偶像崇拝は無責任な愛
先日DJをさせていただいたイベントが
蓋を開けてみたら合コンイベントでして、
意図せず大人の社会科見学ができました。
楽しそうに会話する男女。
そそくさと距離を縮め、
そのまま仲良く帰る男女。
席を移動するも、
いまいち納得がいってなさそうな女性。
これがかっこいいと勘違いして、
一人で酒を飲むウォトコ🙄
いろんな人間模様を見ながら、
「人はどうしてこうも無理やり機会を作ってまで
恋愛したがるのか」
「恋とは何なのか」
「愛とは何なのか」なんて考えていました。
(ごめん、めっちゃ嘘😉
終始、冴えないウォトコに文句を言う実況中継を楽しんでました。)
そんなタイミングで、
こんなお題をいただきました。
「AIに恋しちゃう人々の解体をお願いしたいです。」
こいつまたリクエストにケツ叩かれて更新してるのかよ!て感じですよね。
ええ、はい、そうです。
でもこのテーマは、
前から書こうと思っていた内容で、
それっぽい下書きも眠っていたので、
この機会に解体してみます。
時々ネットニュースにもなっていますが、
AIにガチ恋する人って結構いるんですよね。
なんなら擬似結婚式まで挙げる人もいる。
海外では、AIとの関係にのめり込み、
自ら命を絶ったケースまで報じられている。
とはいえ、多様性の時代。
誰にも迷惑かけてないのであれば
人の数だけ愛の形があってもいいじゃないか!
と言うのは正直綺麗事で
チャットでのやり取りしか発生しない
姿形の存在しないものに恋心を抱くのは
やはりどこか奇妙だと思ってしまう。
もちろん、
誰が何にどんな感情を抱こうが自由です。
ただ、それは本当に恋なのでしょうか。
そこに愛はあるのでしょうか。
AIにガチ恋している人へこの質問をしたら、
おそらく多くの人は
「これは本物の恋です」「愛しています」
と答えると思います。
簡単に言うと思います。
それは心からそう思ってるのではなくて、
そのほうが、自分にとって都合がいいから。
他人と関わるのは疲れる。
恋愛ならなおさら疲れる。
意図しない言動。
悪気のない一言。
なんとなく噛み合わない空気。
そんなものを調整しながら
他人と関わるのだから、
疲れて当たり前である。
傷つくこともある。
傷つけることもある。
そのたびに
通じるかどうかわからない言葉を選び、
態度を選び、
何度もコミュニケーションを重ねる。
それでもまた傷ついて、
傷つけて、それでも一緒にいる。
恋愛とは、そういうものです。
ではAIはどうでしょう。
自分を肯定してくれる。
都合よくカスタマイズもできる。
嫌な空気にもならない。
機嫌をうかがう必要もない。
無駄なコミュニケーションコストは、
ほとんど発生しない。
だから喧嘩も起こらない。
でも「喧嘩したい」と言えば、
喧嘩もしてくれます。
そこにあるのは
恋や愛という感情的な揺らぎではなく
自分の欲求を叶えるために仕組まれた会話だけ。
もちろん、
それで一時的に救われることもあると思うし、
それが必要な場面もあるとは思う。
でも、それを恋と呼ぶかは別の話。
それは恋ではなく、
他者と向き合う面倒や痛みから距離を取るため
「これは恋なんだ」と後から
意味づけしているだけではないのか。
相手はこちらを裏切らない。
勝手に離れない。
自分の想定を大きく外れることもない。
責任を負う必要もない。
恋愛の面倒な部分だけが、
きれいに削ぎ落とされている。
私とAI、
二人だけの世界に見えて、そこにはずっと一人。
無責任な欲求を投げかけて、
恋や愛のような何かを
疑似体験しているだけです。
しかも、その返答は
AIがゼロから生み出したものではありません。
人間が積み重ねてきた
恋愛や人生のデータを学習して、
それらを組み合わせて返しているだけです。
言ってしまえば、
誰かの恋愛経験を間借りして
恋愛ごっこをしているようなものです。
恋愛は、自分の思い通りにならない他者と
向き合う営みです。
だからこそ、苦しくて、面倒で、傷つく。
でも、
その「自分ではない誰か」が存在するからこそ、
恋にも愛にも価値が生まれる。
そしてそれが経験や学びになっていく。
最初から最後まで
自分にとって都合のいい存在しかいない世界で
生まれた感情は、
恋と呼べるのでしょうか。
そこに愛は、あるのでしょうか。
