父と3月10日
先日、父が遺した忘備録や詩を押入れの箱から開いた
古い匂いがしみ込み、色あせ、父の懐かしい文字、ワープロで打たれた文字
ひととき、何十年も昔のことに思いが馳せた
東京大空襲から80年
父は西会津の寒村の生まれで女一人、男5人の兄弟がいて三男坊だった
中学校を卒業すれば就職は当然のことで、父も川崎にあった軍需工場に就職が決まり上京する準備をしていた
以下、父の雑記
昭和5年生まれの私は、昭和20年3月に、当時の国民学校高等科2年を卒業し、川崎市の日本鋳造株式会社という軍需工場へ採用が決定していたのである。
出発予定の3日ばかり前に京浜地区の大爆撃(3月10日の空襲だと思われる)によって、交通機関はもとより、行先の工場なども
どのようになったのか、見当もつかないくらいの混乱であったようだ。
出発前日に11キロの道のりを歩いて磐越西線の最寄りの駅に行ったところ、東京方面への切符は発売停止ということであった。
不安な気持ちで帰宅して数日後に「喜多方国民動員所」から「日本鋳造株式会社」行きは見合わせになった通知があった
昭和20年の生家の家族状況
母、義理の父、長兄と嫁、その子ら二人、父、弟二人合わせると9人家族であった
道端の土手や、学校の土手が豆畑になる位食料事情がひっ迫していた時期であったから、貧農でなくとも10人の口を養うのは大変だったろう
まして、五反百姓とか、水吞み百姓とか言われるほどの「くらし」だったのだから、「口」が少ない方がいい、と思われるのも極めて当然のことだった
一人だけの姉は嫁いで3人の子持ちになっていたし、
次兄は兵隊で中支へ渡っていた
家に残る兄を除けば、4番目に生まれた私のところへ家を出る順番が回ってきたのも自然の成り行きだった
(昭和49年9月記)
昭和20年8月終戦
その後、父は生家を出て
仕事に就くまでは紆余曲折があっただろう
もし、川崎の軍需工場に行っていたとしたら・・・
戦争が終わった工場で工員として働いていたとしたら・・・
当然父と母とは巡り合うことはなかっただろう
空襲は無差別にたくさんの人の命を奪い、
人々の人生を変えた
余談だが、去る2月2日は父の日32回目の命日だった
亡くなる前日は北関東の実家の辺りは大雪で、病院に行くのに難儀した
病院の部屋に入ると父は穏やかな表情で、窓の外の降りしきる雪をみていた
故郷の会津の冬を思い出していたのだろうか
己の人生の終末に何を考えていたのか
胸騒ぎと不安に押しつぶされそうだった32年前
この季節になると思い出す
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上記は父が亡くなる少し前に書かれた詩
父が書きためた雑記を読むと
姿と共に
戦中戦後の混乱や貧しさがストレートに
伝わってくる
そして、今の時代も世界の様々なところで
惨禍が起きている
鎮魂
今日も読んでいただきありがとうございます。
あかね空の3月10日でした
ヘッダーの写真は2020年磐越西線「ばんえつ号」とすれ違った時のもの
