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葬られた古代王朝「高志国と継体天皇の謎」を読みました。②

「日本書記」の国産み項の冒頭に「越州」

 『日本書記』の冒頭、国産みはオノゴロ嶋から始まって、「佐渡と隠岐」の双子を産んだあと、「越州」(こしのしま)を産んだとある。
 この「越」が高志国である。『古事記』には越州誕生の話はない。

 次に記紀に登場する古志は、第十代崇神天皇の北陸路を含む四道将軍の派遣、『常陸国風土記』にはヤマトタケルが東征の帰路、部下を古志の偵察に出したという記録。

 さらに『日本書記』では崇峻天皇二年(580)、阿倍臣が古志視察に派遣されたとあって、こう書かれている。

 『二年の秋七月の壬辰の朔月(さくげつ)≪ついたち≫に、近江臣満を東山道の使に遣はして、蝦夷の国の境を観しむ。宍人臣雁を東海道に使して、東の方の海に浜へる諸国の境を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣わして、越等の諸国を観しむ」(岩波文庫版『日本書記』第四巻、76頁)

 この高志国がいつの間にか歴史から消えてしまった。
 第一に、『高志国風土記』がないからである。歴史学者は文献第一主義だから伝承や遺跡だけでは証拠が薄いと敬遠するテーマなのだ。

 乙巳の変(大化元年・645)で蘇我入鹿が粛清されると、父親の蘇我蝦夷は自邸に火を放って『天皇記』『国記』もろとも焼却し自害した。
 貴重な文献が失われた。ひょっとして、『高志国風土記』は完成していたが焼失したのかもしれない。
 風土記は『出雲国風土記』だけが完全に近いかたちで残るものの播磨、常陸、肥前などの風土記は逸文だけ。

 考古学的な証拠品は、糸魚川の長者原遺跡、長岡の馬高遺跡などが夥しく発見されているにもかかわらず、日本の歴史学は狭量な学閥支配が強いために考古学との関連性を位置づけたがらない。怠慢なのか、資料が無さすぎるのか、いや、学閥の沽券にかかわるからかも知れない。

 しかし、後世の歴史書の逸文や、大伴家持の残した万葉の歌、あるいは時代が大きく下って江戸時代の松尾芭蕉の「奥の細道」でも、古志にまつわる伝承が出てくるのである。
 そのうえ各地で発見されたのが古文書を代替えする漆紙文書と木簡だ。
 たとえば長屋王の屋敷から出土した夥しい木簡には、古志からの貢ぎ物が記されていた。

 第二に、出雲と高志国が政治的に連合したため、ヤマト王権の脅威と認識したからだろう。
 オオクニヌシノミコトは高志の女王とされたヌナカワヒメの評判を聞きつけ、后のひとりにした。この結婚は『古事記』にかなり長い恋歌とともに明記されている。二人の政略結婚とは、出雲が高志国と同盟したという意味である。

 ヌナカワヒメとオオクニヌシノミコトとの結婚を美しき恋物語として
『古事記』は勇壮に描いた。実質は政略的な背景があった。
 オオクニヌシノミコトは恋の歌を詠んだ。ヌナカワヒメも歌で返した。
ここは『古事記』の圧巻、名場面である。
 この時のオオクニヌシノミコトは、八千矛(やちほこ)と名乗った。

 第三に、高志国が記紀に登場するのは崇神天皇の四道将軍派遣で、北陸道に大彦命(オオビコノミコト)を遣わしたとある。古志の人々が抵抗したとは書かれていない。そのまま新潟あたりまですんなり進軍し、会津へと折れて別軍と合流した。

 四将軍のうち古志派遣隊と、東北蝦夷へ向かった別動隊が、会津(相津)で合流した記述を最初は≪著者・私は≫は疑わしいと思った。・・・・・・

 現場に行くと、全く想像とは異なって、河川による交通路が古代から活用されていた。現在の福島県耶麻郡西会津町は、古代より高志から、あるいは関東から、そして北方の出羽、陸奥からの交通網が開かれていたため、三つの文化圏が重なった。

 会津地方の多くの河川は、この西会津で合流し、阿賀野川となる。これが新潟に注ぎ込む。河川を利用して、古代より人々との物資の行きがあった。

 それは南会津の寺前遺跡から信濃系の土器が出土し、或いは長岡の馬高遺跡から出た火焔土器とはスタイルの異なった、鶏頭冠突起型の土器も出土している。
 こうした事実から、会津地方も古志の文化影響圏にあって、崇神天皇の御代からすでに交流が活発だったことが偲べる。
 したがって、大毘古命(大彦命)らの会津での合流は可能だったのだ。

 ちなみに伊佐須美神社(福島県大沼郡会津美里町)の主祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉命にくわえ、四道将軍の筆頭だった大毘古命と会津で合流した健沼河別命である。
 ただし幕末になって大彦命・武渟川別命の合祀が唱えられ、四柱を祀ることになった経緯がある。

 この神社は岩代国一之宮であり、崇神天皇の御代に創紀されたという伝承がある。会津では古墳時代前期に前方後円墳が築造されており、大和朝廷の伸長ぶりが窺える。
 
 八千矛の恋物語から四道将軍派遣までは、まるっきり高志国の歴史は空白である。また四道将軍の古志国派遣にしても軍事制圧とは書かれていない。おそらく偵察程度だったのではないか。

 なぜならその数十年後、『日本書記』に崇神天皇のひ孫にあたるヤマトタケルが常陸平定の帰路、古志の偵察に吉備武彦を派遣したと記されているからだ。

 つぎに史書が特筆するのは第二十六代継体天皇である。そのときまで随分と空白が長い。

 このときのヤマト王権は政治体制を構築し、統一をめざす大和朝廷として飛躍的に権力を拡大させて中央政府らしき政治実態が成立していた。
 継体天皇は越前から都へ上がったという文脈で「古志の大王」として登場する。つまり、古志の「越前の大王」が大和朝廷の天皇(すめろぎ)となったのだ。
 これは歴史上、もっと注目されてよい。大和朝廷の主役(すなわち天皇)は、歴史に埋もれていた古志からやって来たのだ。

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※ あまりに細かい話になったので、話題を変えます。
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 有名な歌人、「海ゆかば」でも知られる大伴家持が古志国のなかの越前伏木(ふしき)に置かれた国府に駐在した史実は動かせない。
 なにしろ「海ゆかば」の歌詞に「大君の辺にこそ死なめ」の一節がある。
 恋闕(れんけつ)の情念、そうした認識(天皇のために死ぬという美意識)がこの時代には固定化しつつあったということだろう。

 越前国司には、渤海語や漢詩文に堪能な官人がとくに配されていた。
 越中に定住した渤海官人(すなわち亡命者)から渤海語を学んだようである。また、渤海使は宣明暦を持ち込んだので、日本の官暦となって貞享元年(1684)まで用いられた。

 渤海使が大和朝廷に献上したものには毛皮が多く、とくに豹、ヒグマ、虎、熊の皮革品。貂(てん)皮300張を聖武天皇に献上した記録がある。
 交易センターは、長屋王邸で、木簡の出土で、このことは判明した。
 ほかにニンジン、蜂蜜も含まれていた。

 日本からは、綿、絁(あしぎぬ)、糸などの繊維加工品ならびに黄金、水銀、椿油などであった。
 結局、日本海を航海してきた渤海使は、合計2500名を超えたが、知識人が多かったという特徴がある。しかも、日本への亡命が多数発生した。
 なお、記紀がまったく伝えないのは新羅からの使節だ。夥しい人数が何回も何回も凄まじい量の土産を持参して日本に朝貢している。


 糸魚川駅の山側に拓ける天津神社、奴奈川神社は、「出雲大社、諏訪大社と親戚」という謳い文句を案内板に掲げている。この天津神社の境内社として、女王ヌナカワヒメを祀る奴奈川神社がある。

 上越市の居多(こた)神社もヌナカワヒメを祀る。主神は勿論、オオクニヌシノミコトとヌナカワヒメと、その子タケミナカタ。
 地元の人々は縁結び、安産の祈願にやってくる。古志国が平和であった時代を象徴するような親子三人の石像。

 大正八年に天津神社から弥生時代の遺物である土器破片などが
出土し、白玉、鎌銭片なども出土した。
 当時の「奴」は奴隷の意味でなく、「翡翠の玉」を意味した。
(『日本書記』に「瓊≪ぬ≫は玉なり」とある)
 いのちの甦生を促すパワーを秘めていると信じられていた。
 永遠の命の復活を祈願する祭器が翡翠の装飾品だった。

 出雲を統治していたオオクニヌシノミコトと女王ヌナカワヒメは夫婦になり、その子タケミナカタ(諏訪大社の主神)は信濃を治めた。
 ゆえに三カ国は、親戚同士である。出雲と高志は夫婦。信濃はその子供。

 古志の翡翠と、信濃の黒曜石と、出雲の銅鐸に象徴される鉱物の交易、
交換で密接な交流があり、この「三国連合」は、まさにヤマト王権にとって脅威だった。

 出雲大社の高層建築、諏訪大社の御柱祭り、そして糸魚川・天津神社の巨木柱を祭る祈り。糸魚川の寺地遺跡から、縄文後期に四本の巨木柱が立てられていたことで知られ、西金沢のチカモリ遺跡も、能登の真脇遺跡も巨木遺跡が残る。

 ヤマト王権へ出雲国の国譲りでは、オオクニヌシノミコトが高天原から派遣されたタケミカヅチノミコトとフツヌシとの最終的話し合いで決着した筋立てになっており、以前に出雲に組み込まれていた高志国は、そのままヤマト政権に編入されたという物語が出来上がった。
 タケミカヅチは鹿島神宮の主神、フツヌシは香取神宮の主神である。
 この二神は一対の軍神である。

 オオクニヌシノミコトの御先祖はスサノオである。
 スサノオは天照大神から高天原を追放され、あちこち流れ、やがて出雲に行きつき、八俣大蛇=ヤマタノオロチを退治した。切った大蛇の尻尾から出てきた剣が三種の神器となる草薙の剣だった。

 『古事記』には「高志の八俣の大蛇」と意図的な記述がある。
 鋭利な剣が使われていたという記述は、鉄器の存在を意味する。
 また大蛇に八頭の頭があると聞いて八つの壺に強い酒を入れて酔わせたという意味は、この時代に酒があった証し、日本文化の高さを物語る。
 出雲系神社に行くと境内社に松尾神社がある。お酒の神様である。
 したがって出雲は文明的にも高度に拓けていた事態を意味する。
 当時の地政学で朝鮮半島、シナ大陸に近いのは日本海側だった。

 遣隋使、遣唐使が教科書に何回も出てくるのは大和朝廷史観に立脚するからで、反面、軽視されているのが「高句麗使」と「渤海使」。または「新羅使」に関しては無視である。

 前者の高句麗使節が古志の海岸に着岸した記録は四回。
 遣渤海使は八世紀から九世紀まで十三回の公式記録のほか、二十回前後の非公式な来航があった。これらは、出羽あたりから隠岐までの日本海沿岸各地に来着もしくは潮流した。特に加賀、越前にやってきた。

 いわゆる「縄文海進」は氷河期の終わり頃から始まり、ピークが6500年前から6000年前、縄文中期である。
 たとえば現在の千葉県の大半は孤島だった。海は群馬県藤岡あたりまでで関東の地名を見ても内陸部に曳舟、舟橋、入舟など河川運搬の船着き場の名前が残っている。

 海は現在より70メートルくらい高かった。大阪も北浜、船場、中之島、堂島などの地名は海だったことをしめす。難波の意味は、海の難所ということである。

 内陸部で夥しい貝塚の発見(関東でも大森貝塚、王寺貝塚、千葉の加曾利貝塚など)は海岸に近い場所でなく、むしろ高台である。この地理的な事実こそ端的に縄文海進の痕跡を物語る。

 一方、日本海沿岸は潮の干満差が小さく、東北から北陸、出雲にかけて多いのは、潟(たとえば八郎潟や宍道湖≪しんじこ≫)。
 海水が陸部を侵食し湖を形成したが、塩分が多いため干拓しても稲穂は実らない。しかし、大きな河川に繋がるので河上との交易は盛んだった。

 三内丸山遺跡から、糸魚川の翡翠、信濃川の黒曜石、岩手県久慈の琥珀が出土しているように、交易は盛んだった。漆、アスファルトなども、北海道と東北の縄文集落で交易があったことは、近代の考古学で証明されている。
 漆は中国から渡来したのではなく九千年前に北海道で産出されていた。

 国内航路ばかりか、北九州は対馬を経由して半島との行き来があり、日本海沿岸は半島北部(高句麗や渤海国)との交流、交易、使節の交換が盛んだった。

 渤海国(698~928)は、いまの中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿岸地方にかけて存在した国家。大祚栄(だいそえい)により建国され、周囲との交易で栄えた。唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたものだったが、十世紀に契丹(遼)に滅ぼされた。

 木簡で確認されたことがある。大和朝廷の統治システムに参入されて以後、古志の諸地域からの調(貢ぎ物)の品目を見ると、特産品に際立った特徴がある。
 若狭はモズク、わかめ、鮭など海産物も豊富だが、とくに塩である。
 越前以北となると、繊維製品が主流となり、加えて、越前からいりこ、ナマコ。加賀、能登もそうだ。
 越中からは白畳綿、越後からは杵、布、鮭などが目立つ。いづれも木簡から確認されたが、繊維製品が際立っていた。

 かくして、「日本海文化圏」は縄文遺跡が明らかに示すように、古い歴史の基盤があり、大和朝廷よりも高度な文明があり、また人口が多かった。

 藤岡謙二郎の古代人口推計に拠ると、若狭=2万8300、越前=12万800、加賀=8万600、能登=4万5300、越中=9万8700、越後=9万7900、佐渡=2万200となっている(熊田亮介・坂井秀弥編『日本海域歴史体系・古代編Ⅱ』、清文堂の244頁)。

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※ 長くなり過ぎたので、著者のエピローグからの言葉を引用して終わりにしたいと思います。
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 継体天皇の頃、日本の人口はおよそ200万人と推定される。
 鹿島平和研究所の人口推測調査(2013年11月28日)という研究レポートでは西暦800年(平安朝初期)の推定人口を551万人としており、そのグラフから筆者が推定した数字である。
となると、帰化人・渡来人は、大川周明説に従うと1万8000名もいた。
 
 ということは、現在の日本の人口に換算すると110万人になって、ちょうど在日中国人の数(不法滞在、留学性を含む)と合致する。
 しかし、現代は飛行機が飛び交っているが、当時の運搬手段と言えば粗末な舟、悪天候なら難破したから命がけだった。
 いかに彼らが圧政を忌避し、別天地を求めて必死となって日本に亡命したかが了解できる。
 この渡来人が引き起こした問題は、古代から現代にいたるまで本質的に変化はない。・・・・

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※ 長くなりました。

書いてないところが多いのですが、著者のエピローグの言葉、
この渡来人が引き起こした問題は、古代から現代にいたるまで本質的に変化はない」は、意味深だと思います。
 (この本は、2021年出版だから)今はもっともっと深刻な状態で、隠された意図で渡ってくる人も多いと思い、深く憂慮せざるを得ませんね。

 長い文章、読んでくださり、ありがとうございました。


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