝が始まろうとしていた。
第1章 失われる前の光
―期待の中途社員―
古川守が青柳博と初めて会ったのは、3年前の冬だった。
モビリティ内装企画部は慢性的な人手不足だった。
人手が足りないだけではない。
企画経験者が足りない。
市場を読み、顧客を観察し、コンセプトを言葉にし、周囲を巻き込みながら製品として形にしていく――そんな人材は育成に何年もかかる。
そんな中で始まった中途採用だった。
応募者は多かった。
しかし古川の記憶に残ったのは、面接会場へ入ってきた青柳博ただ一人だった。
34四歳。
穏やかな表情。
決して饒舌ではない。
だが問いを投げるたびに返ってくる答えが違った。
市場分析の話を聞けば、数字だけでなく顧客の生活が見えている。
商品企画の話を聞けば、技術だけでなく感情が語られる。
内装設計の話を聞けば、設計図だけでなく使用シーンが浮かぶ。
面接室を出た後、古川は選考メンバーへ言った。
「この人だな。」
誰も反対しなかった。
全員が同じことを感じていた。
久しぶりに本物が来た。
そんな感覚だった。
入社後、その期待は裏切られなかった。
青柳は驚くほど早く組織に溶け込んだ。
普通、中途社員は半年から1年ほど「様子を見る期間」がある。
人間関係を理解し、
会社特有の文化を学び、
業務プロセスを覚える。
だが青柳にはそれがなかった。
入社1か月で企画会議の中心にいた。
2か月後には若手の相談役になっていた。
半年後には複数の案件を同時に回しながら、社外とのネットワークを活かして新しいアイデアを持ち込んでいた。
周囲は彼を評価した。
若手は憧れた。
ベテランは一目置いた。
古川も助けられていた。
以前なら古川自身が抱え込んでいた企画案件を安心して任せられる。
いつしか古川は思うようになっていた。
――ようやく右腕が見つかった。
ある春の日。
チームで次期車種のアイデアレビューを行っていた。
会議室のホワイトボードには付箋が並んでいる。
「運転支援」
「ウェルビーイング」
「快適性向上」
ありきたりな言葉が並ぶ中、青柳が静かに発言した。
「それ、全部手段ですよね。」
部屋が静かになった。
若手の一人が首を傾げる。
「どういうことですか?」
青柳は立ち上がった。
ホワイトボードへ歩く。
そして一枚の付箋を手に取った。
「快適性向上って目的ですか?」
誰も答えない。
青柳は続けた。
「快適になった先に何があるんでしょう。」
そう言いながらペンを走らせる。
安心
疲労軽減
家族との会話
一人の時間
好きなことへの集中
文字が増えていく。
会議室の空気が変わる。
若手たちの表情が変わる。
古川はその様子を眺めていた。
企画者には二種類いる。
与えられた問いに答える人。
問いそのものを変える人。
青柳は後者だった。
会議終了後。
若手社員たちが青柳の席へ集まっていた。
企画書の相談。
インタビュー方法の相談。
市場調査の相談。
青柳は嫌な顔一つせず対応していた。
「青柳さんって、なんでそんなに引き出しあるんですか?」
ある若手が聞いた。
青柳は少し笑った。
「失敗が多かっただけだよ。」
周囲が笑う。
古川も遠くからそれを見ながら笑った。
組織は人によって変わる。
青柳が来てからチームの雰囲気は確実に良くなっていた。
しかし。
今振り返れば、その頃から兆候はあった。
本当に小さなものだった。
気付かなくても無理はない。
まず残業時間が長かった。
誰よりも早く出社し、
誰よりも遅く帰る。
だが業務量も多い。
能力も高い。
だから周囲はあまり気にしなかった。
むしろ、
「さすが青柳さん」
と言っていた。
ある日。
夜9時を過ぎた頃だった。
古川がオフィスを見回すと、まだ青柳の席だけに灯りがついていた。
大型モニターには企画書。
デスクには空になったコーヒーカップが3つ。
古川は声をかけた。
「まだ帰らないのか?」
青柳は画面から顔を上げた。
「あ、課長。」
その顔に疲れが見えた。
ほんの僅かだったが。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。」
青柳は笑った。
「楽しいんですよ。」
「楽しい?」
「この仕事。」
そう言って再び画面へ向き直る。
その背中はどこか誇らしげだった。
古川はそれ以上何も言わなかった。
仕事が好きな人間だった。
責任感も強い。
少し無理をしても乗り越えられるだろう。
そう思った。
夏頃になると、変化は少しずつ目に見える形になり始めた。
会議の開始時間に遅れる。
メールの返信が遅れる。
資料提出が締切を過ぎる。
どれも小さなことだった。
しかし青柳らしくなかった。
ある日。
定例会議が終わった後、古川は声をかけた。
「最近忙しいか?」
青柳は少し驚いた顔をした。
「そう見えます?」
「見えるな。」
数秒。
青柳は黙った。
そして笑った。
「まあ、ちょっと。」
「無理するなよ。」
「大丈夫です。」
また同じ言葉だった。
大丈夫です。
古川もそれ以上踏み込まなかった。
プライベートな事情もあるだろう。
家庭のこともあるだろう。
大人には大人の事情がある。
管理職だからといって全てに踏み込むべきではない。
そう考えていた。
後になって古川は何度も思い返すことになる。
あの時、
もっと話を聞いていれば。
あの時、
一緒に昼飯でも食べに行っていれば。
あの時、
大丈夫という言葉をそのまま信じなければ。
だが人間は未来を知らない。
だから日常はいつも静かに過ぎていく。
壊れる前触れなど、
たいてい誰にも分からない。
その年の秋。
青柳は大型企画案件のリーダーに任命された。
会議室で発表が行われた時、
チームから自然と拍手が起こった。
誰も異論はなかった。
適任だった。
実績もある。
信頼もある。
経験もある。
古川も誇らしかった。
青柳ならやれる。
そう信じていた。
そして青柳自身もまた、
やらなければならないと思っていた。
誰にも見えない場所で、
少しずつ心が悲鳴を上げ始めていたことに気付かないまま。
その半年後。
午前4時13分。
古川のスマートフォンが鳴る。
その一本の電話によって、
2人の人生は静かに変わり始めることになる。
第2章 見えない亀裂
―小さなサイン―
人は突然壊れるわけではない。
後から振り返れば、必ず兆候はある。
ただ、その時は誰もそれが兆候だと気付けない。
それが本当の怖さなのだと、古川守は後になって知ることになる。
青柳博が大型プロジェクトのリーダーに任命されてから1か月ほど経った頃だった。
オフィスの誰もが忙しかった。
次期モビリティのコンセプト検討。
競合調査。
ユーザーインタビュー。
役員レビュー。
毎週のように企画が動き続けていた。
その中心にいたのが青柳だった。
朝から晩まで会議が続き、
会議の合間に資料を作り、
社外との打ち合わせをこなし、
若手の相談にも乗る。
誰が見ても多忙だった。
しかし本人は弱音を吐かなかった。
むしろ楽しそうに見えた。
「青柳さん、本当に体力ありますよね。」
若手社員がそう言うと、
青柳は笑いながら返した。
「いや、最近はだいぶしんどいよ。」
その場にいた全員が冗談だと思った。
青柳はいつもそういう言い方をする。
だから誰も気に留めなかった。
異変に最初に気付いたのは古川だった。
月曜の朝。
9時からの企画レビュー。
参加者がそろう中、青柳だけが来ない。
珍しい。
開始5分前。
開始時刻。
それでも来ない。
青柳は時間に正確な男だった。
遅刻などほとんどしたことがない。
古川はスマートフォンを見た。
メッセージが届いていた。
「申し訳ありません。 少し遅れます。」
それだけだった。
10分後。
青柳は会議室へ入ってきた。
「すみません。」
額に汗が浮いていた。
まるで駅から走ってきたような様子だった。
「大丈夫か?」
古川が聞く。
「大丈夫です。」
青柳は笑った。
いつもの返事だった。
その頃から、小さな違和感が増えていった。
メールの返信が遅くなった。
確認漏れが増えた。
会議の日程を間違えることもあった。
若手社員から相談を受けても、
以前ほど余裕を持って対応できなくなっていた。
ある日。
レビュー資料に誤記を見つけた古川は青柳を呼んだ。
「あれ、ここ数字違うぞ。」
青柳は資料を見た。
数秒黙った。
そして。
「あ……本当ですね。」
珍しい。
彼なら普通、一目で気付くレベルのミスだった。
「疲れてるんじゃないか?」
古川は軽く言った。
青柳は苦笑した。
「そうかもしれませんね。」
その笑顔はどこかぎこちなかった。
さらに気になったのは表情だった。
以前の青柳は、人の話を聞くとき必ず相手の顔を見ていた。
質問を投げる。
相手の反応を見る。
考える。
また質問する。
それが彼のスタイルだった。
しかし最近は違う。
視線が落ちる。
考え込む時間が長い。
呼びかけても反応が遅い。
何か別のことを考えているようだった。
7月のある日。
チームメンバーで昼食へ出かけた。
いつもなら青柳が話題の中心になる。
市場動向。
新製品。
海外事例。
面白い情報を次々に引っ張り出す。
だがその日は違った。
ほとんど話さない。
食事もあまり進まない。
「体調悪いですか?」
若手社員が聞いた。
青柳は首を振った。
「いや、大丈夫。」
少し間を置いて付け加える。
「最近、寝不足なだけ。」
誰も深く聞かなかった。
仕事をしていればそういう時期もある。
みんなそう思った。
しかし青柳自身は、自分の中で起きている変化を感じ始めていた。
夜。
ベッドに入っても眠れない。
眠ったと思ったら2時間で目が覚める。
胸の奥がざわつく。
理由のない不安が押し寄せてくる。
心臓の鼓動が妙に気になる。
スマートフォンで時間を確認する。
午前2時。
午前3時。
午前4時。
そして朝になる。
会社へ向かう。
仕事はできる。
企画も考えられる。
会議もこなせる。
だから問題ない。
そう自分に言い聞かせる。
だが問題はあった。
それは少しずつ大きくなっていた。
ある日の朝。
通勤途中だった。
駅のホームに立っていると、
突然心臓が強く脈打った。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
動悸。
青柳は胸に手を当てた。
息苦しい。
しかし数分で治まった。
疲れているのだろう。
そう考えた。
誰にも言わなかった。
それから一週間後。
今度は会議中だった。
部屋の空気が妙に重く感じる。
息が吸えない。
心臓が速い。
汗が出る。
青柳は静かに席を立った。
「すみません。少しお手洗いに。」
廊下へ出る。
深呼吸する。
数分後には落ち着いた。
誰にも気付かれなかった。
青柳自身も説明できなかった。
何だったのか。
なぜ起きたのか。
そして家庭でも状況は悪化していた。
仕事の疲労。
睡眠不足。
将来への不安。
様々な事情が重なり、夫婦の会話は減っていた。
家に帰っても仕事のことを考える。
休日も企画書を開く。
妻は心配していた。
だが青柳には余裕がなかった。
「少し休んだら?」
そう言われるたび、
なぜか焦りを感じた。
休んではいけない。
期待されている。
成果を出さなければならない。
中途採用で入社した以上、
結果で評価されなければならない。
その思いが強くなっていた。
9月。
夕方6時過ぎ。
オフィスにはまだ多くの社員が残っていた。
古川は資料を見ながら歩いていた。
ふと青柳の席を見る。
青柳は画面を見つめたまま動かなかった。
手も止まっている。
声をかける。
「青柳。」
1秒。
2秒。
3秒。
遅れて顔が上がる。
「はい?」
「聞こえてなかったか?」
「あ……すみません。」
どこか上の空だった。
古川は胸の奥に小さな違和感を覚えた。
今までの青柳ではない。
何かがおかしい。
だが、その正体までは分からない。
その夜。
帰宅途中の電車の中で古川は考えていた。
忙しいからか。
家庭の問題か。
体調不良か。
それとも別の何かか。
気になる。
だが、どこまで踏み込んでいいのかも分からない。
管理職という立場は難しい。
距離を取るべきか。
近づくべきか。
正解はない。
翌週。
古川は青柳をランチに誘った。
「たまには外で飯でも食うか。」
青柳は少し驚いた顔をした。
そして笑った。
「いいですね。」
その笑顔は以前と変わらなかった。
だから古川も少し安心した。
その日までは。
そのわずか2週間後。
青柳の人生を変える最初の大きな発作が訪れる。
そして古川は初めて知ることになる。
人が壊れる時は、
大きな音を立てて壊れるのではない。
誰にも聞こえないほど小さなひびが、
長い時間をかけて広がっていくのだということを。
第3章 見えない恐怖
―発作―
青柳博は、その日もいつも通り出社するつもりだった。
木曜日。
午前7時46分。
秋の冷たい風がホームを吹き抜けていた。
電車を待つ人々が整然と並んでいる。
スーツ姿の会社員。
学生。
旅行客。
いつもと何も変わらない朝だった。
少なくとも、その瞬間までは。
突然だった。
胸の奥で何かが跳ねた。
ドクン。
青柳は反射的に胸に手を当てた。
動悸だった。
ここ数週間、何度か経験している。
疲れているのだろう。
そう思った。
だが今回は違った。
鼓動が収まらない。
むしろ速くなっていく。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
心臓が胸を叩く。
息を吸う。
しかし空気が足りない。
もう一度吸う。
足りない。
もっと吸う。
足りない。
何だこれ。
視界が揺れた。
人の声が遠くなる。
手のひらに汗がにじむ。
身体が熱い。
だが同時に寒い。
ホームがわずかに傾いたように感じた。
青柳は慌ててベンチへ座った。
落ち着け。
疲れているだけだ。
深呼吸しろ。
そう自分に言い聞かせる。
しかし呼吸はさらに浅くなる。
そして突然。
ある考えが頭を支配した。
死ぬ。
あまりにも唐突だった。
根拠など何もない。
胸が痛いわけでもない。
血を流しているわけでもない。
それでも確信した。
俺は今、死ぬ。
理屈ではなかった。
恐怖そのものだった。
青柳はスマートフォンを取り出した。
救急車を呼ぶべきか。
いや大げさかもしれない。
だが本当に死ぬかもしれない。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
数分後。
発作は突然消えた。
まるで嵐が通り過ぎたように。
呼吸が戻る。
鼓動も落ち着く。
視界も元に戻る。
青柳は呆然とした。
何だったのだろう。
心臓か。
脳か。
それとも別の病気か。
その日、彼は会社へ向かった。
誰にも言わなかった。
自分でも説明できなかったからだ。
翌週。
今度は会議室だった。
大型プロジェクトのレビュー。
役員も参加する重要な会議。
青柳はプレゼンターだった。
前日に準備は終わっている。
内容にも自信があった。
問題は何もない。
そう思っていた。
開始10分前。
会議室へ入る。
席に座る。
資料を確認する。
いつものルーティンだった。
しかし。
突然。
胸の奥がざわついた。
まず鼓動。
次に息苦しさ。
汗。
めまい。
吐き気。
来た。
青柳は思った。
しかし何が来たのかは分からない。
ただ先週と同じ感覚だった。
まずい。
席を立つ。
「すみません。少しお手洗いへ。」
誰も気に留めなかった。
だが廊下へ出た瞬間だった。
恐怖が一気に襲ってきた。
息ができない。
倒れる。
死ぬ。
壁に手をつく。
呼吸が速くなる。
過呼吸という言葉を後に知るが、その時はそんな知識はなかった。
ただ恐ろしかった。
とにかく恐ろしかった。
10分後。
何事もなかったように会議室へ戻った。
レビューも終えた。
表面的には成功だった。
だが青柳の中では何かが崩れ始めていた。
それから発作は増えた。
駅。
エレベーター。
会議室。
高速道路。
客先訪問の途中。
人が多い場所。
逃げられない場所。
予定のある場所。
責任がある場所。
なぜかそういう場面で起こる。
青柳は病院へ行った。
心電図。
血液検査。
レントゲン。
CT。
結果は異常なし。
医師は言った。
「心配ないと思いますよ。」
心配ない。
それが一番困った。
心配ないのに苦しい。
心配ないのに死ぬほど怖い。
心配ないのに会社へ行けなくなりそうだった。
ある日の夜。
青柳はリビングに座っていた。
妻が向かいにいる。
テレビはついている。
だが内容は頭に入らない。
胸の奥がざわついている。
また来る気がする。
発作が。
理由もなく。
「最近、大丈夫?」
妻が聞いた。
青柳は顔を上げた。
「何が?」
「顔色。」
青柳は笑った。
「大丈夫だよ。」
またその言葉だった。
大丈夫。
だが本当は違った。
全然大丈夫ではなかった。
夜中。
ベッドの中。
眠れない。
胸の鼓動を確認する。
呼吸を確認する。
異常がないか確認する。
何度も確認する。
眠ろうとする。
すると不安が押し寄せる。
また発作が来たらどうしよう。
会議中だったら。
電車だったら。
客先だったら。
高速道路だったら。
いつしか恐怖の対象は発作そのものではなくなっていた。
発作が起こるかもしれないこと。
それが怖くなっていた。
会社では誰も気付かない。
相変わらず青柳は優秀だった。
資料も作る。
会議も回す。
若手を育成する。
成果も出す。
だから周囲は安心していた。
古川も含めて。
だが青柳は知っていた。
自分の中で何かがおかしい。
何かが壊れ始めている。
そして運命の朝が訪れる。
午前4時13分。
目が覚めた瞬間だった。
強烈な動悸。
息苦しさ。
めまい。
震え。
恐怖。
これまで経験したどの発作よりも激しかった。
死ぬ。
今度こそ死ぬ。
青柳は震える手で救急車を呼んだ。
そして次にスマートフォンを開く。
連絡先一覧。
誰に電話すべきか分からない。
妻とは既に関係がぎくしゃくしていた。
家族にも説明できない。
友人にも何と言えばよいか分からない。
その時。
頭に浮かんだ名前があった。
古川守
課長だった。
直属の上司だった。
3年間一緒に働いた人だった。
青柳は電話ボタンを押した。
午前4時13分。
その一本の電話が、
彼自身の人生だけではなく、
古川の人生も大きく変えていくことになる。
そして2人はまだ知らない。
これから先、
「理解できない苦しみ」
と向き合う長い旅が始まることを。
第4章 正解のない地図
―産業医―
午前4時13分の電話から3日後。
古川守は、本社診療所の会議室にいた。
窓の外には秋晴れの空が広がっている。
しかし古川の気持ちは晴れなかった。
テーブルには一冊の資料が置かれていた。
表紙にはこう書かれている。
「パニック障害について」
古川はその文字を見つめた。
3日前まで、その病名すら知らなかった。
青柳は現在、自宅療養となっていた。
命に別状はなかった。
心臓にも異常はない。
脳にも異常はない。
血液検査も問題ない。
だが本人は会社に来られない。
外出も難しい。
電車に乗れない。
会議を想像するだけで身体が反応する。
古川には理解できなかった。
理解したいとも思っていた。
だからこの日、産業医との面談を申し込んだのだった。
診療所へ向かう前日の夜。
古川は自宅でパソコンを開いていた。
検索窓に入力する。
「パニック障害」
検索結果は無数に出てきた。
症状。
治療法。
体験談。
動画。
専門医の記事。
学会資料。
当事者ブログ。
読むほど分からなくなる。
共通していることもある。
しかし微妙に違う。
いや、時には真逆のことが書いてある。
休ませるべき。
無理をさせるべきではない。
その一方で。
通常生活を維持した方が良い。
過度な回避は逆効果。
何が正しいのだろう。
古川には分からなかった。
産業医は60代後半の男性だった。
穏やかな口調の人だった。
青柳の状況を一通り確認した後、
こう言った。
「課長としては大変ですね。」
古川は苦笑した。
「正直、何が起きているのかよく分からなくて。」
産業医はうなずいた。
「それは普通です。」
古川は少し安心した。
普通。
その言葉に救われた気がした。
それから1時間ほど話を聞いた。
発作が起きる仕組み。
不安との関係。
身体症状。
職場との関わり方。
復職の考え方。
古川は必死にメモを取った。
だが途中から混乱し始めた。
産業医の話と、
昨夜調べた内容が少し違うのだ。
「過度に配慮しすぎるのも良くありません。」
産業医が言う。
「本人が不安だからといって全てを避け続けると、自信を失うことがあります。」
古川は考える。
昨夜読んだ記事には、
「無理をさせないことが大切」
と書いてあったはずだ。
ではどちらが正しいのか。
面談が終わった後も、
答えは出なかった。
むしろ疑問は増えた。
人事部へ戻る廊下で、
古川は思った。
何だ、これは。
企画なら分かる。
市場調査をする。
仮説を立てる。
検証する。
修正する。
ある程度の正解が見える。
だがこれは違う。
青柳は機械ではない。
企画案件でもない。
一人の人間だ。
しかも苦しんでいる本人ですら、
自分に何が起きているのか完全には分かっていない。
そんな状況で、
周囲だけが正解を見つけられるはずがない。
その日の夕方。
古川は青柳へ電話をかけた。
何度か迷った末だった。
仕事の話ではなく、
様子を聞きたかった。
「もしもし。」
青柳の声は小さかった。
以前より痩せて聞こえる。
そんな不思議な感覚だった。
「体調どうだ?」
古川が聞く。
沈黙。
数秒後。
「分かりません。」
その答えが意外だった。
「分からない?」
「はい。」
青柳は静かに答えた。
「朝起きても、自分が今日は大丈夫なのか大丈夫じゃないのか分からないんです。」
古川は言葉を失った。
「スーパーへ行ける日もあります。」
青柳は続ける。
「でもコンビニへ行くだけで苦しくなる日もあります。」
また沈黙。
「正直、自分でもよく分からないんです。」
古川は何も言えなかった。
励ましの言葉も出てこない。
アドバイスも出てこない。
その瞬間、
ようやく少し理解した。
青柳自身も迷子なのだ。
病気の中で。
恐怖の中で。
見えない迷路の中で。
そして古川自身もまた迷子だった。
翌週。
社内では少しずつ青柳の話題が出始めていた。
「あれ、青柳さん最近見ませんね。」
「体調不良らしいですよ。」
「大丈夫なんですかね。」
誰も悪意はない。
ただ知らないのだ。
古川も三週間前までは知らなかった。
理解できない。
だから不安になる。
だから距離が生まれる。
それは病気だけではない。
人間関係も同じだ。
その日の帰り道。
古川は駅のホームに立っていた。
大勢の人が行き交う。
誰もが普通に見える。
だが本当のことは分からない。
もしかしたら、
隣に立っている人も何かを抱えているかもしれない。
笑っている同僚も。
明るい部下も。
信頼する上司も。
人は見た目だけでは分からない。
そして自分は、
部下の苦しみを理解できる日など来ないのかもしれない。
だがその時、
古川の中で一つだけ決まったことがあった。
理解できるかどうかではない。
理解できないから離れるのか。
理解できなくても隣にいるのか。
問われているのは、
きっとそちらなのだ。
秋の風がホームを吹き抜けた。
古川はスマートフォンをポケットへしまう。
青柳に何をしてあげればいいのか。
まだ分からない。
正解も分からない。
だが少なくとも、
一人にはしない。
その決意だけは、
少しずつ形になり始めていた。
第5章 見えない壁
―誰にも説明できない病気―
青柳博が初めて出社したのは、診断から3週間後だった。
復帰ではない。
あくまでも面談だった。
会社へ来られるかどうか。
今後どのように働くか。
その相談のためだった。
朝9時半。
本社ビルの駐車場に、一台のレンタカーがゆっくり入ってきた。
ハンドルを握っているのは青柳だった。
電車には乗れなかった。
発作が怖かった。
逃げ場がない場所が怖かった。
人が多い場所が怖かった。
だから車で来た。
病院からも勧められていた。
無理に電車へ乗る必要はない、と。
エンジンを切る。
だが降りられない。
目の前には見慣れた会社がある。
3年間通った建物だ。
毎日歩いた通路だ。
何百回も入った自動ドアだ。
それなのに身体が動かない。
呼吸が浅くなる。
心臓が速くなる。
手のひらに汗がにじむ。
来る。
青柳は知っていた。
発作ではない。
まだ発作にはなっていない。
しかし発作が来る予感だった。
15分後。
ようやく車を降りた。
その頃にはシャツの背中が汗で濡れていた。
受付を通る。
エレベーターへ向かう。
見慣れた社員たちとすれ違う。
「おはようございます。」
挨拶もできる。
歩くこともできる。
普通に見える。
誰が見ても健康な34四歳の会社員だった。
だから余計に苦しかった。
会議室に入ると古川が待っていた。
「久しぶりだな。」
古川はいつも通りだった。
それが少し嬉しかった。
そして少し泣きそうになった。
「すみません。」
青柳は頭を下げた。
反射的だった。
「何がだ?」
古川が聞く。
「皆さんに迷惑をかけて……」
古川は即座に言った。
「それは今考えなくていい。」
その一言に救われた気がした。
しかし面談の途中。
突然胸が苦しくなった。
心臓が速い。
息が吸えない。
会議室の空気が重い。
逃げ出したくなる。
青柳は黙った。
手を握りしめた。
古川が気付く。
「大丈夫か?」
青柳はうなずく。
だが額から汗が流れていた。
5分後。
二人は会議室を出て、外のベンチに座っていた。
秋風が吹いている。
すると不思議なことに症状は落ち着いた。
「な。」
青柳は苦笑いした。
「こういうんです。」
古川は黙って聞いていた。
「自分でも分からないんです。」
青柳は空を見ながら続ける。
「会議室に入っただけなんです。」
「……」
「怒られたわけでもない。」
「……」
「嫌なことがあったわけでもない。」
「……」
「なのに身体が死ぬと思うんです。」
古川は返事ができなかった。
理解できなかったからではない。
むしろ理解しようとするほど、その苦しさが想像を超えていたからだった。
その頃。
職場では少しずつ変化が起きていた。
人は悪意なく傷つける。
それを古川は知ることになる。
「青柳さん、元気なんですか?」
若手社員が聞く。
純粋な心配だった。
「元気じゃないから休んでるんだろ。」
別の社員が答える。
こちらも悪意はない。
「見た感じ普通なのにな。」
その一言も悪意ではなかった。
ただ知らないだけだった。
誰も知らない。
発作を。
恐怖を。
夜眠れないことを。
スーパーへ行けなくなることを。
コンビニのレジに並ぶだけで動悸がすることを。
見えない。
だから分からない。
ある日。
古川は若手メンバー数人と昼食を取っていた。
話題は自然と青柳になった。
「正直、心配です。」
一人が言う。
「企画ってストレス多いですしね。」
別のメンバーがうなずく。
その時、一人がぽつりと言った。
「でも、仕事は誰かがやらなきゃいけないですよね。」
空気が少し変わった。
当然だった。
青柳の担当業務はチームへ分散されていた。
皆の負担は増えている。
不満ではない。
ただ事実だった。
古川はその時初めて気付いた。
これは青柳一人の問題ではない。
チーム全体の問題なのだ。
休職する人。
その仕事を引き受ける人。
支えたい人。
戸惑う人。
理解できない人。
様々な感情が同時に存在している。
そしてどれも間違いではない。
だから難しい。
その夜。
古川は自宅で考えていた。
青柳を守りたい。
だが同時にチームも守らなければならない。
誰かだけを優先することはできない。
管理職とはそういう仕事だ。
正解のない問題に向き合い続ける仕事。
ふとスマートフォンが鳴った。
青柳からだった。
珍しい。
電話に出る。
「課長。」
青柳の声だった。
「どうした?」
少し沈黙。
「今日、会社へ行けました。」
古川は笑った。
「そうだったな。」
すると青柳が言った。
「実は昨日まで無理だと思ってました。」
「……」
「駐車場で30分動けませんでした。」
「そうか。」
「でも今日は建物の中まで行けました。」
再び沈黙。
そして青柳は小さく言った。
「少しだけ前進した気がします。」
古川は窓の外を見た。
夜の住宅街は静かだった。
以前の青柳なら、
企画を一つ形にすることなど当たり前だった。
海外出張もこなし、
役員レビューも乗り越え、
難しい案件をまとめ上げていた。
だが今の青柳は違う。
会社の建物へ入る。
それだけで全力だった。
そして古川は思う。
人は苦しみの大きさを比較してしまう。
だが本当は違う。
その人にしか分からない戦いがある。
会議室へ入ること。
電車へ乗ること。
外へ出ること。
会社へ来ること。
当たり前だったものが当たり前ではなくなる。
その現実を、自分たちは知らなかった。
理解したとは言えない。
まだ何も分かっていない。
それでも。
青柳がひとりで戦っているわけではない。
古川はそう信じたかった。
理解できない苦しみを前にしても。
答えが分からなくても。
人は誰かの隣に座ることくらいはできる。
そのことを、少しずつ学び始めていた。
第6章 誰も悪くない夜
―家庭の崩壊―
青柳博が離婚届に判を押したのは、発症から半年が過ぎた頃だった。
外は雨だった。
12月の冷たい雨だった。
役所の駐車場には灰色の雲が低く垂れ込めている。
フロントガラスを叩く雨粒を見ながら、青柳はしばらく車から降りられなかった。
手元には離婚届があった。
たった一枚の紙だった。
だが、その紙の重さは人生そのもののように感じられた。
結婚したのは七年前だった。
まだ前の会社にいた頃だった。
二人とも何も持っていなかった。
小さなアパート。
中古の家具。
安いテーブル。
それでも幸せだった。
将来の話をよくした。
いつか大きな仕事がしたい。
いつかもっと良い家に住みたい。
いつか子供が欲しい。
そんな普通の夢だった。
そして三年前。
青柳は現在の会社へ転職した。
激戦を勝ち抜いて掴んだチャンスだった。
妻も喜んでくれた。
一緒に祝った。
高級なレストランなどではない。
近所の居酒屋だった。
だが二人とも笑っていた。
未来しか見えていなかった。
その未来が変わり始めたのは発症後だった。
最初は夫婦で戦っていた。
病院探し。
薬の情報収集。
医師との面談。
妻も必死だった。
青柳も必死だった。
しかし病気は分かりやすくない。
骨折のように見えない。
熱のように数値が出ない。
がんのように画像にも映らない。
だから説明できない。
「今日はどう?」
妻が聞く。
「分からない。」
青柳は答える。
それしか言えない。
「少し良くなった?」
「分からない。」
「何が怖いの?」
「分からない。」
青柳自身にも答えがなかった。
分からない。
その言葉は少しずつ二人を追い詰めていった。
ある休日。
妻が言った。
「買い物だけ付き合ってくれない?」
近所の大型スーパーだった。
車で十分。
以前なら何でもない外出だった。
青柳は頷いた。
頑張ろうと思った。
普通に戻りたかった。
しかし店に入った瞬間だった。
人の多さ。
蛍光灯。
館内放送。
レジの列。
様々な情報が一気に押し寄せる。
心臓が速くなる。
呼吸が浅くなる。
「あ、ごめん。」
青柳は呟いた。
「何?」
妻が振り返る。
「ちょっと外出る。」
数分後。
青柳は駐車場の車内にいた。
冷や汗が止まらない。
呼吸も落ち着かない。
妻は買い物袋を持って戻ってきた。
その帰り道。
二人はほとんど会話をしなかった。
青柳は思い出す。
あの日の助手席から見えた妻の横顔を。
悲しそうだった。
怒っているのではない。
悲しそうだった。
それが一番苦しかった。
時間が経つほど状況は悪くなった。
会社へ行けない。
外出も難しい。
夜も眠れない。
そして人は余裕を失う。
青柳もそうだった。
以前なら笑って流せた言葉に反応する。
小さな会話で傷つく。
何気ない沈黙を恐れる。
妻も限界へ近付いていた。
ある夜。
珍しく二人は言い争いになった。
「私はどうしたらいいの?」
妻が言った。
「支えたいと思ってる。」
「……」
「でも何をやっても違うって言うじゃない。」
「そんなことない。」
「あるよ。」
妻の目には涙が浮かんでいた。
「頑張れって言っても駄目。」
「……」
「休めって言っても駄目。」
「……」
「励ましても駄目。」
「……」
「何をしたらいいの?」
青柳は答えられなかった。
本当に分からなかったからだ。
妻が悪いわけではない。
自分が悪いわけでもない。
病気が悪いとも言い切れない。
ただ現実がそこにあった。
理解したくても理解できない苦しみ。
支えたいのに支え方が分からない苦しみ。
それが同じ家の中にあった。
その数か月後。
妻は家を出た。
大きな喧嘩があったわけではない。
裏切りがあったわけでもない。
それが逆に現実だった。
人生は映画のようには壊れない。
少しずつ。
静かに。
気付けば戻れない場所まで離れている。
荷物をまとめ終わった妻は玄関に立っていた。
沈黙が続く。
何か言わなければ。
青柳はそう思った。
ありがとうでもない。
ごめんでもない。
戻ってきてでもない。
何か正しい言葉がある気がした。
だが出てこなかった。
妻も何も言わなかった。
最後に小さく笑った。
そして。
「元気でね。」
そう言った。
ドアが閉まる。
静かだった。
驚くほど静かだった。
青柳はしばらく動けなかった。
発作より苦しかった。
離婚届へ判を押した日。
役所から出てきた青柳は車の中で長い時間動けなかった。
スマートフォンが震えた。
古川からだった。
「どうだ?」
短いメッセージだった。
青柳は画面を見つめた。
どうだ。
何と答えればいいのだろう。
人生がうまくいかない。
病気も消えない。
家族も失った。
何一つうまくいっていない。
そう打ちかけた。
しかし指が止まる。
しばらく考えたあと。
青柳は一行だけ返した。
「今日は少し疲れました。」
数秒後。
返信が来た。
「そういう日もある。」
それだけだった。
励ましでもない。
説教でもない。
解決策でもない。
だがその言葉に救われた。
フロントガラスの向こうで雨が降り続いている。
人生には、
誰も悪くないのに失われてしまうものがある。
どれだけ頑張っても守れないものがある。
青柳は静かに目を閉じた。
車内には、自分の呼吸音だけが響いていた。
そして初めて思った。
もう前の人生には戻れないのかもしれない。
その事実を受け入れるには、
まだ少し時間が必要だった。
第7章 静かな部屋
―空席―
離婚から二週間後。
青柳博は、一日のほとんどを自宅で過ごしていた。
朝起きる。
薬を飲む。
コーヒーを淹れる。
ソファに座る。
そのまま昼になる。
気付けば夕方になる。
そして夜が来る。
それだけだった。
以前の人生では考えられない日々だった。
企画者とは、本来忙しい生き物だ。
市場を見る。
人に会う。
現場へ行く。
議論する。
仮説を作る。
また壊す。
青柳はそうやって生きてきた。
むしろ忙しさそのものが、自分の価値だと思っていた。
しかし今は違う。
予定表は真っ白だった。
スマートフォンの通知もほとんど鳴らない。
会議招集も来ない。
出張予定もない。
レビュー資料もない。
顧客インタビューもない。
何もない。
ある朝。
青柳はリビングの壁掛け時計を見ていた。
秒針が音を立てる。
カチ。
カチ。
カチ。
その音だけが妙に大きく聞こえる。
ふと考えた。
今、会社では何をやっているのだろう。
次期車種の企画レビューだろうか。
競合分析だろうか。
若手たちは何に悩んでいるだろう。
自分がいなくても仕事は進んでいる。
それは当然だ。
組織とはそういうものだ。
だが、その現実は思った以上に堪えた。
必要とされていない。
そんな考えが頭をよぎる。
もちろん理屈では違うと分かっている。
古川は何度も連絡をくれた。
チームメンバーも様子を気にかけてくれている。
だが人間は弱っている時、
理屈ではなく感情で物事を見てしまう。
ある日。
青柳は意を決して近所のコンビニへ向かった。
徒歩5分。
これまで何百回も歩いた道だった。
途中までは順調だった。
しかし店が見えた瞬間、
胸がざわつき始めた。
もし発作が起きたら。
レジで倒れたら。
人に迷惑をかけたら。
頭の中で次々と不安が広がる。
青柳は店の前で立ち止まった。
そして引き返した。
結局、その日は家から出られなかった。
帰宅してソファへ座る。
自分が情けなかった。
以前は海外出張もしていた。
役員プレゼンもこなしていた。
初対面の顧客とも議論していた。
そんな人間が、
コンビニへ行けない。
何が起きているのだろう。
鏡を見る。
見た目は変わらない。
手足も動く。
声も出る。
身体も健康だ。
なのに普通のことができない。
その矛盾が何より苦しかった。
夜になると眠れない。
部屋が静かすぎるからだ。
以前なら妻がいた。
仕事の愚痴を話した。
テレビの話をした。
今日あった出来事を話した。
今は誰もいない。
静寂だけがある。
冷蔵庫の音。
エアコンの風。
時計の秒針。
それらが自分の孤独を強調しているようだった。
その頃、古川は青柳の席を見るたびに奇妙な感覚を抱いていた。
席はそのまま残してある。
ノートパソコンもある。
ホワイトボードもある。
机の端には青柳が使っていたマグカップも置かれている。
だが本人だけがいない。
オフィスでは毎日誰かがそこを見ていた。
意識してではない。
無意識に。
人がいた場所には、その人の気配が残るのかもしれない。
ある日の夕方。
若手社員がぽつりと言った。
「青柳さん、今何してるんですかね。」
誰も答えられなかった。
元気になっているのか。
苦しんでいるのか。
眠れているのか。
笑えているのか。
誰にも分からない。
古川はその夜、青柳へ電話をかけた。
「最近どうだ。」
数秒の沈黙。
「正直、あまり良くないです。」
珍しく率直な答えだった。
「何が一番きつい?」
古川が聞く。
青柳は少し考えた。
「孤独です。」
その一言に古川は言葉を失った。
発作ではなかった。
薬でもなかった。
仕事でもなかった。
孤独。
青柳は続けた。
「皆が前に進んでる気がするんです。」
「……」
「自分だけ止まってる。」
「……」
「毎日が同じなんです。」
古川は窓の外を見た。
街の灯りが流れている。
管理職になって二十年近い。
様々な部下を見てきた。
失敗する人。
辞める人。
病気になる人。
成功する人。
だが、この苦しみは初めてだった。
誰かの代わりに苦しむことはできない。
誰かの病気を肩代わりすることもできない。
自分にできることは限られている。
それでも。
古川は静かに言った。
「青柳。」
「はい。」
「会社、お前の席まだあるからな。」
電話の向こうが静かになった。
しばらくして。
小さな声が聞こえた。
「ありがとうございます。」
泣いているのかもしれない。
古川には分からなかった。
電話を切った後、
青柳は暗い部屋で一人座っていた。
何も解決していない。
病気は消えていない。
離婚した事実も変わらない。
発作への恐怖もある。
それでも。
会社に自分の席がある。
誰かが待っている。
その事実だけが、
少しだけ温かかった。
外では冬の風が吹いていた。
長い夜はまだ続く。
しかし青柳は初めて思った。
明日も生きてみよう。
その理由はまだ見つかっていない。
それでも、
もう一日だけ歩いてみようと思った。
静かな部屋の中で、
小さな希望が生まれ始めていた。
第8章 隣を歩く
―課長、迷走する―
青柳博が休職して8か月が過ぎていた。
春だった。
会社の桜は満開だった。
だが古川守には、それを眺める余裕がなかった。
正直に言えば、
古川は疲れていた。
青柳ではない。
自分自身が。
もちろん青柳の方が苦しい。
そんなことは分かっている。
だが管理職にもまた別の苦しさがある。
正解がないのだ。
何が正しいのか分からない。
距離を置くべきか。
連絡を取るべきか。
休ませるべきか。
仕事を与えるべきか。
期待を伝えるべきか。
伝えないべきか。
何を選んでも誰かが違うと言う。
産業医は言う。
「焦らせないことです。」
人事は言う。
「復職の時期も考えないといけません。」
チームは言う。
「青柳さんを待っています。」
青柳本人は言う。
「自分でも分からないです。」
古川は思う。
じゃあ、誰が分かるんだ。
その感情を初めて抱いた。
ある日。
古川は青柳を昼食に誘った。
会社近くの喫茶店だった。
平日の昼間。
人も少ない。
落ち着いた店だった。
青柳は来た。
以前より痩せていた。
しかし顔色は少し良くなっていた。
二人はコーヒーを注文した。
当たり障りのない会話から始まる。
天気。
野球。
会社の近況。
そして古川は聞いた。
「最近どうだ。」
青柳は少し考えた。
「前よりは。」
「前よりは?」
「少しだけ。」
それを聞いた瞬間、
古川の中に期待が生まれた。
良かった。
少し良くなっている。
そう思った。
だから言ってしまった。
「じゃあ、そろそろ仕事も少しずつ考えるか。」
青柳の表情が固まった。
ほんの一瞬だった。
だが古川は見逃さなかった。
その日の夜。
青柳からメールが来た。
「今日は帰宅後に発作が出ました。」
古川は画面を見つめた。
自分のせいなのか。
そう考えてしまった。
仕事という言葉がプレッシャーになったのか。
期待が重かったのか。
分からない。
次の日。
古川は激しく後悔していた。
急ぎすぎた。
自分は復帰を焦っていたのではないか。
管理職として。
組織として。
今後の人員計画として。
様々な事情がある。
しかしそれは青柳の事情ではない。
古川は自分を責めた。
ところが一週間後。
今度は逆のことが起きた。
青柳との面談。
古川は仕事の話を避けた。
体調はどうか。
眠れているか。
日常生活はどうか。
それだけを聞いた。
すると青柳が突然言った。
「課長。」
「ん?」
「俺、必要とされてないんですかね。」
古川は言葉を失った。
「何でそう思う。」
「最近、誰も仕事の話をしないから。」
静寂。
古川は何も言えなくなった。
先週は仕事の話をして失敗した。
今週は仕事の話を避けて失敗した。
どちらも間違いだった。
いや。
もしかすると、
どちらも間違いではなかったのかもしれない。
ただ正解が存在しないだけなのかもしれない。
その夜。
古川は珍しく酒を飲んだ。
自宅のリビング。
缶ビール一本。
管理職になって十年以上。
問題解決が仕事だった。
予算。
品質。
納期。
組織運営。
人材育成。
どれにも解法があった。
だが今回だけは違う。
人間の心には説明書がない。
翌日。
古川は偶然、先輩管理職と話す機会があった。
その人は長年人材育成に携わってきた人だった。
古川は思わず愚痴をこぼした。
「何をやっても正解にならないんです。」
すると先輩は笑った。
「当たり前だろ。」
古川は顔を上げた。
「え?」
「本人だって分かってないんだから。」
その言葉に古川は黙った。
先輩は続ける。
「古川。」
「はい。」
「お前、治そうとしてないか。」
心臓を掴まれた気がした。
図星だった。
どこかで思っていた。
上司として。
課長として。
何とかしなければ。
治してあげなければ。
元に戻してあげなければ。
先輩は静かに言った。
「お前は医者じゃない。」
「……」
「課長だ。」
「……」
「課長の仕事は治すことじゃない。」
そこで言葉を切った。
そして最後に言った。
「一緒に迷うことだろ。」
古川はその言葉を理解できなかった。
だが帰宅してからも、
頭の中で繰り返し響いていた。
一緒に迷う。
何だそれは。
だが不思議なことに、
その言葉は少しだけ古川を楽にした。
答えを見つけなくていい。
完璧な対応をしなくていい。
治さなくていい。
ただ隣にいる。
もしそうだとしたら。
翌週。
古川は青柳へ電話をかけた。
「最近どうだ。」
いつもの会話だった。
青柳も答える。
「まあまあです。」
いつもの答えだった。
そして古川は言った。
「焦らなくていい。」
「……」
「俺も分からん。」
電話の向こうが静かになる。
「何がですか。」
青柳が聞いた。
古川は少し笑った。
「どうしたら正しいのか。」
初めて本音だった。
「でも、一緒に考えるくらいはできる。」
長い沈黙が続いた。
やがて。
青柳の声が聞こえた。
「ありがとうございます。」
その声は、
これまでで一番自然だった。
古川は電話を切ったあと、
窓の外を見た。
春の風が吹いていた。
理解できない苦しみがある。
どれだけ勉強しても。
どれだけ本を読んでも。
どれだけ経験を積んでも。
分からないものは分からない。
だが人は、
分からないまま誰かの隣にいることはできる。
その夜、
古川は初めて肩の力を抜いた。
青柳を引っ張るのではない。
背負うのでもない。
治すのでもない。
ただ隣を歩く。
もしかすると、
それだけで良いのかもしれなかった。
第9章 小さな帰還
―仲間たち―
青柳博が再び会社へ来られるようになったのは、発症から一年近くが過ぎた頃だった。
復職ではない。
まだそこまではいかない。
週に一度。
1時間だけ。
会社へ顔を出す。
それが最初の目標だった。
月曜日。
午前10時。
青柳を乗せた一台のタクシーが玄関に着く。
医師から車の運転は禁止されているためだ。
ドアが開き青柳がゆっくりと出てくる。
深呼吸をする。
以前のような強い発作は出なくなっていた。
だが不安は消えていない。
今でも会社へ向かう日は前日から眠れないことがある。
それでも来た。
自分の足で。
玄関を抜ける。
受付を通る。
エレベーターへ乗る。
三階。
モビリティ内装企画部。
見慣れた景色だった。
だが一年近く離れていた場所は、どこか少しだけ違って見えた。
自分だけが時間から取り残されていたような感覚。
その時だった。
遠くから声が聞こえた。
「あ。」
若手社員だった。
「青柳さん。」
驚いた顔をした後、笑った。
「久しぶりです。」
「久しぶり。」
ごく普通の会話だった。
だが青柳の胸が少し温かくなった。
気を遣われなかった。
病気の人として扱われなかった。
それが嬉しかった。
オフィスへ入る。
自分の席が見える。
一年近く前と変わらない。
モニター。
デスク。
キャビネット。
マグカップ。
そして椅子。
青柳はゆっくり腰を下ろした。
戻ってきた。
そんな気がした。
古川は少し離れた場所からその様子を見ていた。
声はかけない。
特別な演出もしない。
歓迎会もしない。
拍手もしない。
ただいつも通り仕事をする。
それが古川なりの配慮だった。
以前なら、
「お帰り!」
と盛大に迎えていたかもしれない。
だが今は違う。
青柳が欲しいのは特別扱いではない。
戻る場所だ。
そのことを少しずつ学んでいた。
昼休み。
若手社員が近づいてきた。
「今度また市場調査の話聞かせてください。」
青柳は思わず笑った。
「俺でいいの?」
若手は首を傾げた。
「何でですか。」
当たり前のように言う。
「青柳さん詳しいじゃないですか。」
その言葉に救われる。
病気になる前の自分。
病気になった後の自分。
周囲はその両方を見ている。
そして今、
目の前の若手は病気ではなく、
企画者としての自分を求めている。
それが嬉しかった。
その頃から少しずつ変化が生まれた。
若手が市場分析の相談をする。
青柳がアドバイスする。
雑談が生まれる。
笑いが生まれる。
たったそれだけのことだった。
だが人間は不思議だ。
誰かの役に立ったという感覚は、
薬だけでは得られない力になる。
青柳は再び企画書を開くようになった。
本格的な仕事ではない。
古川から渡された小さなテーマだった。
「最近気になる生活変化をまとめてくれ。」
それだけ。
納期もない。
評価もない。
役員レビューもない。
青柳は数日かけて資料を作った。
昔なら二時間で終わっていた内容だった。
しかし今回は三日かかった。
途中で疲れる。
集中力が切れる。
不安になる。
それでも完成した。
久しぶりだった。
何かを最後までやり切る感覚は。
古川は資料を読み終えた後、一言だけ言った。
「青柳らしいな。」
それだけだった。
褒め過ぎない。
励まし過ぎない。
しかし青柳には十分だった。
らしい。
その言葉が胸に残った。
自分はまだ企画者なのかもしれない。
ある日の夕方。
チームメンバー数人が雑談していた。
話題は海外のモビリティ事例だった。
「それ、海外では違うらしいですよ。」
青柳が言う。
皆が振り向く。
「何でですか?」
質問が飛ぶ。
気付けば議論が始まっている。
以前と同じ光景だった。
青柳は話しながら思った。
発作はまだある。
薬も飲んでいる。
病院にも通っている。
しかし今、
自分は企画の話をしている。
それだけで十分だった。
帰宅途中。
車を運転しながら青柳は窓の外を見ていた。
夕焼けだった。
一年前。
離婚した頃。
孤独しか見えなかった。
未来など想像できなかった。
しかし今は違う。
治ったわけではない。
元にも戻っていない。
だが確かに前へ進んでいる。
少しずつ。
本当に少しずつ。
同じ頃。
古川もまた変化を感じていた。
自分は青柳を支えてきたのではない。
むしろ逆かもしれない。
人が苦しむ時。
組織は何ができるのか。
上司は何ができるのか。
仲間は何ができるのか。
その答えを教えてくれたのは青柳だった。
そしてチームだった。
誰も完璧ではない。
戸惑った人もいた。
理解できなかった人もいた。
不満を抱いた人もいた。
それでも誰も見捨てなかった。
その事実が何よりも大きかった。
夕方。
オフィスには笑い声が響いていた。
青柳もその輪の中にいた。
特別ではない。
普通だった。
だが一年前の二人がその光景を見たなら、
きっと信じなかっただろう。
人は突然強くなるわけではない。
ある日劇的に変わるわけでもない。
ただ。
誰かと話し。
誰かに必要とされ。
誰かと笑う。
そんな小さな日常を積み重ねながら、
少しずつ前へ進むのだ。
そして古川は思う。
理解できない苦しみを前にしても、
人は何もできないわけではない。
答えを与えられなくても、
隣に座ることはできる。
その積み重ねが、
いつしか人を帰ってこられる場所へ導くのかもしれなかった。
第10章 企画者としての帰還
―少しだけ前へ―
青柳博が初めて企画書を書いたのは、復職プログラムが始まって3か月目のことだった。
それは小さな仕事だった。
担当もない。
責任もない。
誰からも期待されていない。
少なくとも表面上は。
金曜日の午後。
古川は青柳を会議室へ呼んだ。
窓際の小さな部屋だった。
以前なら役員レビューの準備で埋まっていた部屋だ。
今は二人だけだった。
「ひとつ相談がある。」
古川が言った。
青柳は少し身構えた。
仕事の話。
それだけで今でも緊張する。
「相談ですか。」
「うちの若手がまとめてる市場調査がある。」
古川は資料を一冊差し出した。
「違和感ないか見てやってくれ。」
それだけだった。
担当でもない。
期限もない。
評価対象でもない。
青柳は資料を受け取った。
帰宅後、机でそれを開いた。
久しぶりだった。
企画資料を読むのは。
自然と昔の癖が出る。
仮説を見る。
構造を見る。
抜け落ちている視点を探す。
ユーザーの言葉に目を向ける。
2時間が過ぎた。
気付けばメモが数ページになっていた。
翌日。
青柳はそれを古川へ送った。
そして送信ボタンを押した瞬間、
胸がざわついた。
怖い。
昔のように考えられなかったらどうしよう。
期待外れだったらどうしよう。
病気になる前の自分と比べてしまう。
それが一番苦しい。
数時間後。
古川から返信が来た。
「若手より先に本質を見つけてる。」
それだけだった。
青柳は画面を見つめた。
胸の奥が熱くなる。
嬉しかった。
企画者として評価された気がした。
病気の人ではなく。
休職者でもなく。
配慮される側でもなく。
企画者として。
その日、
本当に久しぶりにぐっすり眠れた。
それから少しずつ仕事が増えた。
市場調査レビュー。
顧客インタビューの整理。
競合分析。
未来予測。
どれも小さな仕事だった。
しかし青柳にとっては大きかった。
特に嬉しかったのは、
若手たちが以前と変わらず相談に来ることだった。
「青柳さん、ちょっといいですか。」
その言葉が好きだった。
ある日。
若手社員が企画書を持ってきた。
「行動価値と提供価値の違いが整理できなくて。」
以前なら五分で説明していた内容だった。
しかし今は違う。
話し続けると疲れる。
集中力も落ちる。
それでも青柳は一緒に考えた。
ホワイトボードへ向かう。
ペンを取る。
ユーザーの行動。
感情。
意味。
価値。
言葉を書きながら説明する。
気付けば30分が過ぎていた。
若手は最後に言った。
「やっぱり青柳さん分かりやすいですね。」
青柳は思わず笑った。
久しぶりだった。
自分が誰かの役に立てたと思えたのは。
その夜。
帰宅後の発作はなかった。
もちろん発作が消えたわけではない。
今でも通院している。
薬も飲んでいる。
調子の悪い日もある。
だが以前とは違った。
病気が人生の全てではなくなってきた。
企画のことを考える時間が戻ってきた。
それが大きかった。
春が終わり、夏が始まった。
ある日。
古川は青柳を会議室へ呼んだ。
今度は少し大きな仕事だった。
次期モビリティの生活価値提案。
チームの若手だけでは整理しきれずにいるテーマだった。
古川は資料を広げる。
「青柳。」
「はい。」
「意見を聞かせてくれ。」
青柳は資料を眺めた。
数分。
沈黙が続く。
その後、
自然と言葉が出てきた。
ユーザー視点。
生活視点。
感情価値。
行動変容。
考え方が繋がっていく。
昔と同じだった。
会議が終わった後、
若手たちは口々に言った。
「その視点なかったです。」
「面白い。」
「なるほど。」
青柳は窓の外を見た。
夏空だった。
ふと思う。
一年前。
離婚した。
仕事も失ったと思った。
人生も終わったと思った。
二度と企画などできないと思った。
だが今、
自分はここにいる。
完璧ではない。
元にも戻っていない。
発作もある。
不安もある。
失ったものも戻らない。
それでも。
企画をしている。
人と議論している。
アイデアを考えている。
その事実だけで十分だった。
帰り際、
古川が声をかけた。
「青柳。」
「はい。」
「最近、顔つきが戻ってきたな。」
青柳は苦笑した。
「そうですか。」
「企画者の顔だ。」
その言葉に青柳は何も返せなかった。
ただ少しだけ空を見上げた。
長い時間がかかった。
失ったものも多かった。
それでも。
少しだけ前へ進んできた。
そのことだけは、
胸を張って認めても良い気がした。
しかし二人はまだ知らない。
回復とは一直線ではないことを。
そして人生は、
良くなり始めた時ほど試練を用意していることを。
第11章 それでも戻らない日
―再発―
人は物語を好む。
苦しみがあって、
努力があって、
乗り越えて、
元に戻る。
そういう物語だ。
だから青柳博も、どこかで期待していた。
もう大丈夫なのではないかと。
発症から1年半が過ぎていた。
週3日の出社。
限定的な業務参加。
若手指導。
市場分析。
企画レビュー。
どれも少しずつ増えていた。
発作も減っていた。
薬も以前より減薬が進んでいた。
主治医も言った。
「順調ですね。」
その言葉に、青柳は安心した。
古川も同じだった。
もちろん油断はしていない。
だが最悪の時期は抜けたと思っていた。
チームも落ち着いている。
青柳も笑うようになった。
企画の議論もできる。
以前の七割くらいまでは戻ってきた。
そんな感覚だった。
その頃、部には大型プロジェクトが立ち上がっていた。
次世代モビリティ構想。
複数部門を巻き込む重要案件だった。
若手中心で進めていたが、企画の骨格がまとまらない。
議論が拡散する。
方向性が定まらない。
何度レビューしても結論が出ない。
ある日。
若手社員が言った。
「青柳さんに少し見てもらえませんか。」
青柳は迷った。
やりたかった。
本音を言えば。
企画者として。
未来を考える仕事がしたかった。
だから引き受けた。
最初は週に一時間だけだった。
レビューだけ。
意見を言うだけ。
責任は持たない。
しかし企画者という生き物は厄介だ。
面白いテーマを前にすると、
自然と深く入っていく。
青柳もそうだった。
資料を読み込む。
仮説を考える。
市場を調べる。
生活者視点を整理する。
久しぶりの感覚だった。
楽しかった。
本当に。
楽しかった。
だから気付かなかった。
眠れなくなっていることに。
食事量が減っていることに。
週末も仕事を考えていることに。
夜中に目が覚めることに。
身体が出していた小さな信号に。
ある火曜日だった。
青柳は若手と会議室にいた。
ホワイトボードには企画案が並んでいる。
議論は盛り上がっていた。
突然だった。
胸の奥がざわつく。
心臓が強く脈打つ。
息が浅くなる。
視界が遠のく。
一瞬で分かった。
来た。
一年以上感じていなかった感覚だった。
いや。
正確には小さな不安はあった。
だがここまで強いものは久しぶりだった。
青柳の顔色が変わる。
若手が気付く。
「青柳さん?」
青柳は立ち上がった。
「ごめん。」
そこまで言って会議室を出た。
廊下。
呼吸が乱れる。
震えが来る。
恐怖が来る。
そして最悪だったのは、
その後にやってきた感情だった。
絶望。
駄目だった。
結局治ってなかった。
一年半頑張ったのに。
結局元には戻れない。
その考えが頭を埋め尽くした。
その日の夜。
青柳は古川へ電話した。
久しぶりだった。
自分から電話するのは。
「課長。」
声が震えていた。
「どうした。」
古川はすぐに察した。
何かあった。
「発作出ました。」
沈黙。
青柳は続ける。
「結構強かったです。」
「そうか。」
「やっぱり駄目ですね。」
古川は何も言わなかった。
青柳は続けた。
「結局治ってなかった。」
「・・・」
「一年半やってきた意味ありました?」
電話の向こうで、
古川は窓の外を見ていた。
実は古川自身も落ち込んでいた。
会議室から出てきた若手から話を聞いていたからだ。
順調だと思っていた。
安心していた。
先が見え始めていた。
だから古川も内心ではショックだった。
しかし。
その瞬間。
ふと思い出した。
青柳と初めて病院へ行った日のこと。
会社へ来るだけで汗だくになっていた日のこと。
駐車場から建物まで歩けなかった日のこと。
コンビニへ行けなかった日のこと。
孤独に潰れそうになっていた日のこと。
そして今。
青柳は会議室で企画を議論していた。
若手を指導していた。
自分から電話をかけてきた。
そこまで戻ってきている。
古川は静かに言った。
「青柳。」
「はい。」
「ひとつ聞く。」
「・・・」
「発症した頃のお前だったら、あの会議室に入れたか?」
電話の向こうが静かになる。
「・・・無理でした。
「だろ。」
「・・・」
「じゃあ進んでる。」
青柳は何も言えなかった。
古川は続ける。
「再発じゃない。」
「・・・」
「一緒に仕事し始めたから出たんだ。」
「・・・」
「戦える場所まで戻ってきた証拠かもしれん。」
もちろん医学的な話ではない。
課長としての言葉だった。
それでも青柳の胸に少し届いた。
治ったか。
治っていないか。
その二つだけで考えていた
しかし人生はそんなに単純ではない。
歩ける日もある。
歩けない日もある。
前進する日もある。
後退する日もある。
それでも全体として見れば、
前へ進んでいることもある。
電話を切った後。
青柳は一人でベランダへ出た。
夜風が吹いている。
発作への恐怖は残っていた。
将来への不安もあった。
だが少しだけ思った。
治ることだけがゴールではないのかもしれない
恐怖を抱えながら働く。
不安を抱えながら企画をする。
それも人生なのかもしれない。
遠くの街灯が静かに光っていた。
完全な回復ではない。
大団円でもない。
だが彼らは少しずつ、
もっと大切なことに近づき始めていた。
人は元には戻れないことがある。
それでも前へ進むことはできる。
その意味を、
古川も青柳もまだ学び始めたばかりだった。
最終章 それでも企画をする
2年後。
朝8時15分。
青柳博は、オフィスの入り口の前に立ち
深呼吸をする。
そして数秒だけ目を閉じた。
これが彼の日課だった。
発症する前にはなかった習慣だ。
今も薬は飲んでいる。
通院も続いている。
強いストレスがかかると胸がざわつくこともある。
発作の予兆を感じる日もある。
だから朝、自分の状態を確かめる。
今日は行けそうか。
今日は無理をしない方がいいか。
そうやって一日を始める。
以前の自分はそんなことを考えたこともなかった。
オフィスへ入る。
若手社員たちが既に集まっている。
モニターには企画資料。
ホワイトボードには付箋が並んでいる。
次期モビリティの価値提案検討会だった。
青柳は席に座った。
自然な動作だった。
だが2年前には想像もできなかった。
「青柳さん、昨日言ってた件なんですけど。」
若手が声をかける。
「うん。」
「この仮説、まだ違和感があるんです。」
青柳は資料を見る。
しばらく考える。
そして静かに言った。
「ユーザーを見てない。」
「え?」
「この仮説、会社の都合だよ。」
若手が資料を見直す。
そして数秒後、苦笑した。
「ああ・・・本当だ。」
周囲が笑う。
何気ない会話だった。
だが青柳は、その光景を少しだけ愛おしく感じた。
病気になる前。
自分は成果ばかり見ていた。
市場シェア。
販売台数。
利益。
商品力。
もちろん今も大切だ。
だが以前より、人を見るようになった。
なぜその人はそう言ったのか。
なぜその人は迷っているのか。
なぜその人は怒っているのか。
なぜその人は笑っているのか。
理解できないことも多い。
しかし昔より少しだけ立ち止まれるようになった。
それは病気が教えてくれたことだった。
昼休み。
古川守は社員食堂の窓際でコーヒーを飲んでいた。
ふと視線を上げる。
青柳が若手たちと話している。
笑っている。
ホワイトボードの前で何か説明している。
普通の光景だった。
だが古川は思う。
あの日。
午前4時13分。
突然の電話。
「死ぬかもしれません。」
あの震える声が、今でも耳に残っている。
そこから二年。
正直、何度も迷った。
優しくし過ぎたかもしれない。
厳し過ぎたかもしれない。
連絡し過ぎたかもしれない。
放っておき過ぎたかもしれない。
今でも分からない。
きっとこの先も分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
諦めなかったことだ。
そして青柳もまた。
諦めなかった。
午後。
企画レビューが行われた。
部長たちが並ぶ。
厳しい質問が飛ぶ。
以前なら青柳も中心に立っていた場所だった。
質疑応答の途中。
若手社員が言葉に詰まった。
会議室に沈黙が落ちる。
青柳は手を挙げた。
「補足してもいいですか。」
部長がうなずく。
青柳は説明を始めた。
生活者が抱える小さな不満。
移動時間の意味。
車室空間の価値。
人の感情。
言葉が自然につながっていく。
会議室が静かになる。
誰もが聞いていた。
企画者としての青柳を。
レビュー終了後。
若手が言った。
「助かりました。」
青柳は笑った。
「俺も昔は助けてもらってたから。」
それは本心だった。
人は一人で生きていない。
病気になって初めて知った。
自分を支えてくれた人たちがいた。
古川。
チームメンバー。
医師。
人事。
何気ない言葉をかけてくれた人たち。
誰一人として完璧ではなかった。
正しい答えを持っている人もいなかった。
それでも皆、自分なりに隣を歩いてくれた。
夕方。
オフィスの窓から夕陽が差し込んでいた。
帰る準備をしていると、
古川が近寄ってきた。
「青柳。」
「はい。」
「最近どうだ。」
青柳は少し考えた。
そして笑った。
「まあまあです。」
二人とも笑った。
いつからか、それが合言葉になっていた。
絶好調でもない。
最悪でもない。
まあまあ。
それが今の二人にはちょうど良かった。
会社を出る。
夕焼けが空を染めている。
青柳は立ち止まり、空を見上げた。
二年前。
自分は元に戻ることばかり考えていた。
病気になる前の自分。
失う前の人生。
元通り。
しかし今は違う。
人は元には戻らない。
失われたものもある。
戻らないものもある。
離婚した事実も変わらない。
病気も消えていない。
それでも。
人生は続く。
仕事も続く。
人との関係も続く。
そして。
企画も続く。
未来を考える。
誰かの暮らしを想像する。
人の幸せを考える。
それが企画者の仕事だ。
たとえ自分が苦しみを抱えていたとしても。
いや、
苦しみを知ったからこそ見えるものもあるのかもしれない。
青柳は歩き出した。
明日も発作が起きるかもしれない。
不安な夜もあるだろう。
それでも。
また会社へ来る。
また企画をする。
また誰かと議論をする。
それでいいと思った。
完治ではない。
成功でもない。
奇跡でもない。
ただ生きている。
ただ働いている。
ただ企画をしている。
そして、その隣には仲間がいる。
古川はオフィスの窓から、その背中を見送っていた。
理解できない苦しみは、この世界にたくさんある。
きっと人は最後まで、誰かの痛みを完全に理解することはできない。
それでも。
理解できないから離れるのではなく、
理解できないまま隣を歩くことはできる。
それがこの2年間で学んだことだった。
夕陽は静かに沈んでいく。
明日もまた、新しい一日が始まる。
青柳博は、その明日へ向かって歩いていた。
それでも企画をする。
それが、彼の生き方だった。
エピローグ
普通の日
午前8時27分。
モビリティ内装企画部のフロアには、いつもの朝が流れていた。
誰かがコーヒーを淹れている。
誰かがメールを確認している。
誰かが前日の会議メモを読み返している。
特別なことは何もない。
どこの会社にもある、ごく普通の朝だった。
古川守は、自席でパソコンを立ち上げながらフロアを見渡した。
3年前と比べると、メンバーも少し入れ替わった。
若手も増えた。
組織も変わった。
担当車種も変わった。
世の中も変わった。
だが、変わらないものもある。
フロアの奥。
窓際の席。
青柳博がパソコンに向かっていた。
いつもの光景だった。
モニターを見ながら何かを書いている。
時々考え込む。
ふと窓の外を見る。
またキーボードを叩く。
ただそれだけ。
古川は少し笑った。
3年前。
青柳の席は空いていた。
朝来ても空いている。
昼になっても空いている。
夕方になっても空いている。
その空席を見るたび、
胸が苦しくなった。
あの時の自分は、
どうすれば良いのか分からなかった。
励ますべきか。
待つべきか。
仕事を任せるべきか。
休ませるべきか。
正解ばかり探していた。
だが今は思う。
最初から正解などなかったのだ。
人は企画書ではない。
分析しても答えは出ない。
ロジックだけでは届かない。
誰かの人生には、
数式にできないものがある。
古川はコーヒーを一口飲んだ。
その時だった。
若手社員が青柳の席へやって来た。
「青柳さん。」
「ん?」
「これ、見てもらえますか。」
企画書だった。
青柳は資料を受け取る。
数分読む。
そして言った。
「これさ。」
「はい。」
「ユーザーがいない。」
若手が苦笑する。
「またそれですか。」
「またそれ。」
二人が笑う。
周囲も笑う。
何気ない会話だった。
古川はその光景を見ていた。
ああ。
こういうことだったのか。
そう思った。
病気は消えていない。
青柳は今でも通院している。
薬も飲んでいる。
体調が不安定な日もある。
発作への恐怖も残っている。
失ったものは戻らない。
あの電話が鳴る前の人生には、
もう二度と戻れない。
しかし。
戻らなくても良いのだ。
古川はようやく、その意味を理解した。
人はよく言う。
「元気になって良かったね。」
「治って良かったね。」
「元に戻れて良かったね。」
だが人生はそんなに単純ではない。
元に戻らない人もいる。
病気を抱え続ける人もいる。
傷を持ったまま生きていく人もいる。
それでも笑う。
それでも働く。
それでも誰かを愛する。
それでも未来を考える。
それでも生きていく。
青柳は今も企画をしている。
苦しみを知った企画者として。
失うことを知った人として。
理解されない孤独を知った人として。
そして古川は今も管理職をしている。
答えを持つ上司としてではなく、
共に迷う人として。
共に悩む人として。
共に歩く人として。
昼休みのチャイムが鳴った。
若手たちが立ち上がる。
「飯行きましょう。」
「青柳さんも行きます?」
「行く。」
三人が連れ立って歩いていく。
その背中を見送りながら、
古川は窓の外へ目を向けた。
青空だった。
3年前のあの日も、
こんな空だったかもしれない。
だがもう思い出せない。
覚えているのは一つだけだった。
理解できない苦しみを前にした時、
人は無力だ。
完全に理解することはできない。
代わりに苦しむこともできない。
治してあげることもできない。
だが。
理解できないまま、
隣を歩くことはできる。
立ち止まった時は待つことができる。
歩き出した時は一緒に歩くことができる。
それだけはできる。
そして本当は、
それだけで十分なのかもしれない。
オフィスの扉が開き、
若手たちの笑い声が遠くへ消えていった
古川は静かに立ち上がる。
午後からは企画レビューがある。
いつも通りの仕事だ。
いつも通りの日常だ。
そして、その「普通の日」が、
どれほど尊いものなのかを、
彼らは知っていた。
「隣を歩く」
~理解できない苦しみを前に、それでも人は寄り添えるのか~
その答えは最後まで見つからなかった。
けれど二人は知っている。
答えは見つけるものではなく、
歩き続ける中で少しずつ形になるものなのだと。
だから今日もまた、
それぞれの人生を歩いていく。
隣を歩く誰かと共に。
「隣を歩く」 完
